第四十五話 宰相は俺の暗殺を命じた
宰相の命令を受けた密偵長は、報酬の額ではなく、証拠を残すなという一文を見た。
仕事が成功しても失敗しても、切り捨てられるのは自分たちだ。
彼は命令書を燃やす前に、日付だけを別の紙へ控えた。
バルザックは王国の敗北を恐れていたのではない。
敗北の理由が明らかになることを恐れていた。
かつてシリウスが提出した兵糧の不足報告は、宰相の指示で書き換えられている。
横流しされた穀物の一部は、今も彼の一族の倉庫にある。
シリウスが生きて王国へ戻れば、帳簿と証言が結びつく。
王に許される前に、口を封じなければならない。
バルザックは地下書庫の鍵を確かめた。
十年前、シリウスが指摘した兵糧の不足は、実際には宰相一族の倉庫への横流しだった。
古い帳簿には、受領印が残っている。
彼が帝国軍の指揮官として生きている限り、その印の意味を証言できる。
「事故に見せろ」
宰相は金貨を積んだ。
バルザックは暗殺者たちを地下の書庫へ集めた。
依頼は単純に聞こえた。
「帝国のシリウスを消せ」
だが帝国軍の警備図を開くと、宿営地には二重の巡回線があり、炊事場にも夜番がいる。
暗殺者の頭目は首を振った。
「兵の配置を知らずに踏み込めば、全員死にます」
宰相は机を叩いた。
「金は倍出す」
頭目は金貨を見ても笑わなかった。
密談の相手は、顔に古傷のある男だった。
「将軍の寝所へ入るのは難しい」
バルザックは銀貨を積んだ。
「ならば料理人を買収しろ」
「食事は複数の者が確かめます」
宰相は舌打ちした。
シリウスが作った補給管理の仕組みは、今や暗殺の障壁にまでなっている。
皮肉に気づくと、彼はさらに銀貨を上乗せした。
男たちは帝国軍の野営地へ向かう前に、王国の補給所で荷札を偽造した。
ところが番号は前月の様式だった。
帝国軍では敵軍の補給票も集めており、書記官がその違いを知っている。
暗殺者たちは気づかない。
大軍を動かすために作られた細かな記録が、三人の侵入者を追い詰めることになる。
宰相が差し出した通行証には、王国軍の公式印章が押されていた。
もし捕まれば、国王の関与を疑われる。
部下が危険を指摘すると、バルザックは「偽造品だと言えばいい」と言い捨てた。
彼が守りたいのは王国ではなく、自分の地位だった。
かつての追放に関わった記録が掘り起こされれば、責任の矛先は国王だけでなく宰相にも向く。
しかし密談には思わぬ綻びがあった。
宰相が使った伝令符は、以前にも軍資金の不正送金に利用されていた。
帳簿を調べていた若い書記官は、同じ符号が現れたことに気づく。
彼は上司に報告せず、写しを封筒に入れた。
上司が宰相の息のかかった人物だと知っていたからだ。
勇敢さは剣を抜くことだけではない。
危険を知りながら証拠を残すことも、勇気だった。
シリウスは警備長から不審な荷車の報告を受けた。
「門を閉じましょう」と警備長は進言した。
だが閉じれば、食料を運ぶ近隣の農民も締め出される。
「人の出入りを止めるな。荷の受け渡し場所を一か所に集め、照合を二人で行え」
シリウスは警戒と生活の両立を選んだ。
相手が自分の命を狙っていても、住民の暮らしを盾にする気はなかった。
暗殺者の一人は若い女だった。
彼女の弟は徴兵され、王国軍の敗走で行方不明になっている。
宰相は「任務を果たせば弟を探す」と約束した。
女はその言葉に縋りたかったが、弟の名さえ尋ねない男を信用できなかった。
依頼書の端にある『失敗した場合は関係を否認する』という文を、彼女は見逃さなかった。
バルザックの手元には、成功を知らせる合図が届く予定だった。
だが夜が明けても使者は戻らない。
彼は机の上の帳簿を閉じ、鍵をかけた。
失敗したなら、雇った男たちは捕まる。
捕まれば、自分の名が出るかもしれない。
「口を割る前に消せ」
そう命じかけ、廊下の足音に口をつぐんだ。
帝国軍の宿営地では、シリウスがセリーナとの会談記録を整理していた。
敵国の宰相が自分を狙う可能性は想定していたが、警備を強めることで民間の出入りを止めるつもりはない。
「料理人と負傷兵の家族を疑うな。確認するのは通行証と持ち物だ」
ガイルは渋い顔をした。
「お前は自分の命に頓着がない」
「私一人を守るために、守るべき人を締め出したくないんです」
帝国の宿営地では、シリウスが負傷者名簿の確認を終えたところだった。
警備隊長が王国側の動きを報告する。
「不自然な商隊が国境の渡し場を通りました」
シリウスは直ちに商人を捕らえろとは命じなかった。
「積み荷を調べ、正規の通行者まで止めるな」
不安に駆られてすべての道を塞げば、薬や食料まで届かなくなる。
一方、帝国の宿営地ではパルラが薪の束を見て首をかしげていた。
「この木、うちの炊事場では使わないよ」
小さな違和感が門番へ伝わり、荷車は検査台へ回された。
暗殺者たちはまだ、誰に見破られたのかさえ知らなかった。
密談の席には、金貨の袋が三つ置かれた。
暗殺を請け負う男は一つを持ち上げ、重さを確かめた。
「成功した証拠は」
バルザックは封筒を差し出した。
「首ではなく、本人の印章を持ち帰れ」
男は鼻で笑った。
「印章なら盗める」
宰相は答えた。
「ならば遺体を確認した者の署名も必要だ」
命の値段を決める会話が、帳簿の確認のように進んだ。
だが男の部下の一人は、帝国領へ向かう途中で足を止めた。
街道沿いの村に、王国軍から帰された弟が住んでいたのだ。
弟は足を引きずりながら畑を耕していた。
密偵長は命令書に目的地しか書かれていないことに気づいた。
帝都での侵入経路も撤収の手段も、現場に丸投げされている。
「成功すれば宰相の功績。失敗すれば我々の独断というわけか」
部下の一人が黙って家族のいる町の名を口にした。
密偵長は初めて、任務を受けること自体が部下の命を担保にしていると理解した。
暗殺を命じられた密偵の一人は、帝国へ渡る前に弟を捜す女と出会った。
二人は同じ宰相の使いを名乗りながら、互いの任務を知らされていない。
女は弟の生存証明を求めたが、密偵が見せられたのは金貨の袋だけだった。
「成功したら弟を返すと、あなたにも言ったのか」。
女の問いに密偵は答えなかった。
自分もまた、失敗したら家族に責任が及ぶと脅されていたからだ。
夜の渡し場で、密偵は命令書の控えを靴底に隠し直した。
命を狙う相手より、命令を出した者のほうが怖い。
その事実が、彼の足を一度だけ止めた。
「帝国の将軍に殺されかけたのか」と兄が尋ねると、弟は首を振った。
「殺せるのに殺さなかった人だ」
兄は何も言えなかった。
依頼を断れば自分の家族が危険にさらされる。
受ければ、弟を帰した男を殺す。
どちらの道にも、帰れない誰かがいる。
宿営地の炊事場では、パルラが新しい食材の納入記録を照らし合わせていた。
いつもの商人なら、荷車の車軸に青い紐を巻いている。
今夜の荷車にはそれがなかった。
代わりに、王都でしか使われない結び目がある。
パルラは顔を上げたが、騒がなかった。
近くの見張りに「水をもう一桶お願い」と声をかけ、桶の底に検査を求める短い伝言を忍ばせた。
疑いを叫べば相手が動く。
静かに伝えれば、まだ誰も傷つかずに済む。
依頼を受けた女は弟の名を書いた布切れを袖に縫い込んだ。
宰相は弟を探すと言ったが、行方不明者の名簿すら見せなかった。
彼女はその矛盾に気づきながらも、他に頼れる相手を知らない。
金貨より重いものを袖に隠して、国境の夜道を歩き出した。
バルザックは暗殺者を送り出したあと、手元の名簿を火にくべた。
燃え残った一枚には、かつてシリウスを追放する根拠とされた虚偽の報告を書いた者の名が残っていた。
宰相はそれも火に落とした。
しかし紙を燃やしても、過去に起きたことまで消せるわけではなかった。
暗殺の命令書を受け取った密偵は、封蝋に宰相家の紋章があるのを見て動きを止めた。
「成功しても名を残すな。失敗したらお前一人の罪だ」。
バルザックの言葉に、密偵は自分が使い捨てにされると悟った。
彼は命令書の端を切り取り、逃亡時に備えて靴底へ隠した。
小さな紙片が、のちに命令系統をたどる手掛かりになる。
密偵は宰相の部屋を出る前に、報酬の半額を求めた。
「成功後だ」とバルザックは言った。
「失敗したら私の家族は」
返事はなかった。
密偵はそこで、任務の成否にかかわらず家族が人質になると理解した。
廊下で同僚とすれ違うと、普段なら交わす合図をやめた。
誰かに計画を知らせるには、まず自分が生き残らねばならなかった。




