第十六話 帝国の将軍が、俺の戦い方を見て膝をついた
ガイル将軍は、黒岩砦の捕虜収容区画の前で足を止めた。
公国軍の兵士たちが列を作り、帝国の炊事兵から粥を受け取っている。
武器は預けられ、見張りもいる。
それでも負傷者には包帯が巻かれ、倒れた者には水が運ばれていた。
「敵兵にまで食わせるのか」
ガイルの視線は粥ではなく、炊事場の残り袋へ向いていた。
捕虜二千人を増やせば、守備兵五千人と避難民の備蓄が減る。
情けだけでは、明日の朝食を作れない。
「降伏した者を飢えさせれば、明日また戦う理由を与えます」
シリウスは答えた。
「それに、捕虜を守るのは約束です。こちらの兵が捕まったとき、同じ扱いを求めるためにも」
ガイルは黙った。
かつて捕虜の反乱で部下を失ったことがある。
食料を惜しみ、監視だけを増やした結果だった。
「……炊事兵を二十人回そう。予備の麦も使え」
副官が驚いた顔をした。
「将軍、味方の備蓄が減ります」
「承知している。だから配給表を見せろ。兵の分まで奪っていいとは言っていない」
シリウスは必要量と残量を別々に記した表を差し出した。
輸送隊が二日遅れれば全員の配給を見直す必要がある。
ガイルは数字を確かめてから、自分の権限で予備麦の搬入を命じた。
そのとき斥候が駆け込んできた。
「北道で公国の軽騎兵が崖崩れに遭い、動けなくなっています。今なら包囲できます!」
ガイルは反射的に地図へ手を伸ばした。
「騎兵を出せば逃がさずに済む」
「待ってください」
シリウスは崖の下の印を指した。
「そこには村があります。乱戦になれば落石で家を潰しかねない。出口を監視し、武装解除して通す条件を示しましょう」
「拒まれたら?」
「そのとき初めて戦う必要があります。ただし村人を先に逃がす」
ガイルはしばらく考えた。
「勝てる相手を逃がすのは、臆病ではないのか」
「勝つために守るべきものを壊したら、何が残りますか」
その問いに、ガイルはすぐには答えなかった。
北道へ向かった使者は、公国軍の隊長に退去条件を伝えた。
武器を一時預け、負傷者を先に通し、村に近づかないこと。
公国側は半刻の協議の末、条件を受け入れた。
夕刻、斥候が報告に戻った。
「村の被害はありません。軽騎兵は指定された道から撤退しました」
ガイルは報告書を読み返した。
敵を全滅させる機会は失った。
しかし帝国の兵も村人も、一人としてその戦いで命を落としていない。
「私はお前を、祖国から逃げてきた臆病者だと思っていた」
ガイルが言った。
「そう見えたのなら、仕方ありません」
「違う。見ようとしなかったのは私だ」
ガイルが言葉を続けようとしたとき、伝令が再び駆け込んだ。
「将軍! 撤退する軽騎兵の一隊が、約束の道を外れました。村の外れで馬を止めています!」
副官は剣を抜きかけた。
「やはり信用できません。今から追えば捕らえられます」
「待て」
ガイルが制した。
「まず村の見張りに確認しろ。略奪はあったか。武器は携えているか。なぜ止まった」
副官は驚いて老将を見た。
これまでなら、ガイルは敵の動きを見ただけで追撃を命じただろう。
やがて戻った斥候は、泥まみれの手袋を握っていた。
「負傷した馬が道を塞ぎ、隊列が止まっただけでした。武器は預けたままです。村人への被害もありません」
ガイルは長く息を吐いた。
「もし私が追撃を命じていれば、停戦の約束をこちらから破るところだった」
シリウスは答えた。
「判断を遅らせるのは危険です。ですが、確かめずに早く決めるのも危険です」
「では、お前はいつも正しく確かめられるのか」
「いいえ。捕虜二千人の食料も、私の見積もりでは足りませんでした。ガイル将軍が予備の麦を出してくださらなければ、今夜には約束が崩れていたでしょう」
老将は顔を上げた。
「お前にも見落としがあったのか」
「ありました。だから、私一人に従う軍では困ります」
シリウスは配給表を差し出した。
守備兵、捕虜、村への備蓄がそれぞれ別の欄に記されている。
最後の欄だけは、まだ赤字だった。
「捕虜を守るために、味方を飢えさせるわけにもいきません。明日の輸送が遅れたら、配給を組み直す必要があります」
ガイルは表を受け取り、赤字の欄に指を置いた。
「ならば私が輸送隊を動かす。お前は砦の守りを見ろ。役割を分けよう」
「お願いします」
それは勝利を独り占めするための分担ではなかった。
失敗したとき、互いに止められるための分担だった。
ガイルは周囲の兵たちを見渡した。
これまで自分の言葉を恐れていた副官が、今は補給表の不足を指摘している。
「私は兵に、命令に従う勇気ばかり求めてきた」
ガイルの声が低くなった。
「だが、間違いを告げる勇気を奪っていたのは私だった」
老将は片膝をついた。
居合わせた兵たちが息を呑む。
「帝国将軍ガイル。これからは、お前の判断を聞く。私が間違っていたら、階級に遠慮せず止めろ」
シリウスは手を差し出した。
「立ってください。あなたの経験が必要です。私も間違えます。そのときは止めてください」
ガイルはその手を取った。
翌朝、ガイルは誰より早く炊事場に現れた。
捕虜の配給だけでなく、砦の守備兵の食料が足りているか、自分の目で確かめるためだった。
「将軍、昨日のことはもう十分伝わりました」と副官が言った。
「昨日頭を下げたことと、今日の責任は別だ」
ガイルは配給表に署名した。
ガイルが膝をついた瞬間、周囲の兵は息をのんだ。
だがシリウスは手を差し伸べず、先に一枚の帳簿を渡した。
「将軍。私に頭を下げる前に、ここへ署名をお願いします」
「何だ」
「捕虜と避難民の食料配分です。明日から将軍の部隊にも負担を分けていただきたい」
ガイルはしばらく帳簿を見つめ、笑い出した。
「せっかく格好よく膝をついたのに、仕事を増やすのか」
「私への敬意より、兵の夕食の方が急ぎます」
将軍は立ち上がり、署名した。
周囲の兵が初めて笑った。
尊敬が形になったのは、膝が地面に触れたときではなく、責任を分け合ったときだった。
ガイルが膝をついたとき、シリウスはすぐには手を差し伸べなかった。
「将軍、立ってください。私はあなたに忠誠を求めていません」
「違う」とガイルは低く言った。
「俺が謝っているのは、お前を疑ったことではない。疑ったまま、兵の命を賭けようとしたことだ」
彼は戦闘前、自分の判断で予備隊を前線へ動かしかけていた。
もし実行していれば、退却路を塞ぎ、負傷兵を取り残しただろう。
「お前の命令書を読んで、初めて気づいた。勝ち方ばかり考えて、帰し方を考えていなかった」
シリウスはガイルの前にしゃがんだ。
「私も見落とします。そのときは止めてください」
「将軍に命令するのか」
「共に兵を預かる者として頼んでいます」
ガイルはようやく笑った。
立ち上がると、副官を呼んで命じた。
「明日から予備隊の配置を軍師と一緒に見直す。俺の命令でも、おかしければ止めろ」
膝をついたことより、その後に命令を変えたことが、二人の関係を決定づけた。
ガイルは捕虜収容区画の外で、昔の戦報を思い出した。
敵を多く倒した将軍ほど称賛され、帰らなかった味方の名は最後の欄に小さく記された。
シリウスがその順序を逆にしたのを見て、彼は初めて自分の戦歴を読み返したくなった。
その日の夕刻、配給係が倉庫の扉を叩いた。
「東の旧道から麦が届きました。ただし、予定の半分です」
ガイルは袋を数え、喜ぶより先に尋ねた。
「残りは?」
「橋が壊れ、荷車を置いて人が背負って運んでいます」
シリウスは配給表を引き寄せた。
「今日の分は守れます。明日からは避難民と守備兵と捕虜、全員の量を見直します」
「捕虜だけ減らすわけにはいかんのか」
「飢えた捕虜が暴れれば、見張りの兵まで危険になります。それに、私たちが約束した扱いにも反します」
ガイルはため息をつき、帳簿へ自分の名を書いた。
「全員同じ基準で減らせ。最初に俺の食事からだ」
シリウスは首を横に振った。
「将軍だけを減らしても数字は変わりません。必要なのは見栄ではなく、継続できる配給です」
ガイルは苦笑した。
「お前は本当に、格好をつけさせてくれんな」
「数字が合えば、いくらでもどうぞ」
二人は初めて、帳簿を挟んで短く笑った。
午後、ガイルは自分の副官に命じた。
『次からは不足を見つけた時点で報告しろ。
私の顔色を見るな』。
副官は驚いた顔をしたが、初めてためらわずに不足分を指さした。
膝をついたことより、その変化がガイルには重かった。
ガイルはシリウスの前で膝をついた後、軍議へ戻ると最初に自分の命令書を破棄した。
「捕虜への食料を削って追撃に回す、という案は撤回する」。
古参の副官が驚いた。
「将軍、兵の前でお認めになるのですか」。
ガイルは破った紙を机に置いた。
「俺の面子を守るために、部下を飢えさせる気か」。
シリウスは礼を言わず、新しい配給表を差し出した。
二人が同じ表を覗き込んだとき、膝をついた理由は初めて部下にも伝わった。
ガイルが膝をついた翌日、砦の将校たちは戸惑っていた。
「将軍が元敵国の軍師に頭を下げた。兵の規律が乱れます」
ガイルは机を叩かなかった。
代わりに、前日の負傷者名簿を広げた。
「俺が突撃を命じていたら、ここに何人の名が増えた」
誰も答えない。
ガイルは続けた。
「俺は強い敵を倒す方法なら知っている。だが、倒さずに戦いを終わらせる方法を、あいつから学んだ」
シリウスが口を開きかけると、ガイルは手で制した。
「勘違いするな。お前の命令も間違っていれば止める。だが、出身を理由に正しい判断を捨てることは、もうしない」
将校の一人が初めて負傷者名簿に目を落とした。
ガイルの敬意は膝をついた瞬間ではなく、その後の軍議の態度で本物になった。




