第10話 裏市場の情報屋
夜の王都は、昼とはまるで別の顔をしていた。
石畳は昼間の熱をわずかに残しながら、湿った夜気を反射して鈍く光っている。
表通りにはまだ馬車の音が響いていたが、南区へ近づくにつれて、
少しずつ空気が変わっていく。
香水の匂いが消える。
代わりに漂ってくるのは、
酒、煙草、鉄、油、香辛料。
そして。
人の“生きる匂い”だった。
黒い外套を羽織ったヴァレリアは、通りの角へ立ったまま、
静かに周囲を見回していた。
視線だけが動く。
屋根。
窓。
路地。
人の流れ。
逃走経路。
その動きが自然すぎて、まるで昔からここにいたみたいだった。
少し後ろでは、ルシアンが深いため息を吐いている。
「……お前、馴染みすぎだろ」
「そうか?」
ヴァレリアは前を見たまま答える。
「むしろ貴族街より落ち着く」
「それが問題なんだ」
本気だった。
クラリスは二人の少し後ろを歩いている。
黒い侍女服の上へ簡素な外套を羽織り、髪も目立たないようまとめていた。
だが。
隠し切れていなかった。
姿勢が綺麗すぎる。
歩き方に無駄がなさすぎる。
周囲の人間が、
時々ちらりと視線を向けている。
クラリス本人は気づいていたが完全に無視していた。
そして。
さらにその後ろ。
「……」
ノルヴァルがいた。
黒い外套。
深く被ったフード。
本人なりに、
“潜入任務らしく振る舞おう”という意識は非常に高かった。
むしろやる気だけなら一番あった。
歩幅まで少し抑え周囲へ紛れ込もうとしているのも分かる。
ただ。
隠れられていなかった。
通行人が、何人も振り返る。
露店の店主が二度見する。
子供がぽかんとして見上げる。
美しすぎる。
存在感が消えていない。
ヴァレリアが真顔になる。
「お前、
もうちょっと何とかならないのか」
「努力はしています」
「成果が出てない」
「難しいですね」
ルシアンが、ゆっくり顔を覆った。
「嫌な予感しかしない……」
その時だった。
ノルヴァルが、ふいに足を止める。
視線の先。
露店。
怪しい瓶が大量に並んでいた。
紫。
緑。
青。
どう見ても危険だった。
店主が笑う。
「兄ちゃん見る目あるねぇ!
睡眠薬! 回復薬! 惚れ薬!」
「最後いらないだろ」
ヴァレリアが即答した。
ノルヴァルは瓶を持ち上げ興味深そうに光へ透かす。
「これは?」
「幻覚剤だよ」
「ほう」
「感心するな」
ルシアンが素早く瓶を戻させた。
店主が不満そうに唇を尖らせる。
「なんだ兄ちゃん堅ぇなぁ」
「そいつに変なもの触らせるな」
「過保護ですね」
「誰のせいだと思ってる」
そんな会話をしながらも。
ヴァレリアだけは、ずっと周囲を見ていた。
通りの奥。
酒場。
屋根の影。
壁にもたれている男。
視線が合う。
相手が逸らす。
ヴァレリアの目が細くなる。
その変化へ、ルシアンも気づいた。
「何かいるか」
「見られてる」
小さな声だった。
ヴァレリアは歩きながら、自然に進路を変える。
人混みへ入る。
露店の影を通る。
壁際へ寄る。
その動きに、ルシアンの目が細くなった。
速い。
判断が。
まるで、
空気の流れで動いているみたいだった。
クラリスは何も言わず、ヴァレリアの死角側へ位置を変える。
ノルヴァルだけが、少し楽しそうだった。
「なるほど。
これが裏市場ですか」
「観光地じゃないぞ」
「面白いですね」
「聞け」
その時。
前方の路地から、笑い声が聞こえた。
数人の男たち。
酒臭い。
酔っている。
だが。
視線だけは妙に鋭い。
ヴァレリアは一瞬で判断した。
「避ける」
進路を変えようとした瞬間。
「――おっと」
男の一人が、わざとらしく前へ出る。
道を塞ぐ形。
細い目。
にやついた口元。
「珍しいな。
こんな綺麗なお嬢さんが裏市場とは」
ルシアンの空気が変わる。
だが。
それより早く。
ヴァレリアが、男の足元を見た。
酔っているふり。
だが、足運びに無駄がない。
腰の位置も低い。
喧嘩慣れした人間の立ち方だった。
ヴァレリアは静かに言った。
「どけ」
男が笑う。
「怖ぇなぁ」
その瞬間だった。
後ろから別の声が落ちる。
「おいおい。
その辺にしとけ」
空気が変わった。
男たちの表情が一瞬で引き締まる。
路地裏の奥。
木箱の上へ腰掛けた男が煙草を咥えたまま片手を振っていた。
茶髪。
茶色の目。
外套はくたびれている。
年齢は四十前後。
人懐っこそうな笑み。
どこにでもいそうな顔。
なのに。
妙に目が離せない。
男たちは露骨に嫌そうな顔をした。
「……ジード」
「今日は商売の邪魔すんなよ」
ジードは苦笑しながら、
煙を吐く。
「怖ぇ怖ぇ。
だから荒事は嫌なんだよ俺」
軽かった。
だが。
男たちは、それ以上踏み込まない。
空気が違う。
ヴァレリアは静かにその男を見ていた。
ジードも、
ヴァレリアを見る。
その瞬間。
細められていた目が、ほんの少しだけ開いた。
ジードの視線が、
ゆっくりヴァレリアをなぞる。
立ち位置が妙だった。
人混みの真ん中へ立たない。
壁へ寄りすぎもしない。
誰かが前へ出ても、すぐ横へ抜けられる位置を無意識に選んでいる。
しかも、歩きながら一度も背後を振り返らない。
振り返らなくても、後ろの気配を把握している人間の動きだった。
さらに。
ヴァレリアは、男たちへ正面から視線を向けている。
なのに身体だけは、いつでも横へ逃げられる角度で止まっていた。
完全に染み付いた動きだった。
訓練ではない。
実際に死地を潜った人間だけが持つ癖。
それを見た瞬間。
ジードの脳裏に遠い昔の記憶が不意に重なる。
血の匂い。
夜営火。
雪の戦場。
そして。
いつも無愛想な顔で壁際へ立っていた一人の傭兵。
ジードの笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
「……へぇ」
低い声だった。
ヴァレリアの目が細くなる。
ジードは煙草を指先で回しながら、ゆっくり立ち上がる。
そして。
懐かしいものを見るみたいな目で、小さく笑った。
「その動き」
夜風が細い路地を抜けていく。
ジードの目が、今度ははっきり開いた。
「――ヴァル側だろ、お前」
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