第十一話 五千人しかいない砦に、敵軍五万人が迫ってきた
黒岩砦の見張り台に、三度目の警鐘が響いた。
「敵の先遣隊です! 西の丘を越えてきます!」
シリウスは望遠鏡を覗いた。
街道に土煙が上がり、侵攻してきたグラニス公国の赤い軍旗が見えた。
「先遣隊の数は?」
「騎兵だけで千を超えます。後続は……数えきれません」
守備兵五千に対し、敵は推定五万。
若い兵が唾を飲んだ。
だがシリウスが最初に尋ねたのは敵兵の数ではなかった。
「街道を通った荷車は何台だ」
「昨日は百二十七台。本日はまだ二十三台です」
「荷の種類は」
「麦袋が多く、干し肉と馬草が続きます」
シリウスは地図の街道に小石を置いた。
「十倍の兵には、十倍の食事が必要だ。公国軍は強い。だが、食べずに行軍できる兵はいない」
隣で聞いていたガイル将軍が鼻を鳴らす。
「また食料の話か。砦の壁が崩れれば、腹が満ちていても死ぬぞ」
「ですから壁を守る準備もします。将軍、敵が砦へ向かう道を三本、挙げてください」
ガイルは即座に答えた。
西街道、南の浅瀬、北の羊飼い道。
「そのうち、五万人を一度に動かせる道は?」
「西街道だけだ」
「では敵は、五万人を持ちながら五万人で戦えません」
シリウスは石を一列に並べた。
守備隊長ベルクが腕を組む。
「だからといって勝てるとは思えません」
「勝てるとはまだ言いません。まず、敵がどう負けるかではなく、我々がどう生き残るかを決めましょう」
彼は井戸の残量、医療所の寝台数、退避できる地下道を順番に確認した。
勝利を口にする前に、失敗したときの出口を作る。
王国で十年間続けてきた習慣だった。
鍛冶場でシリウスは、剣より先に荷車の車輪と井戸の滑車を直すよう頼んだ。
「剣より先に荷車ですか」と職人は驚いた。
「剣は戦うために使いますが、車輪は皆を生かすために使います」
鍛冶師は笑って槌を振り下ろした。
夜までに二台の荷車が動くようになり、避難する老人を運ぶことができた。
兵士たちは、戦場を支える仕事が一つではないと知った。
昼前、砦の会議室に各隊長が集まった。
シリウスは三つの命令を出した。
城外の農家を安全な村へ避難させること。
倉庫の食料を日ごとに分けて封印すること。
街道脇の古い排水路を調べること。
「敵を迎え撃つための命令は?」と弓兵隊長が尋ねた。
「今はありません。敵が何を持っているか確かめる方が先です」
シリウスは農家の補償額を帳簿に書き込ませた。
軍の都合で麦畑を踏むなら、軍が代金を払う。
村人に道を教えてもらうには、まず約束を守らねばならない。
砦の裏門では、老女が鶏を二羽抱えて立ち尽くしていた。
荷車が足りず、家財を運べないのだという。
「軍師様、鶏だけでも連れて行っていいかね」
「もちろんです。荷車も一台回しましょう」
「兵隊さんの荷物を減らすことにならないかい」
「いま守るべき荷物はこちらです」
老女は何度も頭を下げた。
シリウスはその背を見送り、避難者の名簿を確認した。
老人、子供、歩けない病人。
戦場から消えてほしいのは、まず彼らだった。
夕刻、斥候が泥だらけで帰還した。
「敵軍の本隊を確認。旗の数から、およそ五万。先頭は重装歩兵、後ろに騎兵です」
「攻城塔は?」
「少なくとも六基。組み立て材を運んでいます」
ガイルが低く唸った。
「正面から来る気か」
「正面から来るように見せたいのかもしれません」
シリウスは報告書の一行に印をつけた。
攻城塔の材木は重い。
遠征軍が六基分を運ぶなら、食料車の数を削ることになる。
「敵の将は誰です」
「グラニス公国のローデリック大将軍。攻城戦では負け知らずです」
シリウスは名前を聞いて表情を変えなかった。
ただ、十年前に読んだ戦記を思い出した。
ローデリックは必ず勝てる兵力を揃えてから攻める。
だからこそ、勝てない理由を見つけるまで退かない男だった。
砦の倉庫でシリウスは、塩の樽に小さな穴があるのを見つけた。
守備隊長は「それくらい」と笑ったが、シリウスは樽を量らせた。
十樽のうち三樽が規定より軽い。
誰かが盗んだのではない。
湿気で底板が緩んでいたのだ。
補給兵は顔色を変え、残りの樽も調べ始めた。
戦いの最中に食料が使えなくなる事態を防げたことは、まだ誰にも戦果として数えられなかった。
ベルクは兵を集めて避難路の訓練をした。
武器を持たない住民役を交ぜると、兵だけなら通れる狭い階段で列が詰まった。
シリウスは階段の途中に待機場所を作らせ、松明の位置を変えた。
小さな修正で移動時間が短くなる。
ベルクは感心した。
「戦う前に逃げ方を覚えるのは、少し情けないと思っていました」
シリウスは答えた。
「逃げ道がある兵の方が、必要なとき落ち着いて戦えます」
その晩、シリウスは避難した村の代表者を招いた。
代表者たちは兵の宿泊を嫌がった。
以前の戦争で、兵が納屋の干し草を勝手に使ったことがあるという。
シリウスは軍の物資と民間の物資を別の帳簿に記録させ、代金の支払い期限まで書いた。
村長は紙を受け取り、ようやく椅子に腰を下ろした。
「約束を守ってくれるなら、道案内を出そう」
その一言が、どんな命令書よりも役に立つとシリウスは思った。
会議が終わるころ、伝令が敵の先頭部隊の位置を報告した。
シリウスは距離だけでなく、伝令が戻るまでの時間も記した。
敵が同じ速さで進むとは限らない。
夜は歩みが遅くなり、雨が降れば車輪が沈む。
彼は隊長たちに、見込みが外れた場合の合図を教えた。
ベルクが「勝つ作戦を教えてほしい」と言うと、シリウスは答えた。
「勝つためにも、予定が外れたときの行動を決めておく必要があります」
真夜中、シリウスは水門から戻ると、城壁の上で一人の兵士が手紙を書いているのを見た。
家族へ宛てたものだという。
「出してもいいですか」と兵士が尋ねた。
シリウスは頷いた。
「もちろん。だが、ここで死ぬつもりで書く必要はない」
兵士は驚き、それから手紙の最後に『帰ったら一緒に畑を耕そう』と書き加えた。
避難者の最終報告には、帰還していない羊飼いの親子が二人いた。
ベルクは門の閉鎖を進言したが、シリウスは残り時間を計算した。
「夜明けまで門は閉じません。ただし捜索隊は四人だけ。戻る期限を決め、越えたら追いません」
「二人を見捨てるのですか」
「四人まで失えば、救えるはずの命も救えなくなる。だから期限まで全力で探します」
捜索隊は夜半前に親子を連れて戻った。
父親の靴は破れ、子供は泣き疲れて眠っていた。
ベルクは門の閂を下ろしながら、命令に期限が必要な理由を初めて理解した。
夜、砦の兵舎には眠れない者が多かった。
五万人という数字が、寝台の間を重く漂っていた。
砦の見張り台からは、敵の焚き火が夜空の端に広がって見えた。
若い兵が「五万人もいる」と呟く。
シリウスは火の列を数え、途中に暗い区画があることに気づいた。
「全軍ではない。荷駄隊はまだ山道だ」
副官が問う。
「なら今、夜襲を?」
「焦れば相手の望む戦になる。まず敵の到着順を知ろう」
五千人を守るための最初の戦いは、敵を殺すことではなく、恐怖で判断を誤らないことだった。
食堂でシリウスは、手紙を書いていた若い兵に声をかけた。
「故郷は?」
「東の粉挽き村です」
夜半、敵の先遣隊が南の浅瀬を探った。
ベルクは弓兵を向かわせようとしたが、シリウスは制した。
「矢を射れば、浅瀬が守られていると教える」
代わりに空の荷車を街道へ走らせ、車輪の音を聞かせた。
敵の斥候は補給隊と誤認して西へ戻った。
砦は一矢も放たず、浅瀬の位置を隠し通した。
物見台の兵は敵の旗を二度数えた。
「同じ部隊を数えたかもしれません」
「ならば不確かと報告してくれ。それで十分です」
シリウスは推定数の脇に、確認済みの街道幅を書き添えた。
「子供は?」
「娘が一人。先月、歩き始めました」
「なら帰って、その話を聞かせてください」
兵士は困ったように笑った。
「帰れますか」
「帰すために考えています」
彼は嘘の勝利宣言をしなかった。
敵が十倍いる事実は変わらない。
それでも、敵も人間であることは変わらない。
寒さに震え、空腹になり、命令を間違える。
ガイルが廊下で待っていた。
「兵の顔を覚えて、どうする」
「数で見れば、五千の損失で済ませたくなるからです」
「……厄介な軍師だな」
「そう言われるのは慣れています」
ガイルはしばらく黙り、やがて砦の鍵束を渡した。
「地下の古い水門を開けられる。地図には載っていない。役に立つか」
シリウスの目が初めて鋭くなった。
「見せてください」
地下の石壁には、何十年も使われていない水門があった。
錆びた鎖、浅い泥、外へ通じる排水路。
砦の命運を決めるかもしれない道が、誰にも顧みられず眠っていた。
翌朝、敵軍の太鼓が鳴った。
シリウスは城壁に立ち、迫る赤い旗の海を見つめた。
「敵は五万人。こちらは五千人」
ベルクが緊張した声で言う。
「命令を」
「まず、誰も無駄に死なせない。そのための準備を始めます」
シリウスは命令書の末尾に、撤退の条件も書き込んだ。
南の避難路が敵騎兵に押さえられた場合、砦の外に残る住民を守るための部隊は無理に戻さず、東の集結地へ向かわせる。
城門を開けるかどうかは伝令の声ではなく、定めた合図と守備隊長の確認で決める。
「勝つ作戦なのに、逃げ方まで決めるのか」とベルク。
「逃げ方を決めていない軍ほど、退くべきときに人を失います」
ベルクは反論しかけて口を閉じ、命令書を受け取った。
彼の手は震えていたが、文字を読む目は落ち着いていた。
夜明け前、東の集結地から青い灯が二度上がった。
最後の避難隊が街道を抜けた合図だ。
シリウスはようやく地図から顔を上げた。
守るべきものを砦の中に閉じ込めずに済んだ。
敵軍の旗を数える兵が震えていた。
シリウスは彼の手から望遠鏡を奪わず、「先頭の旗だけを数えてください。次は荷車です」と仕事を分けた。
数え終えた兵は、五万という大きな数字の向こうに、道幅に制約された隊列があることを理解した。
恐怖は消えない。
だが恐怖の中でも、何をすべきかは見えるようになった。
夕方、敵の先遣隊が村の麦畑に火を放とうとした。
見張り台の兵は弓を引いたが、シリウスが止めた。
「まだ射程に入っていません。矢を無駄にするな」
「では畑が燃えます!」
シリウスは南門から小隊を出し、用水路の堰を開かせた。
水は畑の縁へ広がり、火の進路を遮った。
敵の騎兵は泥を嫌って引き返した。
戻った工兵は顔をしかめた。
「畑を守れましたが、村の道もぬかるみました」
「明朝までに板を敷こう。守れたものと、壊したものを両方記録する」
砦の兵はその夜、勝利の報告ではなく村へ渡す補修材の数を数えた。
最後の避難隊の青い灯を見たとき、見張りの少年が泣き出した。
「妹があの隊にいるんです。生きて通れたんですね」
シリウスは頷いた。
「まだ戦いは始まっていない。でも、今夜ひとつ勝てた」
少年は涙を拭き、再び城壁の外を見張った。
あとは、敵がそれを知らないまま攻めてくる。
夜半、敵の斥候がわざと松明を増やして見せた。
見張りは慌てて「敵が倍になった」と叫びかけたが、隣の兵が止めた。
「人数ではなく、灯の数だ」。
二人は報告を言い直した。
シリウスは頷いた。
恐怖に勝つ方法は、勇ましく叫ぶことではなく、見たものを正しく言葉にすることだった。
敵の先遣隊が砦の射程へ入ったとき、若い弓兵が矢をつがえた。
隣の古参兵が腕を押さえる。
「まだ命令がない」。
その数呼吸のあいだに、先遣隊は砦を迂回して去った。
シリウスは胸をなで下ろさなかった。
敵が道を測ったのだと気づいたからだ。
次に来るとき、相手はこの砦の弱い側を知っている。
城壁の上で、若い兵が弓を取り落とした。
「敵の旗が、地平線の端まであります」
シリウスは拾って渡さず、兵の隣に立った。
「今見えている旗のうち、この門へ一度に近づけるのはいくつだ」
兵は泥道を数え直した。
「……多くても、先頭の数隊です」
「ならば今は、その数隊だけを考えよう」
恐怖が消えたわけではない。
だが兵は自分で弓を拾い、弦を確かめた。
敵の旗が丘の向こうまで続くのを見て、若い兵が弓を落とした。
ガイルは叱責しようとしたが、シリウスが先に弓を拾った。
「震えるなら、矢を番える前に交代しろ。隠して撃つほうが危険だ」。
若い兵は歯を食いしばり、交代札を差し出した。
夕刻、彼は水運びの隊で戻り、矢筒を補充した。
恐怖が消えたわけではない。
恐怖を報告できる砦になったことが、五千人の最初の防御だった。
夜、砦の灯りを消したあと、シリウスは五万の敵軍の火を数えた。
隣に立つガイルが言う。
「全軍が一度に押し寄せたら、我々は終わりだ」
「一度に来られない地形を、こちらが守ります」
「だが敵も馬鹿ではない」
「ええ。だから相手が賢いことを前提に、次の手を考えます」
そのとき、北の谷に新しい火が見えた。
シリウスは配置図の一角を指し、予備隊の半数を移すよう命じた。
ガイルは頷きかけて止まる。
「それでは南が薄くなる」
「薄くします。ただし、南には空の天幕を残す」
二人は初めて、恐怖ではなく具体的な危険について言い争った。




