第三十七話 俺は祖国の捕虜一万人を、無条件で解放した
捕虜の名簿は一万人に達していた。
シリウスは数字を聞いても喜ばなかった。
負傷者、未成年の徴募兵、帰る村を失った者。
解放の命令一枚で全員を安全に帰せるわけではない。
彼はまず負傷兵を治療所へ移し、帰還を希望する者の出身地を調べ、道中の食料と通行証を用意させた。
武器は返さない。
「無条件で解放する」
とは、身代金も改宗も帝国への忠誠も求めないという意味だった。
解放の準備は三日かかった。
まず一万人の名を読み上げ、同姓同名を出身村で区別した。
負傷者には荷車を割り当て、歩ける者には水筒と三日分の乾パンを渡す。
王国の検問所に誤って脱走兵と扱われないよう、解放状には帝国の軍印と王国側の受領欄を設けた。
「無条件」
という言葉を守るには、実際には途方もない手間がかかる。
シリウスはその手間を惜しまなかった。
一万人の捕虜を解放すると決めた夜、シリウスは帰還路の地図を広げた。
峠には崩落した道があり、谷にはまだ小規模な戦闘が残る。
紙の上で「解放」
と書くのは簡単だが、道中で死なせれば意味がない。
彼は工兵を先行させ、医療班に担架の数を数えさせた。
自軍の補給担当には、解放者に渡す食料を別勘定で管理するよう命じた。
捕虜の列には歩けない者が二百人以上いた。
シリウスは全員を同じ日に出発させる計画を取りやめ、治療の必要な者は本人の同意を得て後送することにした。
「一万人を解放」
という数字を守るために、弱った者を道へ放り出してはならない。
ガイルは顔をしかめた。
「戻った者が再び徴兵されたらどうする」
「その危険はあります」
シリウスは否定しなかった。
「だから帰還者には、戦争に再参加しないよう願う文書を渡します。
ただし、家族を人質にされた者まで責めません」
帝国の将校の中には、敵を助けるために自分たちの食料を使うことに反対する者もいた。
シリウスは配給台帳を公開し、捕虜への支給が自軍の兵站を圧迫しない範囲を示した。
解放に反対する帝国兵の代表が幕舎を訪れた。
「我々の仲間は帰ってこないのに、敵だけが帰るのですか」
シリウスは席を立ち、戦死者名簿を渡した。
「忘れていない。
だが、死者の名を使って新しい死者を増やしたくない」
兵は名簿を受け取り、黙って出て行った。
帰還希望者の名簿に、村の名を記せない少年がいた。
村は焼かれ、家族の行方も分からないという。
担当官は空欄のまま通行証を発行しようとしたが、シリウスは止めた。
「帰る先がない者を、帰還の列に押し込むな」
少年には一時滞在所と仕事を探す窓口を案内した。
一万人の名簿には、同じ姓が何度も並んでいた。
兄弟で徴兵された者、父子で別の部隊に配属された者。
シリウスは名簿の端に小さく印を付け、家族が一緒に帰れるよう隊列を組み直させた。
役人は手間がかかると訴えたが、彼は譲らなかった。
「一万人を返すのではない。
一人ずつ家へ返すんだ」
数字だけなら一行で済む仕事が、夜明けまで続いた。
解放者の列には、足を引きずる兵が二百人以上いた。
シリウスは歩行可能な者を先に帰す案を却下し、担架と荷車の通れる幅を確保させた。
急げば夕方までに全員を出せる。
しかし途中で車列が詰まれば、夜の峠で凍える者が出る。
彼は帰還を二日に分け、帝国軍の護衛は国境までに限定すると決めた。
出発直前、解放される兵の一人が列から離れた。
「俺は帰れません。
村で弟が徴兵されるのを待っている」
シリウスはその兵を呼び戻さなかった。
帰還も残留も本人が選ぶべきだ。
だが帝国軍の幕舎に置けば敵兵を匿うことになる。
彼は中立の修道院へ事情を伝え、治療と滞在の許可を求めた。
救うことは、必ずしも自分の旗の下に置くことではない。
峠へ向かう列の中から、年配の男が戻ってきた。
「俺は帰らない。
故郷はもう徴発で空っぽだ」
シリウスは帝国への移住を勧める言葉を飲み込んだ。
敵国に留まれば、男は故郷の人々から裏切り者と呼ばれるかもしれない。
「まず救護所で休んでください。
行き先は明日決めればいい」
男は頷き、空になった水筒を差し出した。
選択肢を残すことも、自由を返すことだった。
解放名簿の最後に、故郷の欄が空白の兵がいた。
村は焼かれ、帰る家がないという。
シリウスは一律の帰還を命じず、帝国の救護施設に残る選択肢を示した。
「解放とは、行き先を強制しないことです」
兵は初めて顔を上げた。
故郷に戻れない者にまで帰れと言うなら、それは別の追放になる。
シリウスは自分の過去を思い出していた。
解放前夜、帝国の若い兵がシリウスの幕舎に来た。
「敵を帰せば、兄の死は無駄になりますか」
兄は先の戦いで亡くなっていた。
シリウスは返答を急がなかった。
「君の兄を忘れないことと、ここで別の誰かを殺すことは同じではない」
兵は長い間黙り、やがて解放者のための水桶を運ぶ仕事を申し出た。
一万人を一度に歩かせれば、街道の水場は尽きる。
シリウスは帰還者を複数の隊列に分け、日ごとに出発させた。
国境で受け取る王国側の担当者には、負傷者の人数と必要な担架を事前に知らせる。
無条件の解放とは、準備なしに放り出すことではなかった。
出発の日、捕虜の少年が立ち止まった。
「将軍、どうして俺たちを帰すんですか」
シリウスは少年の泥だらけの手を見た。
「その手で、もう一度畑を耕してほしいからだ」
少年は頭を下げなかった。
ただ泣きながら、配られたパンを両手で抱えた。
列が動き出した後も、シリウスは最後の一人が峠を越えるまで見送った。
一万人の帰還には、数日を要した。
歩けない者は担架で、帰る村を失った者は希望を聞いて別の道へ送る。
最初の列が峠を越えた翌日、監視兵が王国側からの迎えを確認した。
シリウスは安堵しかけ、迎えの兵が帰還者を再び整列させるのを見て息を止めた。
彼らが自由に帰れるかどうかは、国境の向こうの権力にかかっている。
だからこそ解放の証明書を全員に持たせたのだ。
最後の列にいた少年が振り返った。
「また徴兵されたら、どうすればいいですか」
シリウスはすぐに答えられなかった。
王国の法律を変える力は、今の彼にはない。
「生きて帰れ。
そして、自分の意思で選べる日まで生き延びてくれ」
少年は返事をせず歩き出した。
シリウスはその背中を見送り、解放者名簿の余白に故郷の村名を一つずつ書き足した。
解放の列の途中で、足を引きずる兵が倒れた。
後続の兵が立ち止まり、峠道はたちまち詰まった。
帝国兵が列を急がせようとすると、パルラが水筒を押しつけた。
「急がせるなら、先にこの人を運んで」
シリウスは荷車の一台を空け、負傷者のために回した。
予定より半日遅れる。
それでも一万人を返すという命令は、最後の一人が生きて国境を越えて初めて果たされる。
解放前夜、捕虜の代表がシリウスに面会を求めた。
「故郷へ帰っても、国王はまた俺たちを徴兵するでしょう」
シリウスは否定できなかった。
代表は続ける。
「なら、帰る意味はありますか」
幕舎の外では、帰還用のパンを焼く匂いが漂っている。
「意味を決めるのは俺ではありません。
家族に会いたい者も、別の土地へ逃れたい者もいる。
どちらも選べるようにする」
翌朝、名簿には帰郷先のほかに、希望する中立地帯への移送先が記された。
出発する少年のパンには、帝国の焼印も王国の紋章もなかった。
少年はそれを半分に割り、隣の負傷兵に渡す。
「帰ったら、また戦わされるかもしれない」
と負傷兵が呟いた。
シリウスは聞こえないふりをしなかった。
「その時は、武器を持たずに逃げられる道を探してほしい」
簡単に言えることではないと分かっている。
それでも、命を守る選択肢を一つでも残したかった。
解放名簿を前に、王国兵の一人が手を挙げた。
「故郷には戻れません。
逃亡兵として捕まります」
シリウスは記録係を呼んだ。
「帰還先の欄に本人の希望も書け。
無理に帰らせるな」
「敵国に残りたい者まで認めるのですか」
「捕虜を解放するとは、行き先を命じ直すことではない」
エリシアは隣で頷き、避難先の町に受け入れ窓口を設けるよう手配した。
兵は名簿に震える字で署名した。
剣を置くより、自分の行き先を自分で選ぶことの方が勇気を要した。
捕虜の解放が始まると、王国の使者は帰還兵を一列に並べるよう要求した。
シリウスは名簿を閉じた。
「行き先は本人が選ぶ。
王国へ戻る者も、中立地帯へ向かう者も同じだ」
使者は怒ったが、エリシアが双方立会いの記録を提案したことで引き下がった。
夕暮れ、ひとりの少年が故郷へ向かう道を選んだ。
誰も彼の背を押さなかった。




