第9話 氷の妖精姫は夜を歩く
朝食室襲撃から、数時間後。
昼を過ぎたアストレア公爵家の応接室には、
重たく張り詰めた空気が静かに沈んでいた。
割れた窓は、すでに新しい硝子へ交換されている。
だが。
机へ積み上げられた報告書の束と、
廊下を行き交う騎士たちの慌ただしい足音だけで、
屋敷全体が厳戒態勢へ入っていることは十分すぎるほど伝わってきた。
窓際には、アストレア公爵。
腕を組みながら庭園の向こうを静かに見下ろしている。
長机を挟んだ向かい側では、
ルシアンが数枚の報告書へ目を通していた。
クラリスは、
部屋の空気を乱さない静かな歩幅で紅茶を淹れ、
ヴァレリアはソファへ浅く腰掛けたまま、
長い脚を組んで頬杖をついている。
そして。
なぜか当然みたいな顔で、ノルヴァルもそこにいた。
しかも一番高そうな椅子へ、自然に座っている。
完全に馴染んでいた。
誰も止められなかった。
ルシアンが、一枚の資料を机へ置く。
「捕らえた男ですが」
低い声が、静かな室内へ落ちた。
「七公家直属ではない。雇われの末端です」
「下請けか」
ヴァレリアが即答する。
視線は地図へ落としたままだ。
ルシアンが小さく頷いた。
「おそらくな」
ヴァレリアは、
王都南区の地図へ指先を滑らせながら続ける。
「なら今頃、仲介屋は証拠を消してる」
窓際に立っていたアストレア公爵が、ゆっくり振り返った。
「……なぜそう思う」
問いかけられたヴァレリアは、
ほんの少しだけ顔を上げる。
コバルトブルーの瞳には、貴族令嬢らしい柔らかさではなく、
現場で生き延びてきた側の冷静さが浮かんでいた。
「失敗した時点で実行犯は切られるからだ」
ヴァレリアは机の端を軽く指で叩く。
「生きた実行犯は足がつく。
だから消す」
ルシアンが小さく息を吐いた。
「ヴァル」
「なんだ」
「言い方」
「事実だろ」
「事実だが」
静かだった。
あまりにも、現場側の答えだった。
窓際に立つアストレア公爵が、静かにヴァレリアを見る。
その視線を受けて、ヴァレリアはふと口を閉ざした。
こうして同じ机を囲み、“アストレア家の問題”について父と話している状況に、
まだ少し慣れていない。
幼い頃から、父は常に忙しかった。
怖かったわけではない。
ただ、あまりにも“公爵”だった。
だからヴァレリアにとって向かい合って話す相手は、
父親というより、ずっとアストレア家当主だったのだ。
だが今。
その公爵が、自分の意見を当然みたいに聞いている。
それが少しだけ不思議だった。
「どうした」
低い声が飛ぶ。
ヴァレリアは一瞬だけ視線を上げ、
すぐに地図へ戻した。
「……別に」
公爵は追及しなかった。
その距離感が、妙にアストレア家らしかった。
そのやり取りを聞きながら、ノルヴァルだけがどこか楽しそうに微笑んでいた。
聖霊王は、細めた灰銀の瞳をヴァレリアへ向ける。
「続けてください」
促され、ヴァレリアは少し考え込んだ。
それから、王都地図の一点を長い指先で軽く叩く。
「ここ」
裏市場。
王都南区の奥。
昼でも薄暗く、
夜になれば顔の見えない連中が集まり始める灰色地帯。
表では扱えない品。
裏金。
偽造書類。
流れた情報。
そういうものが静かに循環する場所だった。
ヴァレリアは平然と続ける。
「仲介屋を使うなら、まずここを通る」
公爵の眉がわずかに寄る。
「……裏市場か」
ヴァレリアは頷いた。
「騎士団が正面から入れば、連中は散る」
「だから先に潜るつもりか」
公爵の問いへ、ヴァレリアは即座に返す。
「現場が生きてるうちに見たい」
ルシアンが、ゆっくり眉間を押さえた。
嫌な予感しかしない。
「却下だ」
「早いな」
「危険すぎる」
「騎士団よりは目立たない」
「お前が一番目立つ」
「傷ついた」
「傷ついてない顔で言うな」
ヴァレリアは本当に無表情だった。
その様子を見て、ノルヴァルがくすりと笑う。
聖霊王は、優雅な動作でティーカップを置いた。
「私は賛成ですね」
ヴァレリアが真顔になる。
「聞いてない」
「面白そうです」
「遊びじゃない」
ノルヴァルは肩を竦める。
「ですが、
彼女の勘は正しい」
灰銀の瞳が、静かにヴァレリアを見た。
「あなたは、
もう気づいているのでしょう?」
室内の視線が、一斉にヴァレリアへ集まる。
ヴァレリアは数秒黙り込み、嫌そうに口を開いた。
「……殺意が薄い」
クラリスが紅茶を注ぐ手を止める。
公爵の視線が鋭くなる。
「説明しろ」
ヴァレリアは、机へ置かれた毒針の図面を指先で軽く叩いた。
「毒針の角度が甘い」
ルシアンが目を細める。
「つまり」
ヴァレリアは、図面から目を離さず答える。
「確認だ」
その声は静かだった。
「聖霊王が本当に現れたのか。
私が本当に継承したのか」
ルシアンが低く呟く。
「……七公家」
「たぶんな」
ヴァレリアは、露骨に嫌そうな顔をした。
「やっぱり貴族怖いな」
ルシアンが呆れたように返す。
「今さらか?」
「戦場の方が単純だ」
それは本気だった。
ルシアンが深いため息を吐く。
その空気を見計らうように、クラリスが静かに口を開いた。
「お着替えをご用意いたしますか?」
ヴァレリアが、地図からゆっくり顔を上げる。
数秒。
「……頼む」
「行く前提で進めるな」
ルシアンが即座に突っ込んだ。
だが。
クラリスはまったく動じない。
「もう止まりませんので」
「理解が早すぎる」
「お嬢様ですから」
誇らしげだった。
ルシアンは頭を抱えた。
一時間後。
アストレア家の一室。
高い窓から差し込む夕方の光が、薄暗い室内へ長く伸びている。
ヴァレリアは、大きな鏡の前へ静かに立っていた。
黒を基調とした実戦装備。
身体へ沿う短丈の上着。
細い革ベルト。
太腿へ固定されたナイフホルダー。
音を立てにくい軽量ブーツ。
長いストロベリーブロンドの髪は、高い位置で一つに結ばれている。
昼間の“氷の妖精姫”とは、まるで別人だった。
後ろへ立つクラリスが、黒手袋を静かに差し出す。
ヴァレリアは振り返らず、自然な動作で受け取った。
その瞬間。
空気が変わる。
立ち方。
視線。
重心。
呼吸。
全部が静かになる。
戦う側の空気だった。
扉にもたれていたルシアンが、その姿をじっと見つめる。
そして、小さく呟いた。
「……ヴァルみたいな顔をするな」
ヴァレリアの動きが止まる。
鏡の中で、コバルトブルーの瞳がわずかに揺れた。
だが。
次の瞬間には、いつもの無表情へ戻っている。
「何の話だ」
「誤魔化すな」
ルシアンは壁から身体を離し、ヴァレリアの正面へ歩み寄った。
そのまま腰ベルトへ手を伸ばし、留め具の位置を確認していく。
刃の角度。
ホルダーの固定。
緩み。
その手つきが、妙に慣れていた。
ヴァレリアが小さく呟く。
「……慣れてるな」
「お前が無茶するからだ」
「する予定はない」
「信用できん」
「ひどい」
「今朝銀トレイ投げた奴が言うな」
ヴァレリアは少し黙った。
反論できなかった。
その時。
扉が静かに開く。
黒い外套姿のノルヴァルが、当然みたいな顔で入ってきた。
深くフードを被っている。
だが。
隠密に向いていなかった。
隠しきれていない。
むしろ神秘感が増していた。
普通に目立つ。
ヴァレリアが真顔になる。
「お前、
潜入向いてないな」
ノルヴァルは平然としていた。
「よく言われます」
「言われるのか」
「ええ」
しかも、
なぜか少し光っている。
ルシアンが、ゆっくり顔を覆った。
不安しかなかった。
クラリスは、そんなノルヴァルを静かに見つめる。
数秒後。
「……発光を抑えられますか?」
真顔だった。
ノルヴァルは少し考える。
「努力はします」
ヴァレリアが即座に返す。
「努力で何とかなるのか?」
「たぶん」
「不安しかない」
その時。
屋敷の外で鐘が鳴った。
夜の始まりを告げる鐘。
王都の空は、ゆっくり群青へ沈み始めている。
ヴァレリアは窓の外を見る。
遠く。
夜の王都。
その裏側で、確かに何かが動いていた。
そして今夜。
アストレア家を狙う者たちと、
ヴァレリアは初めて真正面から接触することになる。
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