第8話 優雅な朝食と、物騒な気配
翌朝。
アストレア公爵家の朝食室には、
いつもと変わらない、静かで気品ある朝の空気が流れていた。
天井近くまで届く大きな窓から、
やわらかな朝日が白いレース越しに差し込み、
磨き上げられた長卓の上へ淡く広がっている。
銀食器は曇りひとつなく並べられ、
白磁のティーカップからは、
上質な茶葉の香りを含んだ湯気が静かに立ち上っていた。
遠くには手入れされた庭園。
噴水の水音。
鳥の声。
どこを見ても、
完璧な公爵家の朝だった。
――ただ一か所だけを除けば。
「……」
ノルヴァルが、
当然のような顔で席についていた。
しかも、
異様なほど馴染んでいる。
白銀の長髪は朝日を受けて淡く輝き、
灰銀の瞳は穏やかに細められていた。
細い指先でティーカップを持ち上げ、
静かに紅茶へ口をつける仕草ひとつで、
なぜか空間そのものが一枚の絵画みたいになる。
神話にしか存在しないはずの聖霊王が、
公爵家の朝食室へ完全に溶け込んでいた。
意味が分からない。
朝食室へ入ってきたヴァレリアは、
扉を閉めかけた姿勢のままぴたりと止まり、
無表情でその光景を見つめた。
沈黙。
数秒。
それから、
低い声でぽつりと言う。
「……なんでいる」
ノルヴァルは、
まるで当然の質問をされたみたいに小さく首を傾げ、
優雅にカップをソーサーへ戻した。
「観察です」
「帰れ」
「嫌です」
返答が速い。
一切迷いがなかった。
——なお、このやり取りは昨日から数えてもう三度目だった。
ヴァレリアの眉間に深い皺がよる。
その隣で、
ルシアンが静かにこめかみを押さえていた。
「ヴァル。もう諦めろ」
「諦める要素が多すぎる」
「昨夜からずっとこんな調子なんだ」
「最悪では?」
ヴァレリアが本気で嫌そうな顔をする。
だが、
そんな空気の中でも、
クラリスだけは完全に通常運転だった。
彼女は落ち着いた動作でティーポットを持ち上げると、
ノルヴァルのカップへ新しい紅茶を静かに注ぐ。
細い湯気が立ち上る。
「本日の茶葉は南方産です。香りが軽めですので、朝向きかと」
「素晴らしいですね」
「ありがとうございます」
会話が成立していた。
ヴァレリアは遠い目をした。
「クラリス」
「はい」
「なんで普通なんだ」
クラリスは一瞬も迷わず答える。
「お客様ですので」
「聖霊王だぞ」
「ええ」
「理解してるか?」
「追加のお茶もございます」
「理解してなかった」
ヴァレリアが椅子へどさりと座る。
ルシアンは小さくため息を漏らした。
「……お前たち、順応が極端なんだよ」
その時だった。
ヴァレリアの視線が、
ふと窓の外へ流れる。
中庭側の回廊を、
使用人服の男が一人横切っていった。
知らない顔。
――いや。
違う。
顔じゃない。
歩幅。
足運び。
視線の配り方。
重心の位置。
使用人にしては、
妙に“周囲を見すぎていた”。
ヴァレリアの瞳が細くなる。
表情から、
一瞬で気配が消えた。
ルシアンがその変化に気づく。
「ヴァル?」
返事はない。
ヴァレリアは椅子へ浅く腰掛けたまま、
静かに室内全体へ視線を巡らせていく。
窓までの距離。
入口の位置。
遮蔽物。
使用人たちの配置。
死角。
逃走経路。
頭の中で、
違和感が一本の線になって繋がっていく。
クラリスが、
ノルヴァルの隣へ歩み寄り、
ティーポットを傾けた瞬間だった。
ヴァレリアが低く言う。
「クラリス、伏せろ」
空気が変わった。
クラリスは一瞬も迷わない。
反射的に身体を沈め、
その場で低く伏せる。
次の瞬間。
――パリンッ!!
窓ガラスが激しく砕け散った。
白い破片が朝日を反射しながら宙へ舞う。
その中心を、
細い銀光が一直線に飛び込んできた。
毒針。
高速。
正確。
だが。
カチッ。
乾いた音が鳴る。
ノルヴァルが、
片手を軽く上げた姿勢のまま、
その毒針を指先で挟んでいた。
静寂。
誰も動けない。
ノルヴァルは毒針を眺め、
ほんの少しだけ首を傾げる。
「……物騒ですね」
優雅だった。
反応まで優雅すぎた。
その直後。
窓の外にいた男が、
失敗を悟って逃走しようと身を翻す。
だが。
ヴァレリアの方が速かった。
彼女は立ち上がる勢いのまま、
長卓の上へ置かれていた銀のサービストレイを掴む。
ルシアンが目を見開く。
「ヴァル!?」
止めるより早い。
ヴァレリアは窓を蹴るように開け放つと、
半歩踏み込み、
身体ごと勢いを乗せてトレイを投げた。
――ヒュン!!
銀の円盤が高速回転しながら一直線に飛ぶ。
次の瞬間。
ゴッッ!!
鈍い衝撃音。
「ぎゃっ!?」
逃げかけていた男の顔面へ、
トレイが綺麗に直撃した。
男の身体が後ろへ吹き飛び、
そのまま塀の向こうへ消える。
静寂。
使用人たちが固まる。
ルシアンも固まる。
その中で、
クラリスだけが静かに立ち上がり、
割れた窓を一瞥してから口を開いた。
「……銀器を投げないでくださいませ」
「回収すればいいだろ」
「旦那様のお気に入りです」
「あとで回収班を出せばいい」
「盗賊討伐ではございません」
そこへ。
廊下側にいたもう一人の男が、
短剣を抜きながら突っ込んできた。
だが。
遅い。
ヴァレリアは振り返るより先に、
足元の椅子を蹴り飛ばした。
重い木椅子が勢いよく滑り、
男の脛へ真正面から激突する。
「ぐぁっ!?」
体勢を崩した男が転倒する。
そこへ。
ふわり、と。
白銀の光が揺れた。
ノルヴァルの周囲から、
無数の妖精光が静かに舞い上がる。
空気そのものが変質した。
逃げようとしていた男の身体が、
突然空中でぴたりと止まる。
まるで、
見えない糸で吊り上げられたみたいに。
男の顔が青ざめる。
「な、なん――」
「静かに」
ノルヴァルが微笑む。
その瞬間。
空気が凍った。
圧倒的な“格”。
存在そのものの差。
男は白目を剥き、
そのまま気絶した。
再び静寂が落ちる。
ぱち、と。
クラリスが、
割れたティーカップの破片を見下ろした。
「……新しいものを用意いたします」
順応が早かった。
ヴァレリアは床へ落ちた毒針を拾い上げ、
先端をじっと見つめる。
「七公家か?」
ルシアンの声は低い。
「……おそらくそうだろうな」
朝食室から、
完全に温度が消えていた。
だが。
そんな中で。
ノルヴァルだけが、
どこか楽しそうにヴァレリアを見ていた。
「面白いですね」
「どこがだ」
「あなた、本当に戦場側の人間ですね」
ヴァレリアは怪訝そうに眉を寄せる。
「何だそれ」
「普通の令嬢は、朝食の紅茶を見ています」
ノルヴァルが静かに笑う。
「あなたは最初から、出口と死角を見ていた」
ヴァレリアは少し考え込み、
本気で不思議そうな顔をした。
「……見ないのか?」
「見ませんね」
「危ないだろ」
「普通は朝食で襲撃されません」
「それもそうか」
納得した。
ルシアンがゆっくり顔を覆う。
「お前はもう少し危機感を持て」
「襲撃された側なんだけど」
「そこじゃない」
クラリスは静かに紅茶を淹れ直しながら、
淡々と言った。
「本日の朝食は、少々騒がしくなりましたね」
「少々で済ませるな」
その時。
窓の外で風が揺れる。
遠く。
公爵家を見上げる影がひとつ。
その視線は、
確かにアストレア家へ向いていた。
そして。
七公家の中では、
すでに動き始めている者たちがいた。
もっとも。
ヴァレリアは、
まだ知らない。
聖霊王の顕現が、
七公家全体の空気を静かに変え始めていることを。
そしてその変化が、
やがて自分の婚約話にまで飛び火することも。
今のヴァレリアが考えているのは、
「銀トレイの回収班、ちゃんと出したか?」
ということだけだった。
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