第三十二話 俺は祖国の兵士を殺さずに勝つ方法を考えた
軍議の机に二枚の札が置かれた。
赤は敵の死傷者、青は自軍の死傷者を示す。
シリウスはそのどちらにも数字を書かなかった。
「一人でも減らせる策を選びます」
若い将校は反発した。
「敵を逃がせば、勝ったことになりません」
シリウスは彼の正面に座った。
「敵軍の目的は帝国の街道を押さえることだ。
街道を守り、進軍を止めれば戦術上の勝利になる。
敵兵全員の命を奪う必要はない」
将校は言い返せなかったが、納得した顔でもなかった。
若い将校は札を伏せたまま、軍議の終わりまで黙っていた。
帝国軍に投降した王国軍の若者は、槍を握ったことが三度しかないと打ち明けた。
「逃げれば家族の畑を取り上げると言われました」
シリウスはその言葉を聞き、降伏を勧める文書から「敵を許す」
という一節を削った。
許す立場を誇示しても、怯えた農民には届かない。
「武器を置いた者は殺さない。
負傷者は手当てする。
家族への連絡を妨げない」
シリウスはその三行に自分の名を書き、伝令に渡した。
ガイルは退路を開けたまま包囲する案に難色を示した。
「敵将が逃げれば、また攻めてくる」
「だから指揮官の道と徴募兵の道を分けます」
シリウスは谷沿いの狭路に監視隊を置き、武器を捨てた兵が通れる広い畑道を指定した。
降伏の合図は白布だけに頼らない。
盾を地面に置き、両手を上げる動作も全軍に周知する。
混乱の中で一人の判断が違えば、降伏は虐殺に変わる。
降伏勧告の文面を読んだ若い伝令が尋ねた。
「敵が偽の白旗を掲げたらどうしますか」
シリウスは文書に追記した。
武器を捨てるまでは距離を保ち、指揮官同士の確認が済むまで互いに接近しない。
慈悲を示すことと警戒を捨てることは違う。
降伏勧告を届けるため、シリウスは敵陣に向かう伝令を二人選んだ。
一人は王国の言葉を話す帝国兵、もう一人は捕虜になった若い徴募兵だった。
若者には同行を強制しないと告げる。
彼は迷った末に頷いた。
「村の仲間が、まだあそこにいるんです」
白旗が風に翻る間、帝国軍は弓を下ろさず、しかし射ることもしなかった。
伝令が戻るまでの二刻は長かった。
帝国軍は敵の反撃に備えて盾を並べ、救護所では包帯を煮沸した。
降伏を呼びかけたからといって敵が従うとは限らない。
谷の向こうで一本の矢が放たれ、帝国兵の盾に突き刺さった。
兵たちが怒声を上げる。
シリウスは弓兵を抑えた。
「射った者と降伏を考えている者を同じにするな」
ほどなく、別の場所で白布が揺れた。
敵軍は一つの意思で動く巨大な獣ではない。
一人ひとりに、帰りたい場所がある。
最初の白布が上がった瞬間、弓兵の指が弦を引いた。
シリウスは腕を上げて制止した。
白布の下には槍を持った兵が一人残っていた。
攻撃か降伏か判断できない。
シリウスは盾兵を前へ出し、拡声筒で武器を地面に置くよう三度告げた。
槍が落ちる乾いた音を聞いて、ようやく矢を下ろさせた。
最初に投降した小隊は、盾を並べて置いたものの、隊長だけが剣を離さなかった。
帝国兵の弓が一斉に上がる。
シリウスは馬を止め、通訳役に告げた。
「剣を抜くな。
鞘ごと地面に置けばいい」
隊長はしばらく睨みつけていたが、やがて鞘を外した。
誰かが息を吐く音がした。
初めて敵兵が武器を置いたとき、帝国兵の一人が怒鳴った。
「こいつらが俺の兄を殺したんだ」
シリウスは彼を叱責する前に、その兄の名を尋ねた。
名を口にした兵は声を詰まらせた。
「恨みを忘れろとは言わない。
だが、今ここで殺せば、次に降伏する百人は最後まで戦う」
兵は震える手で剣を鞘に戻した。
勝利とは、怒りに任せない決断を何度も重ねることだった。
最初の降伏兵が谷を渡りきると、後ろの隊列が一斉に動きかけた。
押し合えば負傷者が踏み潰される。
シリウスは通行を三列に分け、担架を先に通すよう命じた。
自軍の兵から不満が出る。
「なぜ敵を優先する」
シリウスは言った。
「今は敵ではなく、助けを求めている人間だからだ」
その言葉を聞いた兵が、担架の持ち手を握り直した。
帝国軍の陣内には、捕虜の治療に不満を持つ兵もいた。
包帯が足りないと訴える負傷兵に、シリウスは倉庫の在庫表を示した。
自軍の治療を削って敵に回しているわけではない。
それでも怒りは消えない。
「昨日まで俺を殺そうとした奴だぞ」
シリウスは視線を逸らさずに答えた。
「明日、君が敵の手に落ちたとき、同じ言葉を言われたくない」
兵は返事をしなかったが、包帯を運ぶ荷車の前から退いた。
夕刻、谷の向こうに火がともった。
降伏する意思を示す合図か、夜襲の準備かは判別できない。
シリウスは全軍に待機を命じ、同時に負傷者を後方へ下げた。
戦わないための準備にも、危険を引き受ける者がいる。
若い将校が近づき、「敵が撃ってきたら」と問う。
「必要なだけ応戦する。
しかし、撃たなかった者まで追い詰めるな」
将校はようやく頷き、自分の隊へ戻っていった。
日暮れ、王国軍の後衛から矢が一本飛び、帝国兵の盾に突き立った。
降伏兵を護送していた兵が振り返る。
シリウスは反撃を止め、二本目の白旗を高く掲げさせた。
命令が届いていない後衛なのか、故意の攻撃なのか、まだ分からない。
「後衛に伝令を送れ。
こちらは守備を崩すな」
しばらくして矢が止まり、谷の向こうから盾を置く音が聞こえた。
夕方、王国軍から返された降伏勧告には、敵の小隊長が書き足した一文があった。
「武器を置いた後、部下を誰が守るのか」
シリウスは帝国軍の将校二人に署名を求め、違反した者は階級を問わず処罰すると明記した。
降伏は敵だけが勇気を出す行為ではない。
受け入れる側も、約束を守る責任を負う。
降伏した小隊長は、盾を捨てた部下の背後へ自分の身を置いた。
帝国兵はその姿を警戒したが、シリウスは彼の手が震えているのを見た。
「部下を守りたいのですね」
「そうだ。
お前たちを信用したわけじゃない」
シリウスは頷いた。
「信用は、今日ここから作ります」
彼は負傷者を先に運ばせ、約束どおり名簿を作った。
翌朝、最初に署名を求めたのは、その小隊長だった。
降伏兵の列を見たガイルは言った。
「今日助けた者が、明日こちらに刃を向けるかもしれん」
シリウスは頷いた。
「そのときは止めます。
でも、明日を恐れて今日の降伏者を殺すことはできません」
彼の言葉を聞いていた帝国兵は、倒れた敵の水筒を拾い、黙って本人へ返した。
翌朝の演習では、降伏役の兵が白布を落とした。
向かいの弓兵が身構える。
シリウスは両軍の間に立ち、盾を地面に置く合図をもう一度示した。
若い兵が「間違えたら撃ってしまいそうです」
と告白すると、彼は頷いた。
「だから今日、間違えておくんだ。
本番で命を失わないために」
演習が終わるまで、誰も笑わなかった。
降伏の合図を試すため、シリウスは味方の新兵を二組に分けて模擬訓練を行った。
一組は盾を捨て、もう一組はそれを敵の偽装だと疑う役だ。
最初の試行では弓兵が弦を引いた。
「戦場なら、今ので三人死んでいた」
シリウスは全員の前で自分の説明不足を認め、旗の色だけでなく動作と伝令の復唱を加えた。
訓練の最後、疑う役の兵が自分から弓を下ろした。
誰も倒れなかったことに、見物していた軍医が小さく息をついた。
勝ったという報告の後で、シリウスは医療班へ向かった。
自軍の負傷者は九人。
三人は腕を上げられず、一人は熱にうなされていた。
彼らの前で「敵を殺さずに勝った」
と誇ることはできない。
「作戦は成功です」
と副官が言う。
シリウスは包帯の巻かれた手を見て答えた。
「成功した作戦にも、次に直すべきところがある」
退路を残した判断と、味方を危険にさらした配置を、同じ帳面に記録した。
「一人も死なせない、と言えば兵は安心します」
若い副官の提案に、シリウスは首を横に振った。
「守れない約束は、命令より危険だ」
彼は作戦書の最初に、避難の合図と撤退の判断基準を書いた。
勝利の条件より先に、撤退の条件が並ぶ。
「兵が自分で逃げる判断をしてよいのですか」
「伝令が届かないとき、目の前の負傷者を見捨てろとは命じない」
副官はしばらく紙を見つめ、それから追記した。
『救護のための一時後退は命令違反としない』
その一行で、兵たちが戦場で選べる道は増えた。
撤退基準を記した命令書に、ガイルが赤い線を引いた。
「この条件では現場の判断が広すぎる」
シリウスは異議を退けず、連絡が途絶えた場合と負傷者搬送の場合を分けて書き直した。
翌日の小競り合いで、若い隊長がその条項に従い一時後退した。
陣地は一つ失ったが、負傷兵を全員運び出した。
報告を受けたガイルは、訂正した命令書に自分の署名を加えた。




