第十五話 敵の先鋒を、無用な犠牲を出さず降伏させた
公国軍の先鋒二千人が、夜明け前に黒岩砦の南へ動いた。
「浅瀬を渡るつもりです!」
シリウスは伝令に二度確認させた。
見えたのは先鋒の旗か、それとも本隊の旗か。
濃い霧の中で兵数を見誤れば、砦の守りを薄くする。
「旗は先鋒のものです。後続はまだ西街道にいます」
「なら、こちらも二千人を相手に五千人を動かさない」
彼は南門の衛生班を先に呼び、負傷者を運び込む通路を空けさせた。
戦いを避けられるかどうかはまだ分からない。
だからこそ、避けられなかった場合の準備を怠らなかった。
伝令の声に、ベルクが剣へ手を伸ばす。
「迎撃しますか」
「まず渡河地点を見せてください」
シリウスは地図を開いた。
南の浅瀬は幅が広いが、対岸は低い湿地だ。
兵がまとまって進める道は一本しかない。
「弓兵を左右に配置。ただし命令があるまで射ないこと。橋板を持った工兵を前へ」
「橋を作るんですか」
「退くための橋です。敵にも使わせます」
ベルクは目を丸くした。
先鋒を率いる公国軍の隊長ハーゲンは、砦の南に出られれば敵の背後へ回れると信じていた。
だが湿地へ踏み込んだ途端、荷車の車輪が沈み、隊列が伸びた。
前方には帝国の盾兵。
左右には弓兵。
背後は浅瀬。
「罠だ!」
ハーゲンが叫ぶ。
だが矢は飛んでこなかった。
帝国側から白い交渉旗が上がった。
弓兵には弦を緩めさせ、浅瀬の両岸へ使者を配置する。
降伏の意思がない相手へ近づけば、使者が最初の犠牲者になるからだ。
シリウスは護衛二人だけを連れ、双方の射程の外で声を張った。
「ハーゲン隊長! そちらの退路は確保してあります。武器を置けば、こちらから攻撃しません。負傷者の治療も保証します!」
「敵の言葉を信じろというのか!」
「信じなくても構いません。まず負傷者を運びましょう」
公国軍の列から、足を挫いた兵が二人運び出された。
シリウスは帝国の衛生兵を送り、治療させた。
ハーゲンは険しい顔で見守った。
「なぜ攻撃しない」
「攻撃する理由がありません。あなた方は進めず、こちらも渡河を許しません。ここで死者を増やしても結果は同じです」
「我々には大将軍の命令がある!」
「私にも守るべき命令があります。ですが、その命令はあなたの部下を殺せとは言っていません」
だが、ハーゲンの背後で一人の士官が剣を抜いた。
「降伏など認められるか! 砦の軍師を討てば、道は開く!」
数人が士官に続き、前へ踏み出した。
ベルクの弓兵が弦を引く。
ここで射れば、交渉は終わる。
「射つな。ハーゲン隊長の判断を待て」
シリウスは声を落とした。
自分が安全な場所から他人の命を選べば、相手に信じろとは言えない。
ハーゲンは士官の腕をつかみ、剣を下ろさせた。
「お前が死んでも道は開かん。俺が責任を負う」
士官は唇を噛んだまま、剣を鞘へ戻した。
その場の全員が、降伏とは命令一つで成立するものではないと知った。
ハーゲンは振り返った。
兵たちの頬はこけ、盾を支える腕が震えている。
昨日からまともな食事をしていないのだ。
シリウスは最後の条件を告げた。
「降伏した兵は砦の外に設ける収容区画へ移し、名簿を作ります。公国へ生存を知らせる使者も出します」
「武器を捨てた者を、後から殺さないと誓えるか」
「私の名で誓います。ただし、双方が合意した条件を文書にし、ハーゲン隊長にも写しを渡します。私が死んでも、約束が消えないように」
両軍の使者が条件を読み上げ、双方が署名した。
長い沈黙のあと、ハーゲンは剣を抜いた。
帝国の弓兵が身構える。
だが彼は、その剣を泥の上へ置いた。
「……全隊、武器を置け」
二千人の兵士が、一人、また一人と膝をついた。
武装解除の手続きが始まる前に、ハーゲンは若い伝令を呼んだ。
「本陣に、俺が勝手に武器を置いたと伝えろ」
伝令は涙を浮かべた。
「隊長が処刑されます」
ハーゲンは苦笑した。
「なら、生きて帰って弁明するさ」
彼は部下を見渡した。
飢えている者、足を引きずる者、家族の手紙を握る者。
大将軍の名誉より、彼らの明日を選ぶと決めた。
捕虜の列には、敵軍に徴用された農民も混じっていた。
彼らは武器の扱いにも慣れていない。
シリウスは一律に同じ尋問をせず、所属と役割を確認させた。
畑から連れてこられた若者は「俺は戦いたくなかった」と俯いた。
「今は休んでください」とシリウスは言った。
「あなたが家に帰れるよう、手続きを進めます」
若者は何度も礼を言った。
降伏の条件を詰める間、シリウスは捕虜の食事量を衛生兵と相談した。
飢えた兵へ一度に大量の食事を与えるのは危険だ。
まず水と薄い粥を少量ずつ、体調を見ながら増やす。
炊事兵たちは普段と違う仕事に戸惑ったが、医師の指示を紙に書いて厨房へ貼った。
シリウスは作業の様子を見て、手が足りない場所へ自分の副官を回した。
武装解除を終えたハーゲンは、部下の名簿を前に筆を止めた。
「本陣は私を裏切り者と呼ぶだろう。部下まで罪に問われるかもしれん」
「降伏の責任は隊長であるあなたが負った。部下の氏名と負傷状況は、こちらで記録して双方に伝えます」
シリウスは白紙の一枚を差し出した。
「帰還したい者がいるなら、まず名前を失わせないことです」
ハーゲンは震える手で最初の一人を書いた。
戦場で死ぬ覚悟はできていた。
しかし生き残った二千人を故郷へ帰す責任は、ここから始まるのだ。
降伏の列が門へ近づいたとき、一人の帝国兵が弓を構えた。
「昨日、弟を射た部隊だ」
シリウスはその兵の前に立った。
「弓を下ろしてくれ」
「弟はまだ医療所にいる!」
「知っている。君が怒る理由も」
「なら、なぜ助ける」
「武器を置いた者を撃てば、君の弟を救った医療所まで戦場に変わる」
兵は唇を噛み、やがて弓を下ろした。
シリウスは衛生班へ弟の容体を確認させた。
怒りを消すことはできない。
だが、怒りに次の犠牲者を選ばせないことはできる。
降伏した兵の一人が、治療のあとで「捕虜になったと家族に伝わるのか」と尋ねた。
シリウスは捕虜名簿に出身村を書き添え、双方の使者を通して通知するよう命じた。
敵を殺さずに勝つだけでは足りない。
帰りを待つ人へ、生きていると伝えるところまでが戦いの後始末だった。
降伏の白旗が見えたとき、弓兵の一人は弦を緩められなかった。
昨日、隣にいた友が矢を受けたのだ。
シリウスはその兵の手元を見た。
「怖いなら後ろへ下がっていい。ここで必要なのは、怒りを抑えられる見張りだ」。
兵は深く息を吐き、弓を下ろした。
降伏の手続きが始まると、捕虜の氏名、負傷者の搬送先、武器の保管場所を別々に記録した。
年配の兵士が若い捕虜の肩を抱いた。
「俺の孫も、お前くらいの年だ。帰ろう」
若者は泣きながら頷いた。
衛生兵は体調の悪い者を別の天幕に集め、食事の量と回数を記録した。
ベルクは収容区画を巡回し、衛生班が安全に出入りできる通路を確保した。
シリウスは、戦闘を止める命令より、止めたあとの責任の方が長く続くのだと知った。
ガイルが戦果報告を持ってきた。
「敵先鋒二千、降伏。味方の戦死者は零。負傷者は作業中の軽傷が三名だ」
「敵側は?」
「戦闘による死者は確認されていない。負傷者は十二名、ほとんどが湿地での転倒だ」
シリウスは深く息を吐いた。
ようやく肩の力が抜ける。
「よかった」
「二千を降伏させて、最初に出る言葉がそれか」
「数字のために兵を使ったわけではありません」
その夜、ハーゲンがシリウスを呼び止めた。
「俺はあなたを甘い男だと思った」
「今は?」
「恐ろしい男だと思う。殺さずに勝つ方が、よほど難しい」
シリウスは首を振った。
「難しいから、いつもできるとは限りません。それでも試す価値はあります」
捕虜の列の最後に、足を負傷した若い公国兵が残っていた。
「俺は逃げたかった。でも隊長が逃げるなと言った」
彼は俯いたまま続けた。
「降伏しても、故郷へ帰れるか分からない」
シリウスは膝を折り、目線を合わせた。
「帰還の日付は、今ここで約束できません。ですが、あなたの名前と負傷を記録し、家族へ伝える手段を探します」
「勝った側の言葉を信じろと?」
「信じられるように、記録を残します。あとから確かめられる形で」
その場で衛生兵が名前を尋ね、負傷の状態を帳面に記した。
若い兵はようやく顔を上げた。
「……名前まで、聞いてくれるんだな」
シリウスは返事をしなかった。
十年前から何千人もの兵の名簿を作ってきた。
それでも名前を記すだけでは救えなかった者がいる。
だからこそ、次の一人を数字だけに戻したくなかった。
降伏者の名簿に、同じ名前が二度現れた。
衛兵は脱走の偽装を疑ったが、炊事係が二人を連れてきた。
「兄弟で同じ名です。片方は字が書けません」。
シリウスは所属と負傷の有無を追加して照合した。
兵の一人が言った。
「敵にそこまでする必要がありますか」。
シリウスは答えた。
「誰を収容したか分からなければ、帰すときも分からない」。
名簿を直した小さな作業が、降伏を次の争いに変えないための約束になった。
黒岩砦の外では、敵味方の衛生兵が同じ灯りの下で働いていた。
降伏の列の最後に、武器を捨てない老兵がいた。
衛兵が弓を構える。
「息子の形見なんだ」と老兵は剣の柄を握りしめた。
「ここで捨てたら、あいつまで失う気がする」
シリウスは距離を保って告げた。
「刃を鞘に収め、柄に布を巻いてください。戦闘用には使えない状態で保管し、返還の可否は記録に残します」
老兵は震える手で布を巻いた。
衛兵も弓を下ろした。
「例外を作れば危険です」とベルクが囁く。
「だから誰にでも説明できる条件にする。感情だけで武器を許すのではない」
降伏者の列は再び動き始めた。
剣一本の扱いに費やした時間は、誰かが引き金を引く時間を消していた。




