第17話 静かな方が怖い
正直に言えば。
あれは、かなり妙だった。
朝。
ベルンハルト家の訓練場には、まだ夜の冷気が少しだけ残っている。
白い息が薄く混じる中、カイル・フォン・ベルンハルトは、木剣を肩へ担いだまま、一人で昨日の夜会を思い返していた。
金色の灯り。
弦楽器の音。
貴族たちの笑い声。
その中心で、静かな顔をしていた二人。
“氷の妖精姫”。
そう呼ばれているヴァレリア・フォン・アストレアが、普通ではないことは、もう分かっている。
立ち位置。
視線。
距離感。
人混みの中でも、一瞬たりとも死角を作らない歩き方。
あれは完全に、戦場側の人間だった。
だが。
本当に引っかかったのは、その隣にいた銀髪の婚約者の方だ。
ルシアン・フォン・シュヴァリエ。
静かで。
穏やかで。
完璧な貴公子。
少なくとも周囲には、そう見えていた。
だがカイルは見ていた。
給仕が横を通った瞬間。
ヴァレリアへ近づいていた若い貴族との間へ、ルシアンが半歩だけ割り込んだことを。
本当に自然だった。
誰も気づかないほど滑らかで、会話の空気すら壊さない。
なのに。
気づけば位置関係が全部変わっていた。
人の流れ。
視線。
立ち位置。
全部が、“ヴァレリアを守る形”へ修正されていたのだ。
「……なんだありゃ」
思わず笑いが漏れる。
木剣を肩へ担ぎ直しながら、カイルは空を見上げた。
「絶対、普通じゃねぇだろ」
◇◇◇◇◇◇◇◇
昼過ぎ。
アストレア公爵家の談話室には、穏やかな陽射しが差し込んでいた。
窓の外では春風が庭木を揺らし、白いレース越しの光が静かに床へ広がっている。
平和だった。
少なくとも景色だけは。
ヴァレリアはソファへ浅く腰掛けたまま、紅茶を飲んでいる。
ルシアンは向かい側で本を読んでいた。
ノルヴァルは当然みたいな顔で焼き菓子を食べている。
完全に馴染んでいた。
クラリスだけが、静かな顔で紅茶を注ぎ直している。
その時。
――バンッ!!
勢いよく扉が開いた。
「よし来たぞ!!」
赤髪だった。
ヴァレリアが即座に眉を寄せる。
「うるさい」
「開口一番ひどくねぇ!?」
カイルは全く気にしていない。
むしろ楽しそうだった。
そのまま部屋へ入ってくると、真っ直ぐルシアンを見る。
「なあ」
「なんだ」
「お前、絶対そっち側だろ」
ルシアンが小さく眉を寄せた。
「意味が分からん」
「誤魔化すなって」
カイルは笑う。
「昨日の夜会」
そこで、ルシアンの本を持つ手が、ほんのわずかに止まった。
ヴァレリアは紅茶を飲みながら、平然と口を開く。
「強いぞ」
数秒。
沈黙。
カイルが、にやりと笑う。
「やっぱりな」
ルシアンが深いため息を吐いた。
「なぜそうなる」
「お前、動きが静かすぎるんだよ」
カイルはソファへ腰掛けながら続ける。
「普通の貴族は、あんな風に人の流れ変えねぇ」
「会話していただけだ」
「怖ぇなぁ」
心からそう思った。
ヴァレリアだけが不思議そうな顔をする。
「怖いか?」
「怖ぇよ」
即答だった。
カイルは、少しだけ真顔になる。
「なあルシアン」
「……なんだ」
「一回だけやろうぜ」
嫌そうな沈黙が落ちる。
ルシアンは本を閉じ、静かに額を押さえた。
「断る」
「なんでだよ」
「面倒だ」
「絶対強ぇだろ」
「知らん」
そこで。
ヴァレリアが真顔で口を開いた。
「強いぞ」
「お前は黙ってろ」
ルシアンが即座に返す。
カイルがとうとう吹き出した。
「ははっ!!
やっぱおもしれぇな、お前ら!」
◇◇◇◇◇◇◇◇
アストレア家の訓練場は、午後の日差しを受けて静かに光っていた。
石畳。
白い壁。
整えられた武器棚。
貴族家の訓練場らしく綺麗ではあるが、ベルンハルト家ほど荒っぽくはない。
その中央で。
カイルが木剣を肩へ担ぎながら笑っている。
「一回だけだ」
向かい側では、ルシアンが露骨に嫌そうな顔をしていた。
「その“一回”が信用できん」
「ひでぇなぁ」
ヴァレリアは壁際へ立ったまま、その様子を見ている。
クラリスは少し後ろ。
ノルヴァルはなぜか焼き菓子を持っていた。
どこから持ってきたのかは誰も聞かない。
「では始めるぞー」
カイルが軽い声を出す。
次の瞬間。
空気が変わった。
重心が落ちる。
赤髪の青年の目から、軽薄さが消える。
踏み込み。
速い。
石畳が鋭く鳴った。
普通の相手なら反応すらできない。
だが。
ルシアンは下がらない。
半歩。
ほんのわずかに身体をずらす。
木剣が空を切った。
その瞬間だった。
カイルの視界から、ルシアンの剣が消える。
いや。
違う。
見えなかった。
気づいた時には。
木剣の切っ先が、自分の喉元へ静かに置かれていた。
終わっていた。
音すら小さい。
まるで最初から、そこへ剣が置かれていたみたいだった。
「……は?」
間の抜けた声が漏れる。
訓練場が静まり返った。
ルシアンは呼吸一つ乱していない。
静かな顔のまま、木剣を下ろす。
「終わりだ」
数秒。
沈黙。
それから。
「……ははっ」
カイルが肩を震わせた。
「なんだよそれ」
心底楽しそうだった。
「今、何された?」
「避けただけだ」
「嘘つけ」
ヴァレリアだけが、妙に納得した顔をしている。
雪の夜。
焚き火。
血の匂い。
敵が気づくより先に、静かに急所へ届く刃。
その感覚を、ヴァレリアだけは知っていた。
「ああ……」
思わず、小さく呟く。
「やっぱりそうだな」
ルシアンの目が、ほんの少しだけ細くなる。
その時だった。
訓練場の柵の向こうから、低い笑い声が落ちる。
「はっ。
やっぱそうなるか」
全員の視線が向いた。
そこにいたのは、くたびれた外套姿の男だった。
ジード。
片手に煙草。
もう片方には酒瓶。
完全に観戦していた顔だった。
カイルが目を丸くする。
「お前いつからいた」
「途中からだ」
ジードは柵へ寄りかかったまま、ゆっくり煙を吐く。
その視線が、静かにルシアンへ向いた。
木剣を下ろした姿。
呼吸一つ乱れていない。
音もない剣。
そして、小さく笑う。
「……相変わらず、一番敵に回したくねぇタイプだな」
ルシアンは少しだけ眉を寄せる。
「褒めているのか」
「戦場じゃ最大級にな」
ジードは笑う。
それから今度は、ヴァレリアを見る。
「で、そっちは真正面から全部ぶっ壊す側」
「効率的だ」
「怖ぇんだよ」
カイルが横でとうとう吹き出した。
「やっぱそう見えるよな!?」
「見えるっつーか、
昔マジでいたんだよ、こういう組み合わせ」
ジードが本気で嫌そうな顔をする。
「前衛で暴れる怪物と、
後ろから急所だけ抜く化け物」
ヴァレリアが少し考え込み――
「相性は良かったな」
「良すぎんだよ!!」
即座に返された。
訓練場へ笑い声が響く。
その中で。
カイルだけが、改めて二人を見比べていた。
深い青の瞳を持つ公爵令嬢。
静かな銀髪の貴公子。
並んでいるだけなら、どう見ても完璧な婚約者同士だ。
だが。
中身が完全に実戦側だった。
しかも。
片方は正面突破型。
もう片方は、気づいた時には急所を取っている型。
数秒。
沈黙。
それから。
カイルがとうとう吹き出す。
「……なんだこの夫婦」
ヴァレリアが怪訝そうな顔をする。
「何がだ」
「片方だけでも十分怖ぇのに」
木剣を肩へ担ぎ直しながら、カイルは笑う。
「なんで二人揃えたんだよ」
完全に他人事だった。
「絶対敵に回したくねぇ」
ヴァレリアは少し考え込み――
「敵になる予定はないぞ」
「そういう意味じゃねぇんだよ!!」
訓練場へ、再び笑い声が響く。
だが。
その空気の中で。
ジードだけが、ふっと煙草の火を落とした。
空気が変わる。
ヴァレリアの目が先に細くなる。
ジードは柵へ寄りかかったまま、低い声で言った。
「――で、笑ってるとこ悪ぃんだが」
カイルの笑いが止まる。
ルシアンの空気も静かに変わった。
ジードは、さっきまでとは違う目で周囲を見る。
裏市場の情報屋の目だ。
「ちょっと面倒な話がある」
「何だ」
ルシアンの声は低い。
数秒。
ジードは煙を吐く。
その視線が、ヴァレリアへ向いた。
「七公家、思ったより動きが早ぇ」
訓練場から、笑い声が消える。
風だけが、静かに白壁を抜けていった。
ジードは続ける。
「昨日の夜会、
見てたのは若い貴族だけじゃねぇ」
煙草を咥え直す。
「他の家も気づき始めてる」
ヴァレリアが眉を寄せた。
「何にだ」
数秒。
ジードが、小さく笑う。
「――お前らが、“普通の貴族じゃねぇ”ってことに」
静寂。
ルシアンの目が、静かに細められる。
その横で。
ヴァレリアだけが、本気で意味が分からない顔をしていた。
「……普通では?」
「どこがだ!!」
カイルが即座に叫んだ。
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