第十八話 皇帝は俺を将軍に昇格させると宣言した
黒岩砦の勝利から七日後、シリウスは帝都へ呼び戻された。
街道の村々では、帝国の兵士が歓声を浴びていた。
五万人の侵攻を止めたという知らせは、商人の荷車より速く広がっていた。
「英雄だ!」
歓声の中には、黒岩砦へ家族を送り出した者の声もあった。
シリウスの馬に近づいた年配の女性が、小さな布袋を差し出す。
「息子は帰ってくるでしょうか」
シリウスは安易に頷かなかった。
負傷者の中には、まだ長く歩けない者もいる。
「名簿を確認します。今ここで、必ずとは言えません。でも、消息を知らせる責任は私にあります」
女性は布袋を引っ込め、代わりに息子の名を書いた紙を渡した。
英雄という呼び名より、その一枚の紙の方がシリウスには重かった。
「黒岩の軍師様!」
子供たちが花を投げる。
シリウスは馬を止め、踏まれそうになった花束を拾った。
「ありがとう。でも、私は一人では何もできませんでした」
「五万人に勝ったんでしょう?」
「五千人が、それぞれの仕事をしたんです」
その答えに子供は首を傾げたが、隣にいた母親は微笑んだ。
帝都に着くと、宮殿の門前でエリシアが待っていた。
「シリウス!」
彼女は儀礼を忘れて駆け寄った。
「無事でよかった」
「ご心配をおかけしました」
「勝利の報告より、負傷者の名簿が先に届いたのよ」
「先に手当てを頼みたかったので」
エリシアは呆れたように笑い、それから真剣な顔になった。
「父があなたを待っているわ」
謁見の間には皇帝アレクシス、重臣、将軍たちが並んでいた。
シリウスは一歩進み、片膝をつく。
「黒岩砦守備隊、帰還いたしました」
「よく戻った」
皇帝の声は低く、よく通った。
「報告によれば、五千の兵で五万の侵攻を止めたそうだな」
「砦の地形と敵の補給の弱点が重なりました。将兵の働きがあってのことです」
「それでも作戦を組み立てたのはお前だ」
皇帝は机の上に報告書を置いた。
「敵の食料を断ち、退路を残し、降伏を受け入れた。領土を荒らさずに勝った。これは帝国が必要としていた勝利だ」
皇帝は報告書の別紙を持ち上げた。
「ここには、排水溝の変化を見落とし、外壁の一部を失ったとある。勝利の報告に、なぜ自らの失策を記した」
「次に守る者が、同じ見落としをしないためです」
「隠せば、より美しい戦果になっただろう」
「その美しさで、次の兵は守れません」
広間は静まり返った。
ガイルは腕を組んだまま、何も口を挟まなかった。
シリウスが自分の言葉で責任を引き受けるのを待っていた。
重臣の一人が進み出た。
「しかし陛下。彼は元王国軍師です。昇進させれば機密が漏れる恐れが」
「恐れは理解している」と皇帝。
シリウスも頭を上げた。
「私への監査と指揮権の制限は受け入れます。信頼は命令で作れるものではありません」
皇帝はしばらく彼を見つめた。
「よかろう。帝国軍の将軍に任ずる。ただし国境方面軍の指揮は、ガイルとの共同審議を義務とする」
「拝命いたします」
拍手が起きた。
シリウスは立ち上がり、最初にガイルを見た。
老将は無言で頷いた。
叙任後の祝宴で、貴族の一人がシリウスに尋ねた。
「王国を憎んでおられるでしょう」
シリウスは杯を置いた。
「私を追放した者たちへの怒りはあります。しかし王国には、ただ畑を耕し、家族と暮らす人々もいます」
貴族は黙り込んだ。
エリシアは隣で微笑んだ。
「その答えを聞けてよかった」
シリウスは華やかな広間を見渡し、これから先も同じ答えを守れるだろうかと自分に問いかけた。
叙任のあと、シリウスは記録官を呼んだ。
「戦果には、守備隊の負傷者と捕虜の人数も記してください。勝利を飾るために、記録を削ってはいけません」
記録官は戸惑ったが、ガイルが隣で頷いた。
「こいつの言う通りだ。補給を守った者、井戸を直した者、夜通し看護した者の名も残せ。失敗した判断もだ。次に同じ過ちを繰り返すな」
エリシアは微笑んだ。
「英雄の名前を一人だけ刻むより、ずっと帝国らしい記録になるわ」
叙任の翌朝、エリシアは新しい将軍の執務室を案内した。
机には国境の地図が置かれ、窓からは軍学校の訓練場が見える。
シリウスは地図の端に小さな村の印があるのを見つけた。
「ここには病院がありますか」
皇女は首を振った。
「まだ小さな診療所だけよ」
シリウスは将軍として最初の予算案に、前線の救護所を増やす項目を加えた。
その日の午後、ガイルはその予算案を見て笑った。
「新将軍が真っ先に求めるのが医療費か」
シリウスは真顔で答えた。
「戦場で失うものを減らすのも軍備です」
老将は笑いながら署名した。
将軍への昇格を告げられたとき、皇帝は金色の軍旗も授けようとした。
シリウスは礼を述べたうえで願い出た。
「旗を掲げる費用の一部を、黒岩砦の医療所へ回していただけませんか」
宮廷の貴族がざわめいた。
アレクシスは厳しい顔で尋ねた。
「褒賞を断るのか」
「受けます。ただ、勝利の証が旗だけなら、傷ついた兵には何も残りません」
皇帝はしばらく沈黙し、財務官を呼んだ。
「旗は簡素なものにする。残額と同額を国庫から加え、医療所へ送れ」
歓声より先に、財務官が慌てて計算を始めた。
シリウスはその光景に、小さく安堵した。
皇帝から昇格を告げられたシリウスは、まず野戦病院の資材不足を報告した。
アレクシスは苦笑する。
「爵位より包帯が欲しいのか」「爵位は明日でも受け取れます。負傷兵は明日まで待てません」皇帝は軍医長を呼び、補給を優先させた。
褒賞は名誉だけでなく、誰を助けられるかによって価値が決まった。
二日後、シリウスは皇帝へもう一通の上申書を提出した。
黒岩砦の交代要員と、帰郷を待つ兵士の休暇計画だった。
「救護所の増設に続いて、今度は休暇の申請か」と皇帝は笑った。
「彼らは家族に帰ると約束して戦いました。約束を守るための人員が必要です」
皇帝は上申書に署名した。
執務室へ戻ると、真新しい軍服が椅子に掛けてあった。
シリウスは肩章を眺め、机の上の負傷者名簿を開いた。
新しい階級は、背負う命の数が増えたことを意味していた。
彼は街道で出会った女性の息子の名を、名簿の中から見つけた。
負傷していたが、回復の見込みがある。
シリウスは自分の名で短い返書を書いた。
『ご子息は生きています。
歩けるようになるまで、帝国軍が責任を持って看護します』
将軍としての仕事を始めた彼にとって、華やかな叙任の知らせより先に届けたかったのは、その一文だった。
皇帝は将軍章の授与を終えると、シリウスにだけ聞こえる声で言った。
「余が誤ったときも、今日のように止めてくれるか」。
シリウスは答えた。
「止めます。陛下が私を罷免できるとしても」。
皇帝は一瞬黙り、やがて笑った。
「ならば、余にも覚悟が要るな」。
叙任式が終わってから、ガイルはシリウスを廊下へ呼び止めた。
「将軍になったからといって、俺が何でも賛成すると思うなよ」
「もちろんです」
「黒岩砦の第二線への後退は、今でも危険だったと思っている」
「私もです」
ガイルは足を止めた。
「では、なぜ命じた」
「外壁を守り続ければ、敵の塔が着いたときに兵を逃がせないからです。後退にも犠牲は出ました。でも、あの場で選べた策の中では、犠牲が最も少ないと判断しました」
「その判断が間違っていたら」
「戦報に残し、次に同じ立場になる人へ渡します」
ガイルは黙って歩き始めた。
「……その報告書、俺にも見せろ」
シリウスは頷いた。
信頼とは、異論が消えることではない。
異論を交わしても、同じ戦場に立てることなのだ。
その夜、シリウスは新しい将軍章を机の引き出しにしまい、救護所増設の予算案の控えを開いた。
次の会議で問われるのは勲章の重さではなく、増設の効果だ。
彼は黒岩砦で実際に使った担架の数を、予算執行後の確認項目として書き添えた。
将軍昇格の祝宴で、若い軍医がシリウスを呼び止めた。
「増やしてほしいのは担架だけではありません。誰が運ぶかを決める訓練です」。
シリウスは祝いの杯を置き、医療予算案の余白にその言葉を書いた。
皇帝は後日、その余白を見て言った。
「金を出すだけでは足りぬのか」。
シリウスは答えた。
「運べる者がいなければ、担架は倉庫で眠ります」。
試験運用には兵站隊も加わることになった。
昇格式のあと、皇帝はシリウスを呼び止めた。
「将軍章より救護所が欲しいとは、余の褒賞が気に入らぬか」
「名誉はありがたく頂きます。ただ、次の戦場で担架が足りなければ、名誉では人を運べません」
皇帝は笑わなかった。
「では費用対効果を示せ。余は善意だけに国庫を預けぬ」
シリウスは黒岩砦の搬送記録を差し出した。
待機時間、負傷の程度、助けられなかった人数まで隠さず記したものだった。
「失敗まで書くのか」
「次に減らしたい数字です」
皇帝はようやく頷き、試験的な増設を認めた。
新将軍の最初の仕事は、祝宴ではなく検証期限の入った予算書への署名になった。




