第四十話 王国の女騎士セリーナが、俺の正体に気づいた
セリーナがシリウスの名を最後に聞いたのは、追放の日だった。
王宮の石段で彼は一度だけ振り返り、何も言わずに去った。
彼女は呼び止められなかった。
命令に逆らえば騎士の地位を失う。
それを言い訳にして、恩人が侮辱されるのを見ていた。
それから幾度もの戦報が届いた後、帝国軍の捕虜解放文書を読んだ瞬間、あの日の沈黙が胸に戻ってきた。
セリーナが手にしたのは、敵軍の捕虜解放文書だった。
そこには見慣れた癖のある字で、負傷者の移送順序が記されている。
「歩ける者を先に通すな。
担架が通れる幅を確保せよ」
かつてシリウスが王国軍の救護所に貼った注意書きと同じ文だった。
セリーナは紙の端を指で押さえた。
偶然だと思おうとしても、胸の奥が否定した。
セリーナは捕虜解放文書の余白に、細い縦線が三本引かれているのを見つけた。
シリウスは昔、担架の通路を示すときに必ずその印を使った。
王宮の者は些細な癖だと思うだろう。
しかし彼女は、その線がどれほど多くの兵を救ったかを知っていた。
セリーナは捕虜解放文書の筆跡を何度も確かめた。
負傷兵の移送順序、後送路の幅、故郷へ戻る兵に渡す食料。
どれもかつてシリウスが王国軍で徹底させた決まりだった。
彼女は昔の地図を取り出す。
端には彼の筆で「逃げ道を残せ」
と書いてある。
似た考えの軍師はいるかもしれない。
しかし、その言葉を同じ順番で使う者を、彼女は一人しか知らなかった。
セリーナは夜明けに馬を出し、かつてシリウスが使っていた訓練場を訪ねた。
壁には古い標語が薄く残っていた。
「剣は守るために抜け」
若い騎士たちは誰が書いた言葉か知らない。
彼女は剥がれかけた文字を指でなぞり、手紙を胸元へしまった。
国王の命令に背くことが怖くないわけではない。
だが無意味な突撃を命じられたとき、部下を死なせないために何をするか。
その答えだけは、もう決めていた。
セリーナは古い地図を広げ、シリウスが十年前に書いた小さな文字を見つけた。
「橋は壊す前に、渡るべき人が残っていないか確かめる」
帝国軍の戦い方は、その教えと一致していた。
だが確信はまだ証拠ではない。
彼女はマックの遺した記録に目を落とした。
生前の老将が繰り返した「生きて帰れ」
という言葉が、胸に蘇った。
その言葉に、王国軍が失いつつあるものが滲んでいた。
セリーナはかつてシリウスに教わった避難路の地図を広げた。
赤い印の横に「橋は増水時に使うな」
と書いてある。
今の帝国軍が住民を避難させた経路にも、同じ注意が付されていた。
戦場で敵を見分けるのは旗ではない。
その人が何を守ろうとするかだと、彼女は思った。
セリーナは追放の日の自分を思い返した。
王宮の階段で、シリウスは荷物を一つしか持っていなかった。
誰も声をかけなかった。
彼女も同じだった。
いま彼の名を口にすることは、自分の沈黙を認めることでもある。
「会えたら謝ります」
彼女はマックの墓前で呟いた。
だが、謝罪のためだけに行くわけにはいかない。
今、守るべき兵がいる。
彼女はマック将軍の遺品を保管する軍務局を訪ねた。
「帝国のシリウス将軍は、あのシリウス様なのでしょうか」
返事をする者はいない。
机の上には、生前のマックが残した密書の控えが置かれていた。
セリーナは自分に言い聞かせた。
「まだ、確かめたわけではない」
「でも、私はあの方が、兵を助ける順番を変えないことを知っています」
追放の日、シリウスから渡された古い避難路の地図が、今も彼女の鞄にあった。
マック将軍が生前に残した覚書には、こうあった。
『確証がないまま名を広めるな。
彼を救うどころか、追い詰める』
彼女は頷いた。
シリウスが生きていることへの喜びと、敵将になったという事実への恐怖が胸の中でぶつかった。
マックの遺した記録を読んでも、本人だと断定できる証拠はなかった。
セリーナもそれ以上は追及しない。
敵国の将軍に手紙を書けば、内通の罪に問われる。
それでも彼女は紙を広げた。
「あなたが王国の敵になったのなら、私は王国の人々を守るために立ちます」
最後の一行を書き終えると、彼女は封を閉じた。
かつての恩師と再び向き合う日は、近い。
セリーナは王宮の古い救護所へ足を運んだ。
壁には十年前の掲示がまだ残っている。
「担架を先に通せ」
筆跡も、文字の端に引く三本の線も、帝国軍の捕虜解放文書と同じだった。
偶然だと言い聞かせてきた疑いが、確信に変わる。
「生きていたのですね」
彼女は誰もいない廊下で呟いた。
夜、セリーナは一通の手紙を書いた。
「あなたが敵として現れても、私は王国の兵を守ります。
それが、あなたに教わったことだから」
宛名を書こうとして、筆が止まる。
届ければ内通の疑いをかけられる。
それでも彼女は手紙を破らず、封をした。
忠誠とは国王の命令に従うことなのか。
それとも、国に生きる人々を守ることなのか。
答えを出す日は、もう遠くなかった。
セリーナは徴募兵の隊列に目を向けた。
鎧の大きさが合わず、歩くたびに肩当てがずれる少年がいる。
彼女は近づき、留め具を直してやった。
「名前は?」
「エドです」
少年は震える声で答えた。
シリウスがかつて教えたのは、戦術だけではない。
兵を数字ではなく名前で呼ぶことだった。
セリーナはその教えを、今日から自分の命令に変えると決めた。
手紙を封じた後、セリーナは古い避難路の地図を取り出した。
端には追放の日に付いた泥の跡が残っている。
あの日、彼は自分の身を守るより先に兵の退路を案じた。
セリーナは地図を畳み、剣帯の内側にしまった。
いつか会うなら、敵味方の旗ではなく、あの地図を見せようと決めた。
セリーナは封をした手紙を鞄にしまい、古い避難路の地図を広げた。
十年前、シリウスはそこに「退く道を知る者だけが、前へ進める」と書いた。
彼女はその言葉を当時、臆病者への慰めだと思っていた。
今は違う。
退路を残すのは、生きて帰る者を信じることだ。
彼女は夜明けの見張りを交代し、王国軍の兵が逃げ込める谷を確かめに向かった。
封をした手紙の宛名は空白だった。
敵国の将軍へ届ければ内通と疑われる。
セリーナは封筒を胸元へしまい、剣帯を締め直した。
まだ渡せない言葉でも、なかったことにはできない。
追放の日に何も言えなかった自分へ、ようやく返事を書いたのだ。
セリーナは追放の日の光景を思い出した。
城門の外でシリウスは振り返らず、ただ「兵の名前を忘れるな」と言った。
彼女はあの言葉を励ましだと思っていた。
今なら分かる。
王が国を語るとき、シリウスはいつも一人ひとりの兵の顔を見ていた。
だからこそ敵国で捕虜を助けた将軍の署名が、彼女には見知らぬ名に見えなかった。
セリーナはシリウスの古い避難路の地図を広げた。
そこには当時の彼女が書き込んだ「橋が落ちたらどうする」
という質問と、シリウスの返答が残っていた。
「橋が落ちる前に、歩けない人の道を考える」
帝国軍の捕虜解放文書にも、同じ順番で退路が記されている。
彼女はようやく確信した。
名前でも筆跡でもない。
人を守るための判断の癖が、国を追われても変わっていない。
だからこそ、今度は自分がその教えに応えなければならない。
夜明け、セリーナは封をした手紙を鞄にしまった。
追放の日、彼を呼び止められなかった自分が、今度は何を守れるだろう。
城門では新たな徴募兵が列を作り、母親が少年の外套の襟を直していた。
セリーナは剣帯を締め直す。
「王国の人々を守る。
そのためなら、王の命令にも問いを返す」
彼女は列の最後尾へ歩き出した。
シリウスと再会する前に、果たすべき仕事があった。
セリーナは解放文書の署名を見つめた。
筆跡は似ている。
だが、似せることはできる。
彼女は三人の帰還兵を別々に呼び、同じ質問をした。
「負傷した兵は、どこへ運ばれた?」
三人は異なる場所から帰ったのに、同じ答えをした。
「退路の脇に救護所があった。
敵味方を分けなかった」
セリーナは昔の訓練場を思い出した。
シリウスは勝ち方より先に、傷ついた兵を運ぶ道を教えていた。
「生きていたのね」
喜びの直後に、胸が冷えた。
王国が追放した男は、今、王国の兵を救う敵将になっている。
セリーナはシリウスの名を口にする前に、彼が残した退路の図を広げた。
「この線を引ける人を私は知っている」
部下は証拠にならないと答えた。
彼女も頷いた。
「だから署名と救護所の記録を照合する」
三つの資料が一致した夜、セリーナはようやく確信した。
再会を願う気持ちと、王国の命令を疑う責任が同時に胸に生まれる。
彼女は翌朝、白旗の使者に志願した。
「もし彼が本当にシリウス様なら、まず直接お詫びしたいのです」
副官が驚いて顔を上げた。
「あなたは追放を決めた方ではありません」
「止めなかった。あの日、王宮の階段で」
セリーナは封筒を二つ用意した。
一通は帝国軍への正式な通行申請、もう一通は、十年間一度も送れなかった謝罪の手紙だった。




