第百十三話 無敗の軍師が、初めて裁判で敗れた
判決を聞いた若い将校は、シリウスに抗議した。
「将軍の判断が正しかったと、みんな知っています」
シリウスは判決文を閉じた。
「私が正しいと思うことと、裁判で証明できたことは違う」
敗訴の理由を隠せば、次に弱い立場の者が同じ手続で負ける。
彼は判決文を軍学校へ送り、自分の名を伏せずに教材とするよう求めた。
「原告、ベッカ。被告、帝国政府」
法廷で自分の名ではなく軍の名を呼ばれたとき、シリウスは胸の奥が重くなるのを感じた。
訴えは小さな畑一枚だった。
二十年前、補給路を確保するために軍が借り上げ、その後も返されていない土地。
軍の記録には『所有者の同意あり』と書かれていた。
ベッカは判決が出ても喜ばなかった。
二十年ぶりに返された畑は、土が固く、境界の杭も失われていた。
シリウスは「返還」と書かれた公文書の外に、まだ終わっていない仕事があることを知った。
「同意した覚えはありません」
ベッカは皺だらけの手を膝に置いた。
「兵隊が来て、ここを通すと言った。断れば村を守れないと。あれを同意と呼ぶのですか」
帝国政府の代理人は、当時の危険を説明した。
敵の迂回部隊を止めるためには、あの道が必要だった。
シリウスもその判断自体は否定できない。
「しかし必要だったことと、返さなくてよいことは別です」
ベッカの代理人が言った。
提出された地図には、軍道が畑を斜めに横切っていた。
道の端には、ベッカの亡き夫が植えた梨の木の印があった。
「夫はあの木の下に弁当を置いて働いたんです。兵隊さんを恨んではいません。でも私の畑まで戦争に取られたままなのは、違うと思う」
シリウスは自分の署名がある徴用命令書を見た。
日付も印も正しい。
間違いなく自分の判断だった。
判事は休廷を命じた。
控室で部下が囁く。
「敗訴すれば同様の訴えが続きます。和解金を提示しては」
「彼女が欲しいのは金だけか」
「同じ命令で借り上げた土地は、ほかにもあります」
「だからこそ、法廷で答えを出す」
判決は帝国政府の敗訴だった。
土地の返還、原状回復、失われた収益の補償。
軍側の過去の必要性は認められたが、現在の占有を正当化しないと判断された。
傍聴席にどよめきが起こる。
シリウスは立ち上がり、判事に頭を下げた。
「判決に従います」
ベッカは勝った顔をしていなかった。
むしろ困惑していた。
「大将軍様、本当にいいんですか」
「よくなかったのは、ここまで待たせたことです」
返還作業は簡単ではなかった。
軍道を閉じれば隣村への物資が滞る。
シリウスは迂回路の工事費を軍の予算から出し、ベッカの畑には新しい土を運ばせた。
工事の最終日、若い兵が古い梨の切り株を掘り当てた。
ベッカはそれを見つめ、しばらく言葉を失った。
「木は戻らないんですね」
「はい」
シリウスは慰めの言葉を探さなかった。
戻せないものがある。
それを認めずに未来だけを語ることはできない。
春、ベッカは畑の隅に新しい苗を植えた。
「実がなったら、ひとつ持っていきなさい」
「私にですか」
「食べた人が、あの道を忘れないように」
シリウスはその場で約束した。
軍の徴用制度には、期限、補償、独立した異議申し立ての窓口を設ける。
無敗の軍師は裁判で負けた。
だが、その敗北を覆そうとはしなかった。
判決の翌朝、軍の倉庫に古い申立書が積み上がった。
書記官は青ざめた。
「同じ訴えが四十七件あります。すべて認めれば予算が足りません」
シリウスは一枚ずつ目を通した。
橋の建設で家を失った家族、軍用馬に畑を荒らされた農夫、補償金の受取人が戦死して行方不明になった記録。
どれも、戦争が終わった日に消える問題ではなかった。
「足りないなら、何を削る」
「新しい軍旗の製作費なら、今年は不要かと」
「それだけでは足りない」
「記念式典の費用も」
シリウスは頷いた。
英雄を讃える旗より、誰かの畑を返すことを優先する。
決断を文書に残し、議会の審査にかけた。
しかしベッカは、軍が急いで道を撤去することに反対した。
「隣村の子が病院へ行く道でもあるんでしょう。私のために塞いだら、その子たちが困る」
シリウスは驚いた。
自分は土地を返すことだけを考えていた。
ベッカは、返された後の村全体を見ていた。
話し合いの末、迂回路が完成するまでの期限付き通行を認め、その間の使用料を支払う契約が結ばれた。
ベッカは書類の文字を一つずつ確かめ、最後に署名した。
「今回は、断ることもできるんですね」
その一言がシリウスには重かった。
判決が出た直後、軍の経理官が別の問題を持ち込んだ。
補償を受ける権利があるのはベッカだけではない。
古い軍道沿いには、所有者の分からなくなった土地が七か所あった。
「すべて返還すれば、予算が足りません」
「足りないことを隠していたのか」
経理官は視線を落とした。
「報告すれば、先の戦争で判断を誤ったと言われます」
シリウスは深く息を吐いた。
勝利の評価を守るために、被害を見ないことにした者がいた。
かつて自分が命令した道の先で、同じことが繰り返されていた。
彼は議会へ補正予算を提出した。
軍の記念式典の費用を削り、土地調査と補償へ回す案だった。
退役兵の代表は反発した。
「我々の戦いを否定するのですか」
「否定するのは、戦いの後始末をしなくていいという考えです」
一方、ベッカもすべてを喜んだわけではない。
迂回路の建設で隣家の井戸が使えなくなると知ると、真っ先に抗議した。
「私の畑を返すために、隣の人から水を奪うのですか」
シリウスは工事を止め、井戸の水脈を調べ直した。
工事は二週間遅れた。
費用も増えた。
しかし新しい道は村の外側を通り、井戸を守る形に変更された。
完成式に英雄の名を刻む提案が出たとき、ベッカは笑った。
「道には名前より、行き先を書いてください。旅人が迷わないように」
シリウスはその通りにした。
道標には村と町までの距離だけが記された。
裁判で敗れた記録は消えなかった。
消さないと決めたからこそ、次の土地の持ち主が役所の扉を叩けるようになった。
裁判所の前では若い将校が不満を漏らしていた。
「昔の戦争を今の規則だけで裁くなんて」
シリウスは彼に問いかけた。
「今の規則で救えない者がいたら、昔の戦争を理由に見捨てるのか」
将校は返事をしなかった。
シリウスは判決文の写しを軍学校へ送った。
失敗した作戦の資料と並べて、徴用命令の結果を学ばせるためだった。
そこには勝利の図も、英雄の肖像もなかった。
ただ一人の女性が、二十年かけて自分の畑を取り戻した記録があった。
裁判の帰り道、シリウスは原告の女性に声をかけようとして足を止めた。
謝罪を聞く義務まで彼女に負わせてはいけないと思ったのだ。
代わりに、裁判所の記録を公開する手続きへ署名した。
彼女が失った年月は戻らない。
それでも次に同じ命令が出たとき、拒む根拠だけは残せる。




