第三十一話 王国軍八万人が、帝国領に侵攻してきた
開戦の知らせが届いたのは夜明け前だった。
国境の見張り台から三度、赤い狼煙が上がった。
王国軍八万人。
その数字に幕舎の空気が凍りつく。
ガイルが軍靴で床を踏み鳴らした。
「こちらの守備隊は一万二千だ。
正面で受ければ押し潰される」
シリウスは報告書の末尾にある小さな文字を指した。
「先遣隊、井戸のある村を占拠」
軍勢の数より、そこに取り残された住民の方が先だった。
「村を取り返す前に、人を出します」
大将軍は一瞬だけ目を見開き、すぐに頷いた。
「必要な兵を言え」
斥候が持ち帰ったのは、敵の旗ではなく井戸端に落ちていた子供の靴だった。
占拠された村にはまだ四十七世帯が残る。
王国軍は井戸を押さえていたが、村の東側の果樹園までは封鎖していない。
シリウスは兵を三隊に分けた。
正面では盾兵が姿を見せて敵の注意を引き、果樹園では村の猟師が避難路を案内し、南では工兵が浅い水路に板を渡す。
攻撃を仕掛ければ村ごと焼かれる危険がある。
だから先に村人だけを抜くのだ。
「敵の兵を追い払わないのか」
とガイルが低く問うた。
「今追えば、井戸のそばにいる子供たちが盾にされます」
シリウスはそう答え、現地を知る農婦に地図を渡した。
農婦は紙の上の小道を指でなぞり、首を振った。
「そこは昨日の雨で馬も通れないよ」
参謀たちが顔を見合わせる。
シリウスは迷わず線を引き直した。
作戦図の上では数寸の修正でも、現地では命を分ける。
避難民の人数は四十七世帯、百六十三人。
足の悪い老人が七人、乳飲み子が四人いた。
シリウスは最後尾に足の速い兵を置く案を退けた。
遅い者が取り残されれば隊列は二つに割れる。
荷車を先頭と最後尾に一台ずつ配し、途中で歩けなくなった者を交代で乗せることにした。
避難路の安全を確認するため、リュカは騎兵の半数を丘の陰に伏せた。
敵の巡回が戻ってきても、馬蹄を響かせて迎え撃つわけにはいかない。
彼は手綱を握る若い兵に「今日の手柄は、敵を倒した数じゃない。
誰にも気づかれず帰ってくることだ」と言った。
若い兵は不満そうだったが、遠くで子供の泣き声が聞こえると、槍を伏せて頷いた。
果樹園の奥には崩れた石垣があり、荷車は一台ずつしか通れなかった。
護衛隊長は速度を上げるため荷を捨てようとしたが、村長が積み荷を指した。
「あれは井戸から汲んだ水だ。
子供が飲む」
シリウスは荷車を減らさず、先に歩ける者を徒歩で移動させた。
敵の巡回が近づくたびに作業は止まる。
それでも兵は村人を急かさなかった。
避難路の先で敵の松明が動いた。
果樹園を抜ける道のすぐ脇に、王国軍の哨戒兵が二人立っている。
リュカが手綱を引き、突撃の許可を求めた。
シリウスは首を横に振った。
「あの二人が戻らなければ、敵は村を捜索する」
猟師の案内で一行は低い石垣の裏へ伏せ、松明が遠ざかるのを待った。
赤子が泣き出す。
母親は青ざめたが、年老いた村長が小声で昔の子守歌を歌った。
敵兵の足音はやがて消えた。
戦場で最も勇敢だったのは、剣を持たない村人たちかもしれない。
敵の哨戒が引き返した理由は、正面で帝国軍が掲げた大きな旗だった。
村を襲うと見せかけたわけではない。
敵将が帝国軍の本隊を警戒して巡回兵を呼び戻したのだ。
シリウスは戦闘を避けたまま、敵の警戒心だけを利用した。
水路の板橋を渡り終えたとき、兵の一人が人数を数え直した。
「百六十二人です」
報告された避難民は百六十三人。
シリウスはただちに隊列を止めた。
最後尾の荷車に乗るはずの老人が一人いない。
兵が果樹園へ戻ろうとすると、村長が首を振った。
「あの人は家の戸を閉めに戻ったんだ」
シリウスは責めなかった。
住み慣れた家を捨てる決断が、誰にでもすぐできるわけではない。
シリウスは少数の護衛を連れ、石垣の陰から老人の家へ向かった。
敵の巡回兵の足音が近づく。
老人は戸口で鍵を握りしめていた。
「息子が帰ったとき、家が開いていたら困る」
シリウスは一瞬、言葉を失った。
「鍵は持っていきましょう。
帰る場所を守るためにも、まず生きてください」
老人はようやく頷き、差し出された手を取った。
敵軍の斥候が近づく前に、シリウスは最後の老人を連れて水路へ戻った。
板橋を渡る順番を変え、護衛を後尾へ回す。
背後で王国兵の号令が響いたが、リュカの騎兵は姿を現さなかった。
ここで敵を追い払えば、避難路そのものが露見する。
老人は鍵を胸にしまい、震える声で言った。
「あの家に帰れるかな」
シリウスは老人の歩調に合わせた。
「帰るために、今は生きてください」
救護兵のパルラが避難所で湯を沸かしていた。
傷のない者にも温かい汁を配るのは、夜の冷え込みで体力を失わせないためだ。
水桶の前には長い列ができている。
兵士が先に飲もうとすると、パルラは杓子を引っ込めた。
「今日いちばん歩いたのは、あの子たちよ」
リュカは苦笑して列の最後尾へ回った。
湯気の向こうで、子供がようやく笑った。
避難所に到着した母親が、シリウスの袖を引いた。
「家はどうなるんですか」
彼は答えを探した。
奪還の時刻を約束すれば希望にはなる。
だが約束を破れば、彼女は二度傷つく。
「今夜はここで眠れます。
明日、村の様子を確かめる隊を出します」
母親はしばらく黙り、子供の手を握り直した。
救出した住民たちを前に、シリウスは兵に勝鬨を禁じた。
家を失った者の前で勝利を祝う気にはなれなかった。
幼い兄妹が井戸の水を気にしていると聞き、工兵に水源の汚染調査を命じる。
軍を退けても水が飲めなければ、村には戻れない。
「明日のために、今日の戦果を削るのですか」
と参謀が問う。
「明日を失う勝利に、何の意味がある」
避難名簿の末尾には、まだ確認できない父親の名が残った。
シリウスは捜索隊に「敵陣へ踏み込むな。
捕虜交換の窓口を先に探せ」
と指示した。
兵を送り込めば村人の命を危険にさらす。
救出した百六十三人を数えるだけでは、この戦は終わらない。
少女に渡した控えには、父の名の横に小さく「捜索継続」と記した。
翌日、彼女が何度でも確かめられるように。
避難所の寝場所を決めるとき、シリウスは家族を離して配置しないよう命じた。
少女が父親の名を口にする。
「お父さんは、まだ村にいるの」
名簿を調べても、その名はない。
シリウスは『救出完了』と書きかけた報告を破り、別紙に『安否未確認者』の欄を作った。
「見つけたふりはできない。
でも、探すのをやめることもしない」
少女は小さく頷き、母親の手を握り直した。
その夜、猟師が避難所の入口に姿を現した。
肩に掛けた革袋から、村の井戸で汲んだ水と、泥で汚れた小さな地図を取り出す。
「井戸の縄は切られていない。
だが見張りは倍に増えた」
シリウスは水を飲まず、パルラに検査を頼んだ。
村へ戻れるかどうかは敵を追い払うだけでは決まらない。
飲める水と、耕せる畑が残っているか。
地図に印を付ける彼の手元を、村長が黙って見つめていた。
避難した少女が、食堂の隅で父の名を呼んだ。
返事はない。
シリウスは捜索を命じる代わりに、まず王国軍の野戦病院に負傷者照会を出した。
交戦中でも使える伝令の白旗と、双方の軍医の署名を付ける。
数刻後、「該当者は治療中」
との返事が届いた。
少女は泣きながら椀を抱えた。
ガイルはシリウスの書類を覗き、「お前の戦果は旗に載らんな」と呟く。
「旗に載らなくても、帰ってくる人がいるなら十分です」
全員が避難所に着いた夜、シリウスは報告書の「避難完了」
の四文字を見つめた。
失われた家財も、明日からの暮らしも、その四文字には入らない。
彼は別紙に井戸の修復、畑の保全、帰還可能な道の確認を記した。
ガイルは肩をすくめた。
「戦の報告にしては細かいな」
シリウスは答えた。
「ここまで書いて、ようやく守ったと言えるのです」
占拠された井戸の近くで、村の子供が空の水桶を抱えていた。
敵兵が水を汲むたび、村人の列は後ろへ押しやられる。
帝国の若い将校は井戸を奪い返そうとしたが、シリウスは止めた。
「井戸を撃てば、村人が明日飲む水まで失う」
彼は上流の湧き水を確保し、村人のために別の運搬路を作らせた。
その夜、王国軍の兵にも水不足が起きたという報告が届く。
「敵も同じ井戸を頼っている」
「はい」
「ならば井戸を壊す戦術は、双方の負けだ」
水桶を受け取った子供の礼が、将校には勝利の報告より重く聞こえた。
村の井戸に水が戻ると、老人はシリウスに礼を言わず、壊れた桶を差し出した。
「これも戦が終われば直してくれるか」
シリウスは軍の修理班に頼むと約束しかけ、思い直した。
村の職人へ正当な代金を払って直させるよう手配したのだ。
兵が去ったあとも仕事が残る。
村を守るとは、軍の善意に暮らしを依存させないことでもあった。




