第三十九話 国王は敗北を認めず、さらに十二万人を動員した
敗北の報告が届いた翌朝、国王は新たに十二万人を動員すると宣言した。
宮廷の貴族たちは拍手したが、徴募台帳を管理する役人の顔は青ざめた。
先の八万人すら十分に養えなかった国に、十二万人分の食料と馬と荷車があるはずがない。
宰相バルザックは「徴税を前倒しすればよい」と答えた。
農民が種麦まで差し出せば、来春の収穫が消えることには触れなかった。
動員令の数字を見た会計官は、必要な小麦の量を計算し直した。
間違いではなかった。
国中の備蓄を集めても足りない。
彼は報告書に不足分を赤字で記し、上司へ差し出した。
上司は「王に見せる前に直せ」と言った。
だが不足分は、消しゴムで消せるものではない。
徴募官が村へ来たとき、麦の刈り取りはまだ終わっていなかった。
「二人出せ」
と命じられた村長は、働ける男が四人しかいないと答えた。
徴募官は帳簿に赤い印を付けた。
拒めば畑を没収するという意味だ。
少年が父の袖をつかむ。
父は笑って見せようとしたが、口元が震えた。
王都の軍議では十二万という数に歓声が上がった。
その数字の一つひとつに、こうした食卓がある。
農村では種麦を徴発する兵と村長が言い争った。
村長は袋の前に立ち、「これを持っていけば春に何も植えられない」と訴えた。
徴発兵も同じ地方の出身だった。
彼は命令書を握りしめ、村長の目を見られなかった。
徴募台帳を見た役人は、同じ家から二人目の働き手を取る印が押されていることに気づいた。
畑を耕す者がいなくなる。
役人は上官に訴えたが、「王命だ」
の一言で退けられた。
翌朝、村の広場には空の荷車だけが並んだ。
徴募役人が農村へ着くと、村長は麦の種袋を抱えて立っていた。
「これを持っていかれたら春に蒔くものがない」
役人も農家の生まれだった。
だが王命に逆らえば職を失う。
彼は袋の数を数えながら、台帳の余白に「来春の作付けに必要」と記した。
小さな文字が王の命令を止めるとは思えない。
それでも書かずにはいられなかった。
王都の市場では小麦の値が跳ね上がり、徴募の札を受け取った男が店先で立ち尽くしていた。
妻は幼子を抱き、夫に言った。
「帰ってきて。
勝たなくてもいいから」
その声は王宮まで届かない。
兵站担当の老参謀は軍議で補給の再計算を求めたが、国王は「臆病者の言い訳」と切り捨てた。
老参謀は拳を握った。
戦死したマック将軍の警告が無視されたときと、何も変わっていなかった。
徴募令の翌日、王都の穀物市場で小麦が値上がりした。
農村では種麦を残すか軍に差し出すかで家族が争った。
十二万人を集める命令は出せても、十二万人を養う倉庫はない。
兵站担当の老参謀は輸送に必要な荷車の数を示し、国王に計画の延期を進言した。
「兵を恐れているのか」
と王は怒鳴る。
「飢えた兵が倒れることを恐れています」
徴募官が訪れた村では、昨年の不作で納屋が半分空になっていた。
「馬は何頭出せる」と問われ、村長は「畑を耕す二頭だけです」と答えた。
徴募官は規定どおり一頭を差し押さえたが、村長は黙って手綱を握った。
「この馬を連れていけば、来年の麦は誰が作る」
徴募官は答えられず、命令書の印を見つめた。
村の鍛冶屋は軍から武具の注文を受けたが、農具を直す仕事を断れば冬の耕作に響く。
彼は炉の前で立ち尽くした。
戦争は戦場に行く者だけでなく、そこに残る者からも選択肢を奪っていった。
王宮の会計官は新たな動員令に必要な食料を計算した。
数字を三度見直しても、倉庫の在庫では足りない。
宰相は税の前倒しを命じたが、畑から種麦を奪えば来春の収穫が消える。
会計官は計算書の末尾に「再考を要す」
と書き、判を押した。
王に届く前に消されると知りながら。
帝国の幕舎では、ガイルが十二万の報を机に叩きつけた。
「今度こそ国王自身が出てくるかもしれん」
シリウスは兵力の表を閉じ、穀物の収穫時期を記した地図を広げた。
「軍を増やすほど、国は畑から人を奪います。
敵が進軍する前に、補給が破綻するかもしれません」
しかし彼は敵国の飢えを待つ案には賛成しなかった。
「飢えた国から来る兵は、戦う理由を失うとは限りません。
奪わなければ家族が死ぬと思えば、かえって必死になる」
帝国側にも動員の報が届いた。
ガイルは顔をしかめたが、シリウスはすぐに兵を増やせとは言わなかった。
「十二万人という数と、十二万人が同時に国境へ来ることは違います」
徴募、訓練、装備、糧食、輸送。
それぞれに時間が必要だ。
彼は敵国の兵を侮らず、王の命令が現実に変わるまでの時間を見積もった。
その猶予こそ、次の戦争を止める最後の機会だった。
シリウスは帝国の参謀たちに、敵の新兵が集まるまでの時間を見積もらせた。
十二万人を数えるだけなら王命一つで足りる。
だが靴、鍋、荷車、馬草を揃えるには季節が要る。
「相手が整う前に攻めるのですか」
とリュカが尋ねる。
「違う。
戦争を始める前に、止める使者を送る」
シリウスは国境の村々へ避難計画を届けると同時に、王国軍の指揮官宛てに交渉の文書を書き始めた。
帝国の軍議では、十二万人という報告に将校たちが色めき立った。
シリウスは黒板に三つの数字を書いた。
徴募された人数、装備を受け取った人数、国境へ到着できる人数。
「この三つは同じではありません」
しかし彼は敵を軽んじなかった。
追い詰められた国王は、兵の準備が整う前に進軍を命じるかもしれない。
その場合、最初に苦しむのは戦う兵士だった。
シリウスは帝国の軍議で、王国の動員が失敗する可能性を説明した。
ガイルは「ならば敵は弱る」
と言ったが、シリウスは首を振った。
「軍より先に村が飢えます」
勝てるという予測は、喜ぶ理由にならなかった。
徴募の札を配る役人は、最後の農家の戸口で立ち止まった。
家には老いた母と幼い子しかいない。
父親は前の戦から戻っていなかった。
「ここから誰を連れていくんですか」
母親に問われ、役人は答えられない。
彼は札の裏に事情を書き、徴募台帳へ異議として添えた。
王命を止める力はない。
それでも、名前の横の数字を一人の人間に戻すことだけはできた。
シリウスは敵の動員令を読み、必要な荷馬車の数を計算した。
数字を重ねるほど、王国が農村から無理に徴発する姿が見えた。
「攻めてくる兵だけを数えるな」
彼は参謀に命じた。
「残された村で、冬を越せなくなる家族も数えろ」
徴募官が村の広場で名を読み上げると、鍛冶屋が前へ出た。
「この村から男を連れていけば、春の農具は誰が直す」
徴募官は答えられない。
十二万人という数字には、畑を耕す手も、馬を世話する手も含まれていた。
王宮では一行で済む命令が、村では翌年の飢えを意味する。
遠く帝国の陣で、シリウスは新しい徴募台帳の写しを受け取り、まず村ごとの農繁期を調べ始めた。
十二万人という命令を聞いた兵站官は、三日かけて必要な荷車を数えた。
数字は王国が保有する輸送車の数を大きく超えた。
彼は不足を記した報告書を宰相に提出したが、戻ってきたのは「士気を損なう記述を削除せよ」
という朱書きだった。
兵站官は削除前の写しを村長へ届けた。
「兵を出せと言うなら、せめて帰すための食料も数えてください」
村長はその紙を握りしめ、王宮へ異議を届ける決心をした。
徴募の札を受け取った農夫は、刈り終えていない麦畑を見た。
鎌を置けば収穫が遅れる。
種麦を納めれば春に蒔くものがなくなる。
家には幼い娘と、足の悪い母がいる。
彼は役人に尋ねた。
「俺が行ったら、この畑は誰が守る」
役人は答えず、次の家へ札を配りに行った。
王宮が数えた十二万人は、畑や工房や家族から切り離された十二万人でもあった。
徴兵の知らせを聞いた村長は、畑の前で立ち尽くした。
「十二万人を集めれば、秋の収穫は誰がする」
役人は王命の印を見せた。
「逆らえば村ごと罰する」
村長は若者の名簿を受け取り、代わりに耕作面積と家族の人数を書いた帳面を差し出した。
「連れていくなら、残る者の食料を計算してくれ」
役人は答えられなかった。
その帳面の写しは、やがて王都へ向かう商人の荷に紛れた。
戦争の費用は兵の数だけでは数えられないと、数字が語っていた。
徴兵役人が十二万人の名簿を持ち帰ったあと、村の畑には刈り手が足りなかった。
村長は残された家族の人数と食料の見込みを帳面に記し、商人へ託した。
王都へ向かう荷車の中で、その帳面は他の村の報告と重なった。
王が集めた兵数と同じだけ、残された暮らしの損失も積み上がっていた。
戦死したマック将軍はもう異議を唱えられない。
その空白を、村人たちの数字が埋め始めた。




