外伝 前編 境界の向こうに残るもの
鐘の音が、王都へ静かに響いていた。
雲ひとつない晴天だった。
空はどこまでも高く、春の風は穏やかで、まるで今日という日を世界そのものが祝福しているみたいだった。
あの夜会――半ば公開プロポーズとも呼ばれた騒動から、すでに三年の月日が流れている。
王都大聖堂。
白い花々に彩られた長い回廊。
赤絨毯。
集まった貴族たち。
祝福のざわめき。
そして、その中央では。
なぜか小さな騒ぎが起きていた。
「だからなんで結婚式で包囲確認してるんだお前ら!!」
カイルの悲鳴が、大聖堂へ盛大に響き渡る。
ヴァレリアは真顔のまま答えた。
「癖だ」
「直せ!!」
「無理だな」
隣でルシアンが即答する。
「お前まで肯定するな!!」
クラリスが静かに額へ手を当てた。
今日は珍しく、彼女も侍女服ではない。
深い青灰色のドレス。
露出は少なく、装飾も控えめ。
けれど、その静かな立ち姿だけで、誰もが“ただ者ではない”と理解してしまう空気があった。
「お二人とも」
クラリスが落ち着いた声で告げる。
「本日は結婚式ですので、最低限“敵襲を想定した動き”はお控えください」
ヴァレリアが眉を寄せた。
「だが入口が多い」
「窓も広い」
「高所を取られたら――」
「結婚式です」
クラリスが静かに言い切る。
「はい……」
少しだけしゅんとしたヴァレリアを見て、カイルがとうとう吹き出した。
「お前、クラリスには弱いよな」
「うるさい」
その時だった。
「ヴァル」
ルシアンが低く呼ぶ。
「なんだ」
「ヴェール」
「……あ」
長いヴェールを踏みかけていた。
ルシアンが自然にその端を支える。
動きが、あまりにも自然だった。
まるで昔から、ずっとそうしてきたみたいに。
周囲の貴族たちが小さくざわめく。
ヴァレリアは一瞬だけ目を見開き、それから少しだけ顔を赤くした。
「……すまん」
「気にするな」
「……」
「なんだ」
ヴァレリアが視線を逸らす。
ルシアンは、その反応を見て少しだけ笑った。
「ちゃんと花嫁してるなと思って」
一瞬。
ヴァレリアの思考が完全に止まった。
数秒後。
顔が一気に真っ赤になる。
「お、お前なぁ!!」
カイルが腹を抱える。
「また始まった!!」
クラリスが静かに頷いた。
「平常運転ですね」
「結婚式で平常運転なのがおかしいんだよ!!」
笑い声が広がる。
張り詰めた空気はない。
王都を騒がせた噂も。
“境界座の王”も。
“氷の妖精姫”も。
今この場所では、どこか遠い昔話みたいになっていた。
高い回廊。
大聖堂を見下ろす静かな場所で。
ノルヴァルは、その光景を静かに眺めていた。
妖精たちが彼の周囲をふわふわと飛び回っている。
下では、まだ騒がしい声が続いていた。
「ルシアン!!」
「お前絶対わざと言っただろ!!」
「半分くらいは」
「半分で済むか!!」
ノルヴァルは小さく目を細める。
その時だった。
ヴァレリアが笑った。
心の底から。
何も警戒せず。
何も背負わず。
ただ幸せそうに。
その笑顔を見た瞬間。
ノルヴァルの中で、遠い記憶が静かに重なる。
金色の光。
風。
花。
小さな笑い声。
そして昔。
同じように笑っていた、ひとりの少女。
「父様!」
柔らかな光が、水面みたいに揺れていた。
空は青く、風は静かで、白い花々が果ての見えない草原へどこまでも広がっている。
その中を、ひとりの少女が駆けていく。
長い髪が風に揺れ、舞い上がった花びらが陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
その後ろを妖精たちが楽しそうに飛び回る。
「見てください!」
「今日はこんなに咲きました!」
少し離れた木陰で、ノルヴァルは静かに本を閉じた。
今より少し若い。
けれど、その穏やかな空気は変わらない。
少女を見る時だけ、ほんの少しだけ目元が柔らかくなるところも。
「ええ」
ノルヴァルは小さく笑う。
「綺麗ですね」
少女が嬉しそうに笑った。
その笑顔へ妖精たちが一斉に集まる。
くすくす。
きらきら。
光の粒が春の風へ溶けていく。
平和だった。
境界の向こう側。
人の争いも悲しみも届かない、静かな世界。
少女は、人の世界を見るのが好きだった。
境界の近く。
薄い膜みたいに揺れる光の向こう側を、飽きることなく眺めていた。
遠くの街。
灯り。
祭りの日の音楽。
誰かの笑い声。
雨の日の市場。
夕暮れの鐘。
人の世界は、いつも騒がしくて、短くて、忙しそうだった。
けれど。
だからこそ少女には、どうしようもなく眩しく見えた。
「今日も見ているのですか?」
ある日。
ノルヴァルがそう尋ねると、少女は小さく笑った。
「はい」
「今日は収穫祭みたいです」
「歌っていました」
「ずいぶん楽しそうでしたよ」
ノルヴァルは何も言わない。
ただ静かに、その横顔を見つめる。
少女の目は、ずっと遠くを見ていた。
境界の向こう。
ここではない場所を。
精霊の時間は静かだ。
急ぐこともなく、留まることもなく、ただ穏やかに流れていく。
けれど。
あの子だけは、その流れから少しだけ外れていた。
春を待ち。
夏を喜び。
秋に少し寂しそうな顔をして。
冬の終わりを指折り数える。
まるで、人の子みたいに。
そして少しずつ。
本当に少しずつ。
少女の心は、人の世界へ近づいていった。
ある雨の日だった。
境界の森へ、ひとりの人間が迷い込んだのは。
霧が深かった。
雨音が静かな森へ落ち続けている。
少女は倒れている人影を見つけ、足を止めた。
黒髪の青年だった。
まだ若い。
泥だらけで、肩には浅い傷。
けれど死にかけているわけではない。
ただ。
完全に迷っていた。
青年がゆっくり目を開ける。
ぼんやりと少女を見る。
「……ここ、どこだ?」
少女は少し考えてから答えた。
「境界の近くです」
「……きょうかい?」
「帰れなくなる場所ですよ」
青年は数秒黙って。
それから、なぜか少し笑った。
「それは困るな」
拍子抜けするくらい普通の声だった。
少女は少し驚く。
もっと怯えると思っていた。
もっと恐れると思っていた。
けれど青年は、ただ困ったように笑っている。
妖精たちも興味津々で周囲を飛び回っていた。
「……変なの」
少女が小さく呟く。
青年が首を傾げた。
「そっちもな」
それが、最初だった。
それから。
青年は時々、境界の近くへ現れるようになった。
最初は少年だった。
やがて背が伸び。
声が低くなり。
青年になった。
その隣で。
少女は、ほとんど変わらないまま笑っていた。
春には花の名前を教えた。
夏には川辺へ並んで座った。
秋には人の街の歌を歌って聞かせた。
冬には雪の中、同じ火を囲んだ。
時間が流れていく。
ゆっくりと。
静かに。
けれど確かに。
ノルヴァルは、その全てを知っていた。
娘がどんな顔で笑うのか。
青年が来る日をどれほど楽しみにしているのか。
何も言わなかった。
止めもしなかった。
少女が幸せそうだったから。
そして。
春が、もう一度巡った頃。
少女は花畑の中で、少しだけ照れたように笑った。
「父様」
ノルヴァルが本から顔を上げる。
「なんです?」
少女は少し頬を赤くしながら、それでも隠しきれないくらい幸せそうに笑った。
「……わたし、あの人と一緒に生きたいです」
風が吹いた。
白い花々が波みたいに草原を揺らしていく。
妖精たちが静かに空を舞い、その淡い光が少女の髪へ柔らかく降り注いでいた。
ノルヴァルは、しばらく何も言わなかった。
ただ静かに娘を見る。
花を愛し、人の世界へ憧れ、季節が巡るたび小さく心を揺らしていた少女を。
境界の向こうを見つめながら、「歌が聞こえます」と笑っていた幼い横顔を。
そして今。
その瞳が、もう“こちら側”だけを見てはいないことを理解していた。
ああ。
とうとう、この時が来たのですね、と。
長い時を生きる者らしい静かな諦めと、どうしようもなく優しい愛情で、ノルヴァルはその事実を受け入れていた。
境界の森。
淡い光が木々の隙間へ静かに揺れている。
青年は少し緊張した顔で立っていた。
その隣で少女が小さく笑う。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
「いや」
青年が苦笑する。
「君の父上、なんか怖いんだが」
「怖くありません」
「静かなだけです」
「それが怖いんだよ」
少女がくすくす笑った。
その声を聞きながら。
ノルヴァルは少し離れた場所で二人を見ていた。
青年は娘の手を離さない。
娘もまた、嬉しそうに笑っている。
幸せそうだった。
本当に。
どうしようもないくらいに。
だから。
ノルヴァルは最後まで何も言わなかった。
引き止めなかった。
ただ静かに送り出した。
少女が振り返る。
「父様」
その声は昔と変わらない。
花を抱えて走ってきた頃と同じ声だった。
少女は少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「また会いに来ます」
ノルヴァルは静かに目を細める。
春の風が吹く。
白い花びらが、二人の間を静かに通り過ぎていった。
そして。
穏やかに笑った。
「ええ」
「待っていますよ」
少女が青年と手を繋ぐ。
二人の背中が、境界の向こう側へ消えていく。
妖精たちが静かに空を舞う。
ノルヴァルは、その姿が見えなくなるまで、ずっと静かに見送っていた。
長い間。
本当に、長い間。
ただ静かに。
待つ者として。
けれど。
その約束が果たされることは、結局一度もなかった。




