第四十一話 セリーナは敵陣に向かい、俺の名前を叫んだ
セリーナが白旗を持つと、王国の衛生兵が引き止めた。
「向こうが撃てば、あなたの名前も名簿に載ります」。
彼女は頷いた。
「だから、一人で行く。担架を運ぶ人まで危険にさらしたくない」。
セリーナが国境を越えた理由は、ただ旧友に会うためではなかった。
王国軍の野戦病院では薬が底をつき、前夜には担架の上で二人の兵が息を引き取った。
上官は帝国に助けを求めるなと言ったが、彼女は命令書の余白に負傷者の名前を書き並べた。
軍旗の色で痛みが変わるわけではない。
今ここで動かなければ、明日にはその名簿がもっと長くなる。
彼女は剣を外し、白い布を槍の先に結んだ。
白旗を持つ騎士が見えたとき、帝国軍の弓兵は一斉に弦を引いた。
セリーナは護衛を一人も連れていない。
王国の紋章を縫い付けた外套には、乾いた泥が付いていた。
「ここから先は危険です!」
見張りが叫ぶ。
「危険なのは知っている!」
彼女は立ち止まらなかった。
「シリウス! いるのでしょう!」
十年前に城門で呼び止められなかった名が、国境の風を切った。
中立地帯に運び込まれた担架の一つから、若い王国兵がシリウスを見上げた。
「将軍……あなたは、本当に王国を捨てたのですか」
答えようとしたとき、傷口から血が滲み、軍医が二人の間に割って入った。
シリウスは兵の手を握り返すことしかできなかった。
セリーナはその沈黙を見ていた。
十年前のシリウスなら、王国のために命を懸けろと説いただろうか。
いや、彼はいつだって、まず傷を塞げと言ったはずだ。
「その名を呼ぶな!」
王国側の監視兵が叫んだ。
セリーナは振り返らなかった。
帝国の歩哨も、彼女の言葉が罠ではないと信じきれずにいる。
風に翻る白布はひどく薄く、矢を防いでくれそうには見えなかった。
彼女は声を張った。
「十年前、あなたは私に言った。敵の負傷者にも水を渡せ、と。あの約束を、私はまだ守っています!」
シリウスは幕舎から出ると、まず両軍の射線を確かめた。
彼女を迎えに走れば、味方が危険にさらされる。
そこでガイルに左右の弓兵を下げさせ、伝令には王国側へ停戦の合図を返させた。
セリーナを通す道を、誰の善意にも頼らず作ったのだ。
十年ぶりの再会は、互いに抱きつくことからではなく、十歩の距離を安全に歩かせる命令から始まった。
救護所の前では帝国兵と王国兵が同じ桶から水を汲んでいた。
最初は互いを睨んでいた二人が、やがて包帯を渡し合う。
ところが王国側の監視将校が現れ、「敵に助けられた事実を口外するな」と命じた。
セリーナは一歩前に出た。
「では、この命令書に負傷者の名を全員書いてください。助けられた事実を消すなら、命を救われた者の名も消すことになります」
将校は返答できなかった。
ガイルは即座に射撃停止を命じたが、弓を下ろさない兵もいた。
先月、王国軍の矢で弟を失った兵士だった。
シリウスは彼の前へ歩き、手を伸ばさずに言った。
「お前の怒りは正しい。だが白旗の相手を射れば、明日こちらの負傷兵も助からない」
兵士の指が震え、ようやく弦が緩んだ。
セリーナはその光景を見て、目元を押さえた。
彼の言葉の選び方は、何も変わっていなかった。
「シリウス様……」
セリーナの声がかすれた。
シリウスは微笑もうとして失敗した。
追放の日、彼女は城門の向こうに立っていた。
自分を呼ぶ声は聞こえたが、振り返れば彼女まで罰せられると思い、足を止めなかった。
「久しぶりだ、セリーナ」
「どうして、何も言わずに」
「言えば、君は止めただろう」
彼女はうなずき、涙をぬぐわなかった。
シリウスは軍医に、薬品の受け渡しを両軍の立会人の前で記録するよう指示した。
善意だけで始めた取引は、次に疑惑が起きたとき簡単に壊れる。
運搬する荷車には赤い布を結び、通過時刻を双方の歩哨に伝えた。
夜間の誤射を避けるため、明け方まで移送を中断する判断も下した。
助けたい一心で急ぐことが、かえって命を奪う場合もある。
彼女が差し出したのは、停戦の要求書ではなく病院の在庫表だった。
包帯三十巻、消毒用の酒二瓶、飲み水は翌朝まで。
シリウスは読み終えると、軍医に照会を命じた。
「薬は送れる。ただし双方の負傷者を同じ経路で運ぶ。こちらの捕虜だけを優先することはしない」
セリーナは深く頭を下げた。
礼を言うためではない。
かつての軍師が、まだ自分の知る軍師であると確かめたからだ。
「私は王国軍の騎士です。密使ではありません」
彼女は武器を預け、通行を許された場所だけを歩いた。
シリウスは幕舎の入口で待った。
二人の間には、追放の日から積もった十年があった。
「生きていたんですね」
「お前も」
それだけでセリーナの唇が震えた。
しかしシリウスはすぐに周囲の将校へ告げた。
「会談は記録に残す。彼女の立場を危険にさらす密約はしない」
再会の喜びより先に、守らなければならないものがあった。
セリーナは幕舎の隅で、かつてシリウスが渡した古い地図を広げた。
折り目は擦り切れ、雨の染みが残っている。
「これのおかげで、村の人たちを逃がせました」
シリウスは地図の右下に書かれた自分の文字を見つけた。
『川が増水したら、北の丘を使うこと』。
十年前に書いた注意が、いま誰かを生かしている。
その事実が、追放された夜の痛みを少しだけ変えた。
日が傾くころ、担架を載せた最初の荷車が中立地帯を渡った。
王国兵も帝国兵も、車輪の音を聞きながら武器を握っていた。
シリウスはセリーナに言った。
「私はもう王国の軍師ではない。だが王国の民を見捨てたわけでもない」
彼女は顔を上げた。
「ならば、その言葉を将軍たちにも聞かせてください」
翌日の会談を求める彼女の目には、再会の涙とは別の決意が宿っていた。
翌朝の搬送に備え、シリウスは野戦病院の外に二つの掲示板を立てさせた。
一方には搬送を終えた者、もう一方には行方を捜す者の名を書く。
王国兵の名を帝国兵の名の下に隠すことはしなかった。
セリーナは白旗の柄に救護隊の印を結びつけた。
「これは降伏の合図ではありません。負傷者の引き渡しを求める合図です」
敵味方の見張りに同じ説明を繰り返し、双方の指揮官から通行を認める短い書面を受け取った。
名前を叫ぶだけでは、会いたい相手に届く前に兵が矢を放つかもしれない。
彼女はその危険を、自分の覚悟だけで片づけなかった。
停戦の印を付けた担架が境界を越えるとき、王国の若い弓兵が弦を引いた。
担架の下から帝国兵の短剣が見えたからだ。
「武器を運んでいる!」と叫ぶ声に、周囲の槍が一斉に動く。
セリーナは担架を止め、自分で布をめくった。
短剣は負傷兵の腰帯に挟まったままだった。
「抜いて、ここへ置きます。負傷者は動かしません」。
彼女がそう言うと、帝国の衛生兵も手を離した。
誰も先に相手へ近づかなかった。
二人の監視兵が刃を確認し、武器だけを境界の箱へ入れる。
ようやく担架が進んだ。
セリーナは弓兵を責めなかった。
「あなたが気づかなければ、次の担架で撃ち合いになったかもしれない。だから確認の方法を決めましょう」。
敵陣へ叫んだ名前よりも、その一つの手順のほうが、翌朝には多くの命を救った。
掲示板の前で、片腕を吊った帝国兵が立ち尽くしていた。
「こいつは俺の友人を斬った隊の兵です」
指差した名は、昨夜運ばれた王国の少年兵だった。
「助けるのが正しいと分かっていても、腹が立つ」
シリウスは名簿を取り下げなかった。
「腹が立つままでいい。だが、お前が倒れたときも誰かが同じ決断をしてくれなければ困る」
兵は長く黙ったあと、掲示板の下に置かれた水桶を満たした。
セリーナはそのやり取りを、物陰から聞いていた。
十年前の彼女は、シリウスの言葉を優しさだと思っていた。
今は違う。
憎しみを消せない者にも守れる規則を作ること。
それは優しさより、はるかに難しい仕事だった。
「王都へ戻れば、私が帝国に内通したと言われるでしょう」と彼女が告げると、シリウスは会談の議事録を二部用意させた。
「一部は君に。もう一部は両軍の立会人に預ける。君一人の証言にしない」
セリーナは受け取った紙を胸に押し当てた。
守られているのは自分の名誉ではない。
次に白旗を持つ誰かが、撃たれずに済む可能性だった。
セリーナは王国の監視兵にも、受け取った薬の数量を読み上げた。
誰かが後日「敵から賄賂を受けた」と言い出しても、負傷者の数と照らし合わせられるようにするためだ。
監視兵は無言で書き留めた。
敵を信じることと、記録を残すことは矛盾しない。
その小さな合意が、白旗の下にもう一本の道を作った。
別れ際、セリーナは「戻ってきてほしい」と言いかけて飲み込んだ。
帝国の軍服を着た彼に、その願いがどれほど残酷か分かったからだ。
代わりに「明日も負傷者を運んでよろしいですか」と尋ねる。
シリウスは頷いた。
「明日も道を開けておく」
再会の約束は、二人だけのものではなかった。
まだ名前も知らない負傷兵たちが、その道を必要としていた。
負傷者を運ぶ道には、王国と帝国の旗を並べなかった。
代わりに白布を二枚、橋の両端へ結んだ。
王国兵が担架を下ろしかけると、帝国の衛生兵が駆け寄った。
互いに剣へ手を伸ばしかけたが、担架の上の若者が苦しそうに息を吸った。
その音だけで二人は同時に手を離した。
セリーナは患者の名前を記し、シリウスは受領した人数を確認した。
約束は言葉ではなく、目の前で一人を運び切って初めて形になった。




