第三十六話 王国の将校は、敵軍の作戦に見覚えがあると気づいた
「この図を誰が描いた」
「帝国軍の指揮官名はシリウスとだけあります」
副官が答えた。
姓は記されていない。
エドガーは引き出しから古びた地図を出した。
故マック将軍の遺品だ。
裏には細い文字で『追撃より先に、帰還路を測れ』とある。
シリウス・アルヴェルトの筆跡だった。
「同じ名ですね」
「名だけで断定はできん。筆跡と戦場の判断を照合する」
エドガーは二枚の地図を重ねた。
十年前の戦場と、今日の戦場。
地形も季節も違う。
それなのに、兵を生かして帰すための順序が同じだった。
そのとき、前線から伝令が飛び込んだ。
「敵が谷の出口を空けています! 今なら中央を突破できます!」
若い将校たちが立ち上がる。
王都からは勝利を急げとの命令が届いていた。
だがエドガーは地図の谷に指を置いた。
「空いているのではない。
空けているのだ。
谷を抜けた先の橋は?」
「まだ確認できていません」
「ならば突撃は認めん」
「陛下の命令に背くのですか!」
エドガーは一瞬、マック将軍の最後の顔を思い出した。
撤退を進言して敗戦の責任を押しつけられた老将。
あのとき自分は沈黙した。
「命令には勝てとある。
兵を無駄に死なせろとは書かれていない」
斥候を二組、別々の道へ出した。
ひと組は橋の状態を、もうひと組は村人の避難路を確かめるためだ。
夕刻、戻った斥候は泥まみれだった。
「橋は半分崩れています。
大軍が渡れば落ちます」
「帝国兵は?」
「村人を先に渡していました。
こちらの負傷兵も、追わずに通しています」
若い将校は口を閉ざした。
突撃していれば、敵を破る前に自軍が橋で押し潰されていた。
エドガーは帝国軍へ白旗の使者を送った。
負傷者を収容する短い停戦を求める文書には、条件を三つ記した。
双方同数の監視役、担架への武器の持ち込み禁止、民間人の通行確保。
「敵が罠を仕掛けたら?」
「疑うことは必要だ。
だが疑うなら、確かめる手順も用意しろ」
夜明け前、返書が届いた。
『三条件に同意する。
救護の通路を確保する。
帝国軍指揮官シリウス』
筆跡を見たエドガーは息を呑んだ。
七の数字の払い方。
地図の余白に小さく入れる訂正記号。
十年前と同じ癖だった。
しかし彼は「本人だ」
と断言しなかった。
「この返書は保管しろ。
筆跡の照合は第三者に任せる。
本人と断定するのは、それからだ」
停戦の川原で、帝国の軍医が王国兵の傷を縫っていた。
そのすぐ隣では、王国の衛生兵が帝国兵に水を飲ませている。
王国の若い弓兵が、敵の担架へ弓を向けた。
「三日前、白旗を掲げた敵に仲間を殺されたんです!」
エドガーは弓を下ろさせたが、叱責だけでは終わらせなかった。
「三日前の記録を出せ。
誰が白旗を掲げ、誰が射撃を命じたか、調べる」
「私を罰するのですか」
「必要ならな。
だが恐怖を抱いた理由を消せば、次も同じことが起きる」
そのとき、担架の上の王国兵が弱々しく言った。
「敵の先生が……俺を助けてくれた」
停戦線の中央に張られた白布は、風を受けて何度も翻った。
王国の軍医が担架を数え、帝国の軍医が包帯の残りを数える。
どちらも足りなかった。
そこでエドガーは、後方の予備布を切って持ってくるよう命じた。
「それは冬用の天幕です。
ここで使えば、こちらの兵が寒さに耐えられません」
兵站将校の訴えはもっともだった。
エドガーは一瞬だけ迷い、使用した枚数を記録させた。
「冬の天幕は、次の補給で補う。
今ここで血を止められなければ、冬まで生きる兵が減る」
ところが、その直後に一発の矢が飛んだ。
白布の端をかすめ、帝国軍医の背後に突き立った。
双方の護衛が剣に手を掛ける。
帝国の若い兵は怒鳴った。
「停戦を破ったな!」
王国側も声を荒らげた。
エドガーは誰より先に両軍の間へ歩いた。
鎧を脱ぎ、剣を副官へ預ける。
「射た者を探す。
だが、今ここで報復を始めれば、担架の上の者から死ぬ」
彼は矢を抜かせず、射角と風向きを測らせた。
見張り台の位置を照らし合わせると、矢は王国側の射手が放ったものと判明した。
その射手は十七歳だった。
三日前の夜襲で兄を失い、白旗を見るたびに手が震えるという。
「兄を殺した奴らを助けるんですか」
「そうだ」
エドガーは答えた。
「お前の兄を取り戻せないからこそ、別の家に同じ知らせを送る数を増やしたくない」
少年は弓を落とした。
エドガーはその場で無罪を約束しなかった。
処分は調査で決める。
だが、少年の証言も記録から消さないと約束した。
帝国軍の指揮官は遠くからその様子を見ていた。
やがて担架を一つ、白布の下へ押し出した。
そこに横たわっていたのは、王国の紋章を付けた兵だった。
「こちらで治療した。
引き取ってくれ」
エドガーは深く頭を下げた。
停戦は紙の上の約束ではない。
今まさに、互いの恐怖を越えて守るものなのだ。
副官が小声で尋ねた。
「シリウスという将軍も、こんなことを考えるのでしょうか」
「昔から、あいつはこういう戦場を見ていたのかもしれん」
エドガーは古い地図を畳んだ。
マック将軍が生きていたなら、きっと同じことを言っただろう。
弓兵は唇を噛み、ゆっくり弦を緩めた。
エドガーは古い地図をもう一度見た。
かつて追放された軍師の作戦を、今度は敵から教わっている。
「もし、あの男が本当にシリウスなら」
副官が問いかける。
停戦の終了時刻が近づくと、両軍の軍医はまだ動けない負傷者を指さした。
約束の時刻を守るか、命を守るか。
エドガーは使者を走らせ、延長を申し入れた。
帝国側から返った紙には、たった一行だけあった。
「搬送終了まで待つ」
彼はその紙を胸元へしまった。
勝利を急ぐ王都へ提出する報告には、停戦が延びた理由を隠さず書いた。
命令違反と判断されるかもしれない。
それでも、明日同じ場所に立つ兵がこの記録を読めることの方が大切だった。
「まず、本人に謝らねばならん」
エドガーは首を振った。
「いや。
その前に、あの日黙っていた理由を、私自身が説明しなければならない」
彼は停戦記録の末尾に、自分の名と署名を残した。
二度と、誰かの責任を記録から消さないために。
エドガーは机に広げた地図の端を押さえた。
負傷者の退路だけが、意図的に残されている。
「この癖を知っています」
と部下に告げた。
「帝国軍の将軍を?」
「王国にいたころ、戦術を教えてくれた人を」
部下は身を乗り出した。
「では名を報告しましょう」
エドガーは首を振った。
「まだ確証がない。
思い込みで名を出せば、誰かが処刑される」
彼は十年前の訓練記録と、今回の捕虜解放条件を照合するよう命じた。
信じたい記憶ほど、証拠で確かめる必要があった。
エドガーは十年前の訓練記録を開いた。
シリウスが赤字で直したのは、攻撃の矢印ではなく、負傷者の搬送経路だった。
今の帝国軍の布陣にも同じ空白がある。
部下は確信した顔で尋ねた。
「報告しますか」
エドガーは首を振った。
「名前だけでは足りない。
なぜ王国が彼を追放したかも、記録で確かめる」
彼は故マック将軍の残した手帳の所在を調べ始めた。
だが手帳の保管簿には、閲覧を禁じる宰相府の朱印があった。
「名前を確かめるだけなら、噂で足りる。必要なのは、この国が何を隠したかだ」
エドガーは封印を破らず、保管簿の番号と日付を書き留めた。
翌朝、自分の名が宰相に知られることを承知の上で彼は正式な閲覧請求書を提出した。




