第十七話 五万人の敵軍は、五千人の俺たちに敗北した
公国軍の本陣で、ローデリックは最後の攻撃命令を下した。
「動ける部隊を黒岩砦へ前進させろ。今日こそ落とす!」
副官ミハイルは命令を受けたが、復唱する前に確認した。
「前衛の弓矢は二日分です。西街道の糧食車はなお渋滞しています。全軍を前へ出せば、後衛の野営地も失います」
「ここで退けば、公国に何と報告する!」
「生き残った兵の数を報告できます」
ミハイルは前衛の負傷者数と撤収に必要な荷車を記した紙を置いた。
攻撃を続ければ荷車は弾薬を運び、撤退すれば負傷者を運べる。
同じ車輪を二つの目的には使えない。
ローデリックの顔が強張った。
彼は勇気のない部下を叱ろうとしたが、ミハイルの背後に並ぶ疲れた伝令たちを見て言葉を飲んだ。
しかし軍勢は、命令どおりには動かなかった。
食料を待つ部隊、疲労で遅れる部隊、馬草を探す騎兵。
五万の軍は巨大であるがゆえに、一度乱れた隊列を戻すのに時間がかかる。
シリウスは城壁からその様子を見ていた。
「敵の先頭は動いています。後方は?」
「まだ野営地を出ていません」
「では攻撃の波は一度に来ません」
ガイルが剣を抜く。
「ここで討って出るか」
「少数の騎兵で敵の前衛を牽制します。深追いは禁止です」
「勝機を逃すぞ」
「勝機は敵を追うことではありません。敵が戦う理由を失うことです」
シリウスは全隊長に命令書を渡した。
防衛線は二段。
前線が押されれば、必ず後退して内側へ誘導する。
各隊の退却時刻は伝令と旗で確認する。
「持ち場を死守せよ、とは言わないのですか」と若い隊長。
「持ち場を失っても、兵が生きていれば次があります」
兵士たちは頷いた。
そのころ砦の病室では、戦闘がいつ再開されるか分からない時間が続いていた。
包帯を巻かれた帝国兵は、敵がまだ攻めてくるのではないかと窓を見ていた。
隣の寝台には公国兵が横たわっている。
二人は最初、顔を背けた。
だが衛生兵が水差しを置き忘れると、公国兵が自分の分を差し出した。
「飲めよ」
帝国兵は戸惑いながら礼を言った。
シリウスは病室の戸口で、その小さなやり取りを見守った。
そのとき、北の監視台から予定外の赤旗が上がった。
「敵の工兵が夜のうちに湿地へ新しい排水路を掘り、水を川へ逃がしました。地盤の高い側に板も敷かれ、攻城塔が進める道ができています!」
シリウスは地図を見た。
昨日までの勝算が、一つ消えた。
「なぜ見逃した」
斥候長が顔を伏せる。
「夜間の見張りを減らしたのは、私の判断です」
「夜間監視を減らす方針を承認したのは私だ。責任は私が負う。今は塔が通れる幅を教えてくれ」
「道幅は二台分ありますが、板敷きが完成したのは片側だけです」
ガイルが歯を食いしばった。
「残る片側も板を敷かれれば、二台を同時に受けることになる。外壁はもたん」
シリウスは即座に命じた。
「外壁の弓兵を半数下げろ。塔を無理に止めるのではなく、塔から降りた兵が通る狭路を守る」
「外壁を捨てるのか」
「守り切れない壁を守って兵を失う方が危険です」
若い隊長が反論した。
「後退すれば兵は敗走と勘違いします」
「だから今、理由を伝える。後退の合図を三度鳴らし、第二線で待つ者にも同じ合図を返させてください」
勝ち筋を作り直すため、シリウスは自分の見積もりが外れたことを全隊長の前で認めた。
昼前、敵の前衛が城壁へ迫った。
公国軍の太鼓が鳴り、矢が空を覆う。
帝国の盾兵が前へ出る。
シリウスは敵が射程へ入るまで弓を使わせなかった。
限られた矢を、最も効果のある距離で使うためだ。
公国軍の攻城塔は、排水された一筋の道を進んできた。
砦の外壁から火矢が放たれる。
だが塔の屋根には濡れた皮が張られ、火は広がらない。
「止まりません!」
「外壁の第一線を退かせろ。燃えない塔を相手に兵を残すな」
シリウスの命令で盾兵が内側へ下がる。
公国軍は外壁を奪ったと思い、塔から次々と兵を降ろした。
だがその先は、砦の石切り場へ続く細い通路だった。
一台の塔から降りた兵が狭い通路に殺到し、後続の盾が前へ出られない。
ベルクは第二線の兵に命じた。
「先頭だけを押し返せ。追うな!」
外壁の一部を失い、帝国側にも負傷者が出た。
シリウスは胸の痛みを押し込み、衛生班へ伝令を走らせた。
作戦は成功しても、無傷では終わらない。
彼はその事実を、誰よりも先に記録させた。
もう一台の攻城塔は板敷きのない泥地にはまり、随伴する歩兵だけが先行した。
二つの攻撃が足並みをそろえられず、隊列が細長く伸びる。
「第二線、配置完了!」とベルク。
「第一線の撤収を確認しろ。第二線は遮蔽物を使い、狭路から出ようとする敵だけを押し返せ」
第二線の帝国兵は狭路の出口を守り続けた。
公国軍の後方は前の状況を把握できず、増援を送るほど通路が詰まった。
シリウスはその混乱を見て、攻撃を止めた部隊に限り武器を置けば保護する、と記した降伏勧告の旗を掲げさせた。
「なぜここで?」
「敵の前衛は、進めず、退くにも命令が必要です。今なら武器を置く理由がある」
前衛の数百人が盾を下ろした。
公国軍の指揮官が怒鳴るが、声は後方まで届かない。
一方、北の羊飼い道では、ガイルの騎兵が姿だけを見せて退いた。
公国軍は包囲を恐れて兵を割き、前線への増援を減らした。
戦場は広い。
シリウスはすべてを見通せない。
だから伝令の報告を短い定型文に統一し、判断が遅れないようにした。
攻撃を受け止めた砦では、負傷者の搬送が続いていた。
帝国兵と公国兵が同じ救護所へ運ばれ、衛生兵は所属ではなく傷の重さで処置の順番を決めた。
ガイルは城壁に戻り、敵の後続が進めないことを確認した。
「今なら、狭路の敵を押し返せるぞ」
「深追いすれば、退くつもりの兵まで戦わせることになります。まず降伏の条件を伝えましょう」
シリウスは伝令に停戦の提案を持たせた。
攻撃の中止、負傷者の救護、前衛の武装解除、後方部隊の安全な撤収。
使者が戻るまでは警戒を解かず、砦の兵には休息と水を順番に取らせた。
公国軍が撤退を始めると、砦の若い士官は追撃を願い出た。
「今なら敵将を捕らえられます」
シリウスは望遠鏡を下ろした。
「追撃路には負傷兵と荷車がいる。敵の後衛が守るのは、その列だ」
「敵を逃がすのですか」
「今ここで兵を失ってまで追えば、五千人で守った砦を空にすることになる」
士官は納得できない顔だった。
シリウスは撤退する敵軍の最後尾を指した。
「あの列が国境を越えれば、次に必要なのは戦闘命令ではなく、停戦を守る見張りだ」
勝利を広げない判断もまた、指揮官の仕事だった。
勝利の報告書に「敵軍五万を撃破」と書こうとした書記を、シリウスは止めた。
「五万人を殺したわけではない。進軍を断念させ、撤退させた、と記してください」書記は不思議そうに顔を上げた。
「その方が手柄は小さく見えます」「小さく見えても、事実の方が大切です」その一行が、後に王国へ届く噂の意味を変えることになる。
夕方、ローデリックのもとに三通の報告が届いた。
前衛が停止した。
北道は敵騎兵の監視下にあり、荷車での通行が難しい。
後方の食料車はなお石橋を越えられない。
「このままでは兵が飢えます」と副官ミハイル。
勝利を告げる鐘の下で、ローデリック軍の撤退を見送った兵が呟いた。
「追えばもっと倒せます」。
シリウスは追撃許可を出さなかった。
「退路を塞げば、相手は死ぬまで戦う。砦を守るという任務はもう果たした」。
若い兵は悔しそうだったが、門の内側に戻ってきた仲間の顔を見て、剣を鞘に納めた。
さらに、北道へ出した伝令が戻った。
道は完全には塞がれていないが、負傷者を乗せた荷車は通れない。
ローデリックは地図を見つめた。
退路を失ったのではない。
撤退を決める時間を自分で失っていた。
「あと一度押せば落ちる!」
「その一度を命じられる兵が残っていません」
ローデリックは椅子に沈んだ。
自分が数で押し切るために集めた五万人が、狭い街道と不足した食料に縛られていた。
日没後、砦から派遣されていた停戦使者が本陣へ到着した。
差し出された文書には、攻撃の中止、前衛の武装解除、負傷者の共同救護、捕虜の名簿交換が明記されていた。
降伏兵の身柄は講和後に返還する。
「俺に恥をかけというのか」
ローデリックが唸る。
「兵を帰すための道を残す、という提案です」と使者。
副官ミハイルが静かに言った。
「閣下。ここで退けば、我々は生きて国へ戻れます」
長い沈黙が続いた。
やがてローデリックは軍旗を下ろすよう命じた。
翌朝、公国軍は組織的な戦闘を停止した。
砦前面の主力は武器を預け、後方の部隊は停戦命令を受けて順次撤収した。
五万人すべてを捕虜にする余力は帝国側にもない。
シリウスは撤退経路を指定し、略奪を禁じる条項を停戦文書に加えた。
ガイルが報告書を読み上げる。
しかし、砦の南門では若い隊長が顔を伏せていた。
外壁から退くとき、伝令の一人が転倒し、敵の矢を受けたのだ。
「私が一拍早く退却の旗を出していれば」
シリウスは責めなかった。
「一拍の判断が必要な命令を作ったのは私です。明日、旗が見えない場合の合図も決め直しましょう」
「次も戦うのですか」
「次に同じ間違いをしないためです。今日の勝利が、明日の誰かの命を守るとは限りません」
隊長は頷き、伝令の名を戦報に書き足した。
「敵五万、戦闘継続能力を喪失。黒岩砦、防衛成功!」
兵士たちが歓声を上げた。
シリウスは真っ先に尋ねた。
「味方の死者は?」
「この決戦で確認された戦死者は零、負傷者は二十七名です。先日の小競り合いを含む累計は集計中です。敵側の人数もまだ確定していません」
シリウスは頷いた。
勝利は完全無欠ではない。
傷ついた人間がいる以上、手当てが終わるまで仕事は続く。
彼は剣を抜かず、医療所へ向かった。
勝利の報告書には、敵軍の損失より先に味方の負傷者と民家の損害が書かれた。
書記官は順番を尋ねた。
「宮廷は敵の損害を先に知りたがります」
シリウスは答えた。
「次の戦で減らせるのは、まずこちらの損失だ」
報告書の余白には、砦の井戸を直す費用まで記載された。
ローデリックの撤収命令は各部隊へ同時には届かなかった。
シリウスは追撃を禁じ、使者に撤収路と期限を文書で伝えた。
勝った瞬間の油断で、停戦を破綻させるわけにはいかなかった。
ガイルは勝利報告に署名すると、シリウスの後を追った。
医療所の前には、負傷した二十七人の名が掲げられていた。
若い守備兵が、包帯を巻いた腕をかばいながら尋ねる。
「将軍。五万人に勝ったのに、嬉しくないのですか」
「嬉しいさ。君がここに立っていることが、何よりも」
シリウスは名簿の最初の名前に指を置いた。
「ただ、帰りを待つ家族には、勝利の鐘より先に知らせることがある」
敵の撤退が確認されたとき、砦の若い兵たちは追撃を願い出た。
「今なら大将軍を捕らえられます」。
シリウスは地図を広げた。
追撃路には避難民の列がある。
「勝った勢いであの道へ騎兵を入れれば、守った村を踏み荒らす」。
兵たちは悔しそうに拳を握った。
ガイルが言った。
「退く敵を追わぬのも、指揮官の勝負だ」。
追撃命令は出なかった。
夜、村へ戻る荷車の列が、無傷のまま砦の門を通った。
ガイルは何も言わず、伝令を呼んだ。
その夜、砦から二十七通の負傷を知らせる手紙が出発した。
勝利を知らせる鐘が鳴った夜、砦の門に村の母親が来た。
息子は帝国軍の炊事係として従軍しているという。
「勝ったなら、あの子は戻れますか」
シリウスは即答できなかった。
負傷者名簿に名はない。
だが無事だという記録もない。
「明朝、各隊の点呼を照合します。分かるまで、分かったふりはしません」
母親は涙を拭い、「それでいい」と言った。
翌朝、息子は補給隊で無事に見つかった。
シリウスは勝利報告書の末尾に、敵の撤収数と味方の帰還確認数を別々に記した。
五万人を退けた戦いの成果は、誰が生きて戻ったかを数えるところで初めて完成する。




