第十話 皇帝は俺に、五千人の兵と国境の砦を任せた
工兵の現地報告と守備隊長の意見を確認した翌朝、皇帝アレクシスはシリウスへ任命状を差し出した。
「黒岩砦の指揮を任せる。守備兵五千。周辺住民の退避と補給の調整権も与える」
シリウスは文面を確かめた。
「条件があります。不足を正直に報告した兵を罰しないこと。住民の避難は、砦の防衛と同じ優先順位で扱うこと」
「認めよう。ただし、砦を放棄する場合は理由を記録せよ」
皇帝は任命状の末尾に、住民の避難を軍務として認める一文を書き足した。
軍が守るのは城壁だけではない。
戦が終わったあと、戻る家を持つ人々もまた守備の目的に含まれる。
その一文がなければ、シリウスが荷車を避難に回すたびに、誰かが命令違反を訴えられる。
「承知しました」
ガイルが一歩進み出た。
「陛下。私も同行します。この男の策が間違っていれば、私が止める」
皇帝は笑った。
「頼む。互いに間違いを見つけろ」
皇帝は任命状を渡したあと、シリウスだけを呼び止めた。
「五千を失えば、帝国の民は余を責める。お前も責められるだろう」
「当然です」
「それでも引き受けるのか」
「勝利を約束できません。ですが、戦わずに退く条件も、戦いをやめる条件も、先に決めておきます」
皇帝は任命状の末尾に一文を書き足した。
『民間人の退避を優先するための後退は、命令違反としない』
「これで十分か」
「十分ではありません。でも、現場が判断できる余地になります」
シリウスはその文面を、誰よりも先にガイルへ見せた。
黒岩砦へ着いたのは二日後の昼だった。
城壁は高いが、門の蝶番が傷み、見張り台の一部は傾いている。
守備隊長は兵を整列させ、勇壮な歓迎の号令を用意していた。
シリウスは号令を止めた。
「先に井戸と倉庫を見せてください」
「将軍、兵への訓示は」
「喉が渇いている兵に長話はできません」
井戸は一本。
釣瓶の縄は擦り切れ、順番待ちの兵が列を作っている。
古い貯水槽は泥で埋まり、使われていなかった。
「飲み水は何日分ありますか」
「貯めてある水は三日分です。井戸は使えますが、一度に汲める量が少ない」と工兵長が答えた。
「五千人で備蓄は三日。井戸が止まれば、敵が来る前に水で負けるところでしたね」
シリウスは工兵を呼び、貯水槽の清掃と井戸の滑車の修理を命じた。
馬用の水は近くの川から運べるか、斥候に道を確かめさせる。
炊事用、治療用、飲用の水は別に記録する。
騎兵隊長が抗議した。
「馬に水を回さなければ偵察ができません」
「偵察馬の分は確保します。ただ、動かさない馬まで同じ量を使う必要はない」
隊長は不満そうだったが、翌日には偵察に使う馬の数を自分から報告してきた。
次に兵の名簿を見た。
五千人のうち、足を痛めて長距離を歩けない者が百四十人。
弓の弦が不足している者が八十人。
名簿上は全員が戦えることになっていた。
「なぜ報告しなかった」と守備隊長が叱りかける。
シリウスは止めた。
「不足を隠したくなる仕組みがあるなら、そこを直しましょう。今日から足りないものを報告した兵は叱りません。報告を握りつぶした指揮官には責任を取ってもらいます」
工兵と鍛冶職人が集められた。
門の修理、弓弦の交換、見張り台の補強。
三日ですべては終わらない。
「優先順位を決めます。門、井戸、見張り台。矢の修理は夜間も続けるが、職人を休ませる時間は削らない」
「夜も働かせなければ間に合いません」と隊長が言う。
「疲れた職人が門の蝶番を付け間違えれば、明日の戦いで壊れます」
ガイルはその会話を黙って聞いていた。
兵の点検が終わるころ、砦の食堂から怒鳴り声が聞こえた。
「負傷兵に配る粥がない? 朝はあると言っただろう!」
厨房の兵が空の鍋を指していた。
帳簿では麦が残っているはずなのに、袋の底には虫が湧いている。
守備隊長は顔をしかめた。
「食糧を粗末に扱った者を処罰します」
「処罰は原因を調べてからです。まず今夜の食事を確保しましょう」
シリウスは保管場所を見た。
雨漏りの跡が天井から伸び、袋が床に直置きされている。
見張り兵の怠慢ではなく、倉庫そのものの問題だった。
「傷んだ麦を除いて、食べられる分を量ってください。新しい袋は板の上に置く。屋根の穴は明朝までに塞ぎます」
「兵に少ない粥を食わせるのですか」と厨房の兵が問う。
「量は減らさない。将校用に別に取ってある小麦を出してください」
守備隊長が息を呑んだ。
「それは将校の食事です」
「将校も兵です。違う鍋で腹を満たす理由はありません」
その夜、食堂には同じ粥が並んだ。
シリウスが椀を受け取ると、先ほど怒鳴っていた兵が小声で言った。
「明日、矢が足りないと言っても怒られませんか」
「足りないなら言ってくれ。数を知らないまま戦わせる方が怖い」
兵は頷いた。
翌朝、弓兵たちから不足品の報告が続々と集まった。
隠されていた問題は増えたのではない。
ようやく見えるようになったのだ。
午後、シリウスは周辺の三村から村長を招いた。
避難用の荷車は全部で十二台しかない。
家財を積めば子供や病人を運べなくなる。
「村を捨てろというのか」と老人が怒った。
「家は守れるか分かりません。人は守ると約束したい。まず子供と病人を東の宿場へ移してください。種麦は運べる分だけ運ぶ。運べない分は場所を記録しておきます」
「帰ってこられる保証は」
「ありません。だから、戻る道と食べるものを先に用意します」
村長たちは顔を見合わせた。
気休めを言わない指揮官に、不満と安堵が入り混じった表情を向けた。
二日目の夜、最初の荷車が東へ出た。
砦の兵は交代で門を守り、残りは眠る。
新任の将軍が休息を命じたことに、若い兵たちは戸惑っていた。
「敵が来るのに寝ていいんですか」
「敵が来るから寝るんだ。明日、目を開けて戦うために」
同じ朝、守備隊長は水の配給を減らす案を持ってきた。
「井戸が使えなくなった場合に備え、今日から半分にしては」
「今、井戸は使えている。重い作業をする兵の水を半分にすれば、先に倒れます」
「では備蓄は」
「飲用と消火用を分けて封をしよう。井戸が止まった場合の配給基準も決めておく。誰が先に水を受け取るか、階級ではなく必要な作業で決めます」
守備隊長は渋い顔をしたが、兵に説明する役を自ら引き受けた。
シリウスは命令書の末尾に、配給を変更する条件と報告先を書いた。
恐怖から今日の兵を弱らせては、明日の砦を守れない。
三日目の夕方、見張りが報告した。
「西の街道に敵の先鋒。およそ六千。松明が続いています」
守備隊長は顔を強張らせた。
「五万の軍が来る……」
「今夜ここにいるのは六千です。残りの到着は斥候に確かめてもらう」
シリウスは弓兵を壁上へ、予備隊を門の内側へ配置した。
斥候には無理な接近を禁じ、戻る時刻を決めて送り出す。
夜半、敵の使者が白旗を掲げて現れた。
「五千で五万に勝てると思うか。門を開けろ」
使者の後方には、負傷した兵を載せた荷車が一台あった。
威圧のために連れてきたのか、それとも撤退の途中で動けなくなったのか。
城壁からは分からない。
シリウスは弓兵へ、白旗が見える間は射るなと命じた。
シリウスは城壁の上から答えた。
「門は開けない。ただし、負傷者の交換と住民の退避については交渉できる」
「臆病者め」
使者は吐き捨てて去った。
ガイルが隣へ来た。
「怖くはないのか」
「怖いですよ。だから数えます。水、矢、休める兵、戻ってくる斥候。怖さを命令に変えないために」
砦の背後では、最後の避難荷車が東の道を進んでいた。
城門の蝶番は修理され、井戸の列は短くなっている。
シリウスは城壁から敵の火を見た。
五万の全軍が到着する前に、打てる手を打つ。
だが五千を無駄に失う道だけは、今日までに幾つも塞いだ。
夜明け前、斥候が泥だらけで戻った。
「将軍。敵の補給車の一隊が峠で止まっています。雨で橋が傷んだようです。全軍の動きはまだ確認できていません」
シリウスは地図を開いた。
軍議で消して引き直した青い線の上に、斥候の指を置く。
「分かった。報告を書き終えたら食事を取れ。別の斥候を出し、橋の位置と迂回路を確かめさせる」
「橋を壊しに行くのですか」とガイルが尋ねた。
「いいえ。敵の一部が止まっただけです。別の道から来る部隊もいるでしょう。橋の損傷を確認する間に、こちらの避難と補給を終わらせます。相手が立ち直ったとき、砦に戦う余力を残すためです」
砦の西から、敵の旗が初めて見えた。
赤地に銀の槍――グラニス公国の軍旗だ。
ガイルはその数を見て息を呑んだ。
「先鋒だけで、こちらより多いか」
シリウスは鐘楼へ目を向けた。
「全軍が来たと決めつけないでください。旗と荷車を別々に数える。敵が何人いるかより、いつ、何を持って到着するかを知りたい」
鐘楼から短い鐘が二度鳴った。
新たな斥候が戻ったのだ。
「南の浅瀬にも敵の騎兵が三十。まだ渡っていません」
シリウスは避難路の地図に指を置いた。
「南の村へ伝令。荷車は東の丘道へ切り替えろ。護衛は十名。丘道の通行を斥候が確認するまで村を出すな。退避の確認が済んだら砦へ戻れ」
敵が来る前に守れる命がある。
シリウスはそのための残された時間を、使い切るつもりだった。
西の丘の向こうには、まだ数の知れない公国軍がいた。
兵糧表を前にした補給係は、避難民を受け入れれば備蓄が足りなくなると繰り返した。
シリウスはその警告を削らせなかった。
代わりに皇帝へ追加輸送を要請し、届かなかった場合の縮小配給を決めた。
「助けると約束するだけなら簡単です」。
彼は帳簿の空欄を見た。
「足りないときに何をするかまで決めなければ、命令とは呼べません」。
砦の門前で、老兵がシリウスへ古びた鍵を渡した。
「前の指揮官は、負けるときにこの門を閉じると言っていました」
「私は、退く者のために最後まで開ける道を決めます」
「五千で五万を迎えるのに?」
「だからこそです」
老兵は鍵を渡す手を離した。
次に鳴る警鐘は、偵察ではなく本隊の到着を告げるかもしれない。
砦へ出発する前夜、シリウスは皇帝の任命状をもう一度読んだ。
五千人という数字の下に、兵の名が並ぶ名簿を重ねる。
指揮権を得た喜びより先に、退却を命じる日が来たとき、その名を一つでも多く残せるかが気にかかった。
砦の倉庫で、補給係が帳簿を隠そうとした。
「足りないのか」とシリウス。
「数字を報告すると、前任者が処罰されます」
「処罰を決めるのは私ではありません。まず、明日の食事を決めましょう」
帳簿には五千人分の麦があった。
だが袋の一部は湿り、食べられる量は少なかった。
シリウスは腐敗分を数え直させた。
見かけの備蓄を守るより、減った数字を知るほうが怖い。
だからこそ彼は、全隊長の前で不足を読み上げた。
任命式の後、シリウスは五千人の前で最初の命令を読み上げた。
「敵が迫ったら持ち場を守れ。ただし、退却の鐘が鳴ったときは英雄になろうとするな」
列の端から声が上がった。
「逃げた者は処罰されないのですか」
「命令を無視した者は調べる。だが、負傷者を運んで持ち場を離れた者を、結果だけで臆病者とは呼ばない」
老兵が一歩進み出た。
「それを証明するのは誰です」
「私の署名です」
シリウスは全小隊へ配る命令書に、撤退判断の責任者として自分の名を記した。
兵士たちは歓声を上げなかった。
ただ、命令書を以前より長く見つめた。
五千人の名簿を受け取った夜、シリウスは各中隊の負傷者搬送計画が空欄なのに気づいた。
「勝つ作戦はあります。しかし、負けた場合の帰り道がありません」と隊長に告げる。
翌朝、各隊は退却の合図と集合地点を決めた。
ガイルは苦い顔をしたが、最後には自分の隊の集合地点も書き込んだ。
補給係が兵五千人分の食料表を差し出した。
シリウスは余白に避難住民の人数を書き加えた。
『これでは持久日数が減ります』。
『そうです。
だから追加輸送を求めます』。
彼は皇帝への要請書に署名した。
城壁より先に守らなければならないのは、数字の中から消えやすい人々だった。
任命から二日後、砦の食堂で、五千人のうち最も若い伝令兵が立ち上がった。
「質問があります。住民を先に逃がして、敵が攻めてきたら、僕たちは見捨てられるんですか」
食堂のざわめきが止まった。
シリウスは伝令兵の前へ歩いた。
「君の名は」
「ルイスです」
「ルイス。住民を逃がすために、君たちを捨て駒にするつもりはない」
「でも、五千人で敵を止めるんでしょう」
「止める時間を決める。退く道を先に確保する。伝令が途絶えたときの判断も隊長に渡す。そこまでが私の命令だ」
「敵が思ったより早く来たら?」
「そのときは計画が間違っていたと認め、退却を命じる」
ルイスは眉を寄せた。
「退却したら、無能と言われませんか」
「言われるだろう。だが、君の命と私の評判を比べるなら、失うべきは私の評判だ」
食堂の奥で、老兵が静かに椀を置いた。
「前の指揮官は、退却の話をすると怒鳴りました」
「私も怒ることはある。ただ、退却路を確認した者を叱りはしない」
翌朝、各小隊に二枚の図面が渡された。
一枚は守備配置、もう一枚は撤退経路。
撤退経路には、集合地点と負傷者の運搬係が記されていた。
ルイスは図面を胸にしまった。
「軍師殿。僕が命令を聞き間違えたら、どうすれば」
「復唱してくれ。私が間違えたなら、そう言ってくれ」
シリウスは任命状に署名する前、五千人の名簿を要求した。
戦える兵の数だけでなく、負傷中の者、家族を避難させる必要がある者も数える。
「兵力が減ります」と参謀は言う。
「最初からいないことにするよりいい」。
名簿の欄外に、孤立しやすい見張り台が二つ見つかった。
翌日、伝令の経路が変更された。
指揮権を得た最初の夜、シリウスが増やしたのは兵ではなく、報告の通り道だった。
若い伝令兵は初めて、はっきりと敬礼した。
着任から二日目、シリウスは撤退訓練を命じた。
守備兵の一人が不満を漏らす。
「敵が来る前から逃げる練習ですか」
「逃げ道を知っている兵は、守る場所を自分で選べる」
ところが訓練を始めると、担架が北門の階段を通らないことが分かった。
図面にはない段差だった。
「このままでは負傷者を置いていく」と衛生兵が言う。
シリウスはその場で作業班を呼び、仮設の斜路を作らせた。
予定より半日遅れたが、全員が通過できた。
「訓練で遅れたのは幸運だ。本番なら、遅れは人命になる」。
その言葉を聞いた兵たちは、次の訓練で自分から不具合を報告した。




