第5話 異界が近いらしい
婚約披露会が終わった頃には、夜もかなり更けていた。
昼間は貴族たちで埋まっていた大広間も、今は静かだ。
楽団の音は止み、残っているのは使用人たちが片付けをする微かな物音だけ。
そんな中、小談話室へ入った瞬間。
ヴァレリアは椅子へ沈み込んだ。
「生きて帰れた……」
「婚約披露会でございます」
クラリスが静かに紅茶を置く。
「百二十人いた」
「お祝いに来てくださった方々です」
「全員、笑顔で距離を詰めてきた」
「社交ですので」
「怖すぎる」
心からの声だった。
向かい側で、ルシアンが小さく息を吐く。
「お前の中では、社交界はどういう場所なんだ」
「笑顔で包囲してくる場所」
「発想が完全に戦場なんだよ」
「実際、包囲されていた」
ヴァレリアは真顔だった。
クラリスが紅茶を配りながら、小さく頷く。
「確かに、本日はかなり注目されておりました」
「ほら見ろ」
「肯定するな」
ルシアンが静かに額を押さえた。
クラリスは何事もなかったみたいに続ける。
「ですが、お嬢様の立ち回りは完璧でございました」
「そうか?」
「はい。特にベルンハルト家ご子息への半歩後退」
「あれは間合い管理だ」
「周囲からは、優雅な駆け引きに見えておりました」
「違うのか?」
ルシアンが聞く。
「射線を切っただけだ」
「やはり戦場なんだな……」
疲れたみたいな声だった。
ヴァレリアは紅茶へ口をつける。
ようやく少し落ち着いた。
だが。
「それに、給仕係も危険だった」
クラリスの動きが止まる。
「果実酒を運んでいただけです」
「動きが読めなかった。急に死角へ入ってきた」
「配膳でございます」
「しかも銀盆を持っていた」
「給仕係は皆様お持ちです」
「武器になる」
クラリスが少し考える。
「……確かに、角へ当たれば痛そうではございますね」
「だろう」
「感心しないでくれ」
ルシアンが静かに突っ込んだ。
暖炉の火が、小さく揺れる。
夜の静かな談話室に、紅茶の香りだけが広がっていた。
その時だった。
ふと。
ヴァレリアの表情が消える。
ルシアンもすぐ気づいた。
「……ヴァル?」
返事はない。
ヴァレリアはゆっくり立ち上がる。
視線は、談話室の大きな窓へ向いていた。
庭園側。
夜のアストレア家は静かだ。
静かすぎた。
「……誰かいる」
低い声だった。
クラリスも立ち上がる。
その瞬間。
三人とも同じ違和感に気づく。
護衛の気配がない。
ここはアストレア公爵家だ。
しかも今日は、七公家を招いた婚約披露会の直後である。
本来なら、庭にも廊下にも人がいる。
なのに。
妙なほど静かだった。
ルシアンがゆっくり窓へ近づく。
そして。
庭園の奥。
白薔薇のアーチの向こう側に、人影が立っていた。
古びた灰色の外套。
長い灰白色の髪。
痩せた身体。
その老人だけが、まるで最初からそこにいたみたいに夜へ溶け込んでいる。
周囲には、淡い光が浮かんでいた。
妖精たちだ。
けれど。
誰一人、老人へ近づこうとしない。
怯えているみたいだった。
ヴァレリアの背筋へ、嫌な感覚が走る。
戦場で、“本当にまずいもの”と遭遇した時の感覚だった。
老人は静かに一礼する。
動きは穏やかだ。
なのに、本能だけが警鐘を鳴らしていた。
危険だ、と。
濁った灰色の瞳が、ゆっくりヴァレリアへ向く。
「……あなたは、“向こう”を覚えておいでですかな」
静かな声だった。
クラリスは意味が分からないまま二人を見る。
だが。
ルシアンのブルーグレーの瞳だけは鋭く細められていた。
「誰だ」
声が低い。
老人は小さく笑う。
「ただの、昔話を知る老人ですよ」
「昔話にしては、妖精が怯えすぎているな」
ルシアンの視線は鋭いままだった。
老人は否定しない。
代わりに、ヴァレリアを見る。
「あなたは、こちら側の人間ではない匂いがする」
「嫌な言い方だな」
「褒め言葉ですよ」
「全然嬉しくない」
クラリスが小さく息を吐く。
「お嬢様」
「なんだ」
「知らない方へ“嫌な言い方”は、さすがに失礼かと」
「先に変なことを言ってきたのは向こうだ」
「それはそうでございますね」
ルシアンが小さく額を押さえた。
「お前たち、初対面でもその調子なのか……」
老人は、なぜか少しだけ楽しそうに目を細める。
そして。
「――異界が近い」
静かな声だった。
夜風が吹く。
その瞬間。
周囲の妖精たちが、一斉に距離を取った。
ヴァレリアの目が細くなる。
「だから何なんだ、その異界というのは」
「近いうちに分かります」
「説明が雑だな」
思わず本音が漏れた。
数秒。
沈黙。
そのあと。
老人が、ふっと笑う。
「面白いお嬢さんだ」
「よく言われる」
「多分、褒められてないぞ」
ルシアンが静かに言った。
老人は肩を揺らすみたいに笑う。
その時だった。
ヴァレリアが真顔で口を開く。
「ところで」
「はい?」
「お前、どうやって警備を抜けた」
沈黙。
クラリスがゆっくり老人を見る。
ルシアンも黙る。
老人が初めて、少しだけ言葉に詰まった。
「……そこですか」
「重要だろう」
真顔だった。
再び沈黙が落ちる。
夜風だけが、静かに庭を抜けていく。
妖精たちですら、
どこか困ったみたいにふわふわ漂っていた。
そして。
ルシアンが、ものすごく疲れた声で呟く。
「……異界より先に、会話が通じない」
クラリスが小さく頷く。
「深刻でございますね」
老人まで黙った。
しばらくして。
老人は、小さく息を吐くみたいに笑った。
「……次に会う頃には、もっと面白いことになっていそうだ」
「嫌な予感しかしないな」
ルシアンが即座に返す。
だが老人は答えない。
ただ。
どこか懐かしいものを見るみたいな目で、静かにヴァレリアを見ていた。
夜風が吹く。
次の瞬間。
ふっと。
そこにいたはずの老人の姿が消える。
「……消えたな」
ヴァレリアが呟く。
クラリスが静かに周囲を確認する。
「気配もございません」
「本当に何者なんだ、あの爺さん……」
ルシアンが小さく息を吐いた。
その時。
庭の奥で、妖精たちの光が一斉に揺れる。
まるで。
見送るみたいに。
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