第四十二話 俺が兜を脱ぐと、王国の将軍たちは言葉を失った
会談に臨む王国の将軍たちは、帝国の軍服を着た男の顔をまだ見ていなかった。
彼らが恐れていたのは敵の剣だけではない。
自分たちの過去の判断を、本人の前で問われることだった。
停戦の幕舎には武器を持ち込まない取り決めだったが、王国の若い将軍は腰の剣に手を置いたまま入ってきた。
ガイルの眉が動く。
シリウスは二人の間に立ち、剣帯を外すよう促した。
「こちらも同じようにします」
その一言で、帝国の衛兵も短剣を預けた。
相手にだけ危険を引き受けさせては交渉は始まらない。
停戦の会談には、王国側からエドガー参謀を含む三人が同席した。
帝国の幕舎には両国の旗が一本ずつ立てられ、机の上に剣は置かれていない。
セリーナが名前を告げても、老将は黙っていた。
シリウスはゆっくり兜の留め具を外した。
額の古傷を見た瞬間、エドガーの手から手袋が落ちた。
「まさか……お前なのか」
かつて泥の地図を持って幕舎へ通った青年が、敵国の軍装で目の前にいた。
王国側の若い将軍は、シリウスの顔を見たあとも疑いを捨てなかった。
「顔が似ているだけだ。十年も経てば別人になる」
エドガーは静かに答えた。
「似ているから信じるのではない。この男は、会談の席でも負傷兵の搬送路を先に確保した。あの日、私の幕舎で同じことを主張した軍師を、私は覚えている」
その言葉に若い将軍は唇を噛んだ。
「帝国の大将軍が顔を隠すとは、臆したか」
若い将軍が挑発した。
シリウスは答えず、机に負傷者交換の一覧を置いた。
エドガーだけがその文字の形に目を止めた。
数字の七を斜めに払う癖。
昔、夜通し作戦書を書いていた部下と同じだった。
老将の指先が震える。
だが確かめるのが恐ろしかった。
追放を止めなかった自分の過去まで、目の前に現れるからだ。
兜の留め金が小さく鳴った。
シリウスが顔を上げた瞬間、王国側の三人は言葉を失った。
若い将軍が椅子を蹴って立つ。
「馬鹿な。あの男は無能として追放されたはずだ!」
シリウスは怒らなかった。
「その命令は事実です。しかし、私が生きていることも事実です」
エドガーは立ち上がれなかった。
十年前に聞いた声が、年月を経ても同じ静けさを保っていた。
シリウスは卓上に王国軍の負傷者名簿を広げた。
数人の名には、かつて同じ砦で訓練をした記憶があった。
だが懐かしさを口にすれば、帝国軍の将校たちには不公平に映る。
彼はすべての名を同じ大きさで読み上げ、移送の順番を負傷の重さだけで決めた。
セリーナはその手つきを見つめた。
彼は王国を忘れたのではない。
忘れないまま、公平であろうとしている。
「なぜ王国を攻める」
王国の若い将軍が絞り出した。
「帝国領に侵攻したのは王国軍です」
シリウスは声を荒らげなかった。
「私は侵攻を止めました。降伏兵は解放し、負傷者の遺品も返しました」
若い将軍は反論しようとして、卓上に置かれた帰還者名簿に目を落とした。
そこには彼の故郷の名があった。
シリウスは彼に恥をかかせるつもりはなかった。
相手が事実を認められる道を残すことも交渉だった。
「謝罪する資格が、私にあるだろうか」
エドガーの問いに、シリウスはすぐには答えなかった。
彼が欲しかったのは、十年前の言い訳ではない。
「将軍。今ここにいる負傷兵の名前を、あなたは何人知っていますか」
エドガーは口を閉じた。
シリウスは一覧を指した。
「その名前を確かめ、帰すことができるなら、私たちの話はそこから始められます」
会談の途中、王国側の伝令が駆け込んだ。
前線の小隊が停戦を知らず、帝国の見張りへ矢を放ったという。
若い将軍が立ち上がるより早く、シリウスは両軍の伝令を同時に送り出した。
「相手の非を責めるのは後だ。今は二射目を止めろ」
エドガーも頷き、王国側の旗信号を追加するよう命じた。
敵同士の二人が同じ地図に身を乗り出したのは、十年ぶりだった。
会談は三刻に及んだ。
双方の軍医が負傷者の数を突き合わせ、行方不明者の捜索範囲を定めた。
王国側は侵攻軍の撤収期限を明言できず、シリウスも勝手に停戦の延長を約束できなかった。
合意できない点を無理に隠さず、書面に残す。
若い将軍は何度も不満を漏らしたが、エドガーが静かに制した。
「まず、今日救える者を救おう」
エドガーは十年前の方位磁針を取り出した。
「返す機会を失ったと思っていた」
シリウスは受け取らず、そっと蓋を閉じた。
「それは将軍がお持ちください。私には今、帝国の兵を導く責任があります」
老将の肩が落ちた。
セリーナは二人を見つめた。
再会は赦しではない。
誰も過去を消せず、これからの選択でしか償えないのだと、三人とも理解していた。
事件が収まると、エドガーは「お前の案を王に届けられなかった」と打ち明けた。
シリウスは首を振った。
「将軍が届けても、採用されたとは限りません」
慰めではなかった。
責任を一人に集めれば、仕組みの欠陥が見えなくなる。
エドガーは目を伏せた。
若い軍師の言葉を聞きながら、何も変えられなかった自分を、今度こそ見過ごしたくなかった。
会談の終盤、王国側の若い将軍が机を叩いた。
「撤退すれば我々は敗軍だ。兵の家族に何と説明する」
ガイルが口を開くより早く、シリウスは地図を裏返した。
そこには両軍の戦死者数ではなく、避難できずに残る集落の位置が描かれていた。
「今ここで戦闘を再開すれば、最初に燃えるのはこの三村です。撤退の説明は難しいでしょう。しかし、村を失った理由を説明するほうが、ずっと難しい」
若い将軍は拳を握ったまま、椅子に座り直した。
エドガーは自分の印章を押す前に、条文の一つを書き直した。
『負傷者の搬送は双方の軍事行動に利用しない』。
シリウスが「その文言なら同意できます」と答えると、老将はわずかに目を細めた。
昔は師が弟子の書いた作戦を直した。
今は敵軍の指揮官同士として、一枚の紙を直している。
「シリウス」と呼びかけかけて、エドガーは言い直した。
「帝国軍指揮官殿。約束は守る」
シリウスも肩書きで返した。
「王国軍将軍殿。こちらも」
その距離が、かえって互いの誠意を証明していた。
将軍たちのうち一人は、シリウスの顔を見て思わず剣の柄に触れた。
セリーナがその手を押しとどめる。
「ここは負傷者交換のための会談です。彼の正体を確かめるために兵を危険にさらさないでください」
シリウスも護衛を一歩下がらせた。
「私の名をどう報告するかは、あなた方が決めればいい。まず、運ぶべき負傷者の人数を合わせましょう」
兜を脱いだシリウスを見て、王国の老将が一歩後退した。
「お前が書いた退却案を、私は十年前に破り捨てた」。
老将の隣では若い士官が顔を上げる。
「では、あの谷で失われた部隊は……」。
老将は答えられなかった。
シリウスは剣に手を伸ばさず、机に置いた停戦協定を指した。
「今日の話を十年前の裁判にしないでください。まず、谷に残った負傷者を引き上げる」。
老将は震える指で署名した。
そのあと小声で問う。
「お前は私を許すのか」。
シリウスは首を振った。
「許すかどうかを決めるのは、帰らなかった兵の家族です。私にできるのは、同じ命令を繰り返させないことだけだ」。
若い士官は協定書を抱えた。
正体を知った衝撃は、翌日の救助命令に変わった。
幕舎を出ると、交換を終えた負傷兵の荷車がゆっくり動き始めていた。
王国兵の一人が、帝国軍の軍医へ折り畳んだ紙を渡した。
読み書きのできない彼の代わりに、隣の寝台の帝国兵が家族への手紙を書いてくれたという。
軍医はそれを受け取り、届け先を確かめた。
エドガーは荷車を見送りながら、十年前にシリウスが繰り返した言葉を思い出した。
『地図の上では駒でも、帰る家は一つずつ違います』。
帰り際、若い将軍はエドガーにだけ聞こえる声で言った。
「あの男が本物なら、私たちは何のために十年戦ってきたのです」
エドガーはすぐに答えなかった。
「それを考えるためにも、生きて帰るのだ」
若い将軍は初めて、敗北を恥ではなく問いとして持ち帰った。
夕刻、合意書には双方の印章が並んだ。
停戦そのものは短く、国境の戦争は終わっていない。
それでも負傷者の交換と遺体の捜索だけは続けられる。
シリウスは署名を終えてから、セリーナに小さく言った。
「私たちは、まだ同じ地図の上に立っている」
セリーナは答えた。
「ならば、道を消さないでください」
収容所へ戻る道で、セリーナはシリウスに問いかけた。
「あなたの名が王都に届けば、国王は停戦を破棄するかもしれません」
「それでも、名を隠して救護を続ければ、私を知る者に責任を押しつけることになる」
彼は自分の署名がある合意書の写しを差し出した。
「王国側にも渡してください。破られたら、誰が破ったか分かるように」
セリーナはその紙を受け取ったが、すぐにはしまわなかった。
「十年前、あなたが追放されたとき、私は何も言えませんでした」
「今は言えます。だから、次に同じことが起きたら止めてください」
セリーナは頷いた。
再会を祝う言葉はなかった。
しかし翌朝、王国の軍医たちは合意書を携え、約束された道を通って負傷者を迎えに来た。
「お前が、あの軍師なのか」王国の将軍が問い直した。
シリウスは兜を足元に置いた。
「そうです。ですが、私の名を確かめるために負傷兵を待たせるつもりなら、話はここまでです」。
将軍の背後から担架が一つ現れた。
将軍は言い返そうとして口を閉じ、道を空けた。
セリーナはその動きを見て、十年前には誰もできなかったことが、いま目の前で起きたと悟った。




