第三十五話 王国軍八万人は、一晩で補給線が麻痺した
シリウスは輸送隊の時刻表を見比べた。
第一隊は夜明け、第二隊は昼、第三隊は夕刻に渡河する。
橋を落とせば王国軍の補給は止まるが、村へ塩と薬を運ぶ商人も通れなくなる。
「壊すな。
軍の荷車だけを遅らせる」
工兵は帝国側の橋詰めに臨時の通行所を設け、民間の荷を安全な渡し場へ誘導した。
敵の輸送隊が橋へ集中するよう、上流の浅瀬には監視騎兵を置いた。
橋を守ることと敵を通すことは、同じではない。
王国軍の補給隊は三つの渡河点に分かれていた。
シリウスは穀物を焼く命令を出さなかった。
焼けば軍だけでなく、近隣の村まで飢える。
狙ったのは荷車の集結時刻だった。
上流の仮橋を補修する工兵隊を監視し、下流では渡し舟を対岸へ移す。
帝国軍の騎兵は荷を奪うのではなく、空の荷車が戻る道を塞いだ。
補給線を断つとは、食料を消すことではない。
必要な時刻に届かなくすることだ。
補給将校は地図を見て眉をひそめた。
「荷車を止めても、兵は手持ちの乾パンで耐えます」
シリウスは頷いた。
「だから一晩で降伏はしない」
狙いは飢餓ではなく、予定の崩壊だった。
馬の飼葉が届かなければ騎兵は動けず、矢の補充が遅れれば弓兵は射撃を控える。
歩兵の食事だけを数えていては、軍の動きは読めない。
彼は兵站表の横に、馬と矢と包帯の残数を書き込ませた。
補給所の火を消させたのは、シリウス自身だった。
若い兵は「焼けば敵が飢えます」と言った。
「村の人間も飢える」
彼は穀物袋に残る村名を読み上げ、持ち主ごとに仕分けさせた。
戦争が終わったとき返す相手を失わないためだ。
下流の渡し舟が対岸へ移されたと知った王国軍の輸送隊長は、車列を上流へ向けた。
しかし上流の仮橋は補修中で、荷車は一台ずつしか通れない。
後続が詰まったところへ雨が降り、荷を積んだ車輪が泥に沈んだ。
シリウスは遠くの丘から、その動きを見守った。
食料は奪っていない。
届く時間を狂わせたのだ。
輸送隊の護衛長は、湿地の入り口で進路を迷った。
命令書には「最短路を進め」とある。
しかし雨でぬかるんだ道を荷車が通れるかは書かれていない。
後続が詰まり、御者同士の怒鳴り声が響く。
シリウスは斥候の報告を聞き、「車輪を壊すな。
救助が必要になれば道を開け」と命じた。
輸送を止める作戦が、御者を見殺しにする命令へ変わってはならない。
湿地に沈んだ荷車を引き上げようとして、王国軍の馬が一頭倒れた。
シリウスはそれを遠眼鏡で見て、追撃を止めた。
荷車の周囲には武器を持たない御者が集まっている。
輸送の混乱を利用することと、動けない人間を討つことは違う。
敵の前線では配給時刻が過ぎても鍋が空だった。
兵は将軍の失策を知らず、隣の部隊が食料を奪ったのではないかと疑い始める。
王国軍はまだ戦える。
しかし各隊が互いを信じられなくなれば、八万人という数は強みにならない。
王国軍の炊事場では、配給の鍋が空のまま火にかけられていた。
「明日の分を先に食べろ」という命令が飛び、別の隊では「備蓄を動かすな」
と怒鳴り声が上がる。
前線の兵は何が起きたか分からない。
補給が尽きたのではなく、誰がどの倉庫から受け取るのか分からなくなったのだ。
シリウスは捕らえた輸送兵からその混乱を聞き、追撃を止めた。
腹を空かせた兵が武器を捨てるなら、攻撃する理由はない。
前線の王国兵が空の椀を掲げて騒ぎ始めたと報告が入る。
だがシリウスは敵が飢えたとは考えなかった。
各隊の手元には備蓄がある。
ただ、補給がいつ届くか分からなくなれば、指揮官はその備蓄を隠す。
兵が飢える前に命令系統が壊れる。
「今夜の混乱を、明日の虐殺につなげるな」
シリウスは追撃ではなく降伏路の整備を命じた。
翌朝、王国軍の配給所では鍋だけが並び、穀物が届かなかった。
兵たちは怒鳴り合ったが、前線の倉にはまだ糧食がある。
問題は配る命令と運ぶ車が別々の場所で止まったことだった。
シリウスは斥候の報告を聞き、部下に念を押した。
「飢えさせることが目的じゃない。
攻撃を続けられないと理解させることだ」
そのために退却路には水場を残した。
夜明け、王国軍の陣営では配給の順番をめぐって言い争いが起きた。
前線の兵にはまだ食料がある。
だが輸送の予定が崩れたため、指揮官は残りを出し渋った。
シリウスは斥候の報告に線を引いた。
「敵は飢えていない。
命令を信じられなくなっている」
王国軍の前線では、配給の時刻が二度変更された。
食料が尽きたのではない。
何時に届くかわからなくなったのだ。
隊長は明日の分を抱え込み、隣の隊へ融通しなくなる。
兵の間には「本隊は自分たちを見捨てた」
という噂が広がった。
シリウスは報告を聞き、敵の士気が下がったと喜ぶ代わりに、飢えた兵が村へ押し寄せる可能性を警戒した。
夜明け、王国軍の輸送隊から使者が来た。
湿地で動けなくなった荷車の救出を求めるという。
ガイルは罠を疑ったが、シリウスは使者を帰さなかった。
「負傷者を運ぶ車だけは通す。
ただし武器と糧食は運ばせない」
双方の立会人が荷を確かめ、負傷兵を乗せた車が泥道を抜けた。
敵の命を救うことが、敵の戦力を増やすとは限らない。
シリウスは部下に命じた。
「奪った食料を兵に分ける前に、所有者を調べろ」
徴発された村の穀物には村名を書いた札が付いていた。
帝国軍の倉庫へ運び込めば、それもまた略奪になる。
シリウスは保全した数量を記録し、戦後の返還を約束した。
勝つために守るべきものを壊せば、祖国の王と何も変わらない。
帝国軍の若い騎兵が穀物袋を持ち帰った。
シリウスは袋に付いた村名を読み上げさせた。
「この村の人々は、冬を越せるだけの麦を残しているか」
誰も答えられなかった。
彼は倉庫への搬入を保留し、所有者を探す使者を出した。
夜が明けても、王国軍の倉庫にはまだ小麦が積まれていた。
しかし前線の炊事場に届くはずの荷車は来ない。
各隊が「自分たちの分だけ確保しろ」
と伝令を走らせ、一本の街道で車列が向かい合って動けなくなった。
シリウスは捕獲した輸送係から配給時刻を聞き取り、帝国軍に無用な追撃を禁じた。
焦った敵兵が農村から食料を奪い始めることだけは、何としても防ぎたかった。
奪取した穀物袋の札には、王国側の村の名前が書かれていた。
兵たちが戦利品として開けようとするのを、シリウスは止めた。
「持ち主がいる。
数量を記録して保管しろ」
補給線を乱すために食料を燃やさなかった理由も、そこにあった。
戦争が終わったとき、畑を耕す人間が戻れるようにしておく必要がある。
夜明け前、王国軍の補給係が泥まみれで本陣へ駆け込んだ。
「穀物はあります。
ですが荷車が前へ出せません」
指揮官は倉庫の数量を怒鳴りつけた。
帳簿の上で足りていることと、兵士の鍋に届くことは別だった。
前線では炊事の煙が上がらず、各部隊が勝手に残りの干し肉を隠し始める。
シリウスが狙ったのは飢餓ではなく、命令系統を狂わせる数時間の空白だった。
夜明け、王国軍の若い補給将校が泥だらけで帝国の検問所へ現れた。
馬も荷車も通れない道を、徒歩で越えてきたのだ。
「村の小麦だけは返してくれ。
兵糧ではない」
シリウスは押収品の札を確認した。
村名と数量が一致している。
「返還する。
ただし護送路は双方で確保する」
将校は敵を疑う目を隠さなかったが、署名した。
翌日、その村には穀物が戻った。
敵の輸送を止めることと、村人の冬を奪うことは同じではなかった。
伝令が「王国軍の配給が遅れている」
と告げても、シリウスは歓声を許さなかった。
王国兵の糧食はまだ残っている。
だが指揮官たちが次の荷車を待って動けなくなれば、八万人の進軍は止まる。
彼は街道沿いの村へ薬と塩が届いているかを確かめ、軍用の検問から民間輸送を切り離した。
兵糧を奪うために村を飢えさせるなら、それは戦術ではなく略奪だ。
夜明け前、王国軍の荷車が次々と停止した。
橋を塞いだのは帝国兵ではなく、通行の順番を失った輸送隊自身だった。
「橋を焼けば早いのに」
と若い兵が呟く。
シリウスは首を振った。
「橋は戦争が終わっても残る。
壊せば村の収穫も渡れなくなる」
彼は工兵に橋の強度を測らせ、重い荷車が同時に渡れないことを確認したうえで、王国軍が安全に引き返せる道だけを残した。
朝、敵の指揮官は前進を断念した。
敵軍の足を止めたのは炎ではなく、荷車の列と時間だった。
王国軍の補給が滞った朝、シリウスの元へ村長から抗議が届いた。
帝国の検問で民間の粉挽き車まで止められたという。
彼は担当将校を呼び、軍用荷車の検査と村の食料輸送を分けるよう命じた。
「敵の兵糧を止めるために村人を飢えさせれば、勝ったとは言えない」
昼には粉挽き車が通り、夕刻には王国軍の指揮官が撤退の協議を申し出た。




