第15話 試させろ
昼下がりの談話室には、柔らかな陽射しが静かに差し込んでいた。
窓の外では庭師が低い脚立に乗り、丁寧な手つきで庭木を整えている。
遠くから聞こえてくる噴水の水音も穏やかで、まるで時間そのものがゆっくり流れているみたいだった。
平和だった。
少なくとも、景色だけは。
「暇だな」
窓際に立ったヴァレリアが、真顔で言った。
「平和とも言います」
クラリスが静かに紅茶を置く。
向かいでは、ルシアンが静かに本を読んでいた。
ノルヴァルは当然のような顔で焼き菓子を食べている。
完全に馴染んでいた。
その時だった。
――バンッ!!
勢いよく扉が開く。
「よし、街行くぞ!」
赤髪だった。
ヴァレリアが即座に眉を寄せる。
「うるさい」
「一言目ひどくねぇ!?」
カイルが豪快に笑いながら部屋へ入ってきた。
今日も距離が近い。
武官側の圧が強い。
ルシアンが静かに本を閉じる。
「帰れ」
「お前ほんと俺に冷たくねぇ?」
「当然だ」
「婚約者怖ぇなぁ」
全く堪えていなかった。
カイルはそのままヴァレリアを見る。
「で、行くぞ」
「どこへ」
「街」
ヴァレリアが露骨に嫌そうな顔をした。
「嫌な予感しかしない」
「大丈夫だって。
今日は普通の買い物だ」
「お前が言うと信用できん」
「偏見だろ」
「圧が強い」
「まだ言うのかそれ!?」
ノルヴァルが横で小さく頷く。
「確かに少々圧がありますね」
「聖霊王まで乗る!?」
とうとうカイルが吹き出した。
ルシアンは深いため息を吐く。
「ヴァル」
「なんだ」
「行く気か」
ヴァレリアは少し考え込み――
「……暇だ」
「行くのか……」
諦めた声だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
王都の中央街は、昼の活気で満ちていた。
石畳の道を、絶え間なく人が行き交っている。
露店からは香辛料の香りが漂い、焼き立ての菓子の甘い匂いが風に混じる。
飛び交う商人たちの声。
鍛冶屋から響く金属音。
荷馬車の車輪が石畳を鳴らし、遠くでは子供たちの笑い声も聞こえていた。
貴族街とは違う。
飾られていない、生きた街の空気だった。
ヴァレリアは静かに周囲を見回している。
だが、その視線だけが妙に鋭い。
屋根。
窓。
人の流れ。
路地。
逃走経路。
自然に確認している内容がおかしかった。
カイルが横で笑う。
「お前ほんと馴染むなぁ」
「街は嫌いじゃない」
「そこじゃねぇよ」
ルシアンが小さく息を吐いた。
「完全に周囲警戒してるんだ」
「人が多い」
「市場だからな」
「危険だろ」
「普通はそこまで思わない」
ヴァレリアは納得いっていない顔だった。
その時。
露店の前でノルヴァルがぴたりと止まる。
「……ほう」
嫌な予感しかしなかった。
「何見てる」
「揚げ菓子です」
「またか」
ノルヴァルは真剣だった。
「この香りは素晴らしいですね」
「食うなよ」
「もう買いました」
早い。
いつの間にか、クラリスが静かに紙袋を受け取っていた。
順応が早すぎる。
その時だった。
ふと。
ヴァレリアの目が細くなる。
人混み。
笑い声。
雑踏。
その流れの中で、一人だけ動きがおかしい。
「……右後方」
低い声だった。
ルシアンとカイルの空気が変わる。
ヴァレリアは歩きながら、自然に進路を変えた。
人波。
露店。
柱。
視界が開ける位置へ、無駄なく身体を滑らせていく。
カイルが小さく笑った。
「やっぱおもしれぇな、お前」
次の瞬間だった。
悲鳴。
「きゃっ!?」
人混みを、小柄な影が走り抜ける。
子供だった。
その後ろから男が追っている。
いや。
違う。
追っているように見せている。
ヴァレリアの目が変わる。
「違うな」
「何がだ」
「前だ」
その瞬間。
子供の進行方向から、別の男が飛び出した。
布袋。
一気に抱え込むつもりだった。
誘拐。
周囲はまだ気づいていない。
だが。
ヴァレリアだけが動いていた。
一歩。
踏み込む。
その瞬間、
ドレスの裾がふわりと揺れた。
次にはもう、人波の前へ出ている。
誰も動きに気づけない。
ぶつからない。
迷わない。
人の流れを縫うというより、
最初からそこに道が見えているみたいだった。
男が目を見開く。
「っ!?」
次の瞬間。
ヴァレリアは露店の木箱を片足で蹴り上げた。
浮いた木箱がそのまま回転し、男の脛へ叩き込まれる。
ゴッ!!
「ぎゃっ!?」
体勢が崩れる。
そこへ。
ヴァレリアの手が伸びた。
男の手首を掴み、そのまま捻る。
鈍い音。
短剣が石畳へ落ちた。
拾う。
迷いがない。
そのまま逆手で振る。
ヒュン――
男の外套だけが、綺麗に石壁へ縫い止められた。
静寂。
さっきまでの喧騒が、一瞬だけ綺麗に止まっていた。
露店の店主が、ぽかんと口を開けている。
落ちかけた果物を、途中で掴んだまま固まっている女。
子供を抱き寄せた母親が、遅れて息を飲む。
「……え」
誰かが、小さく声を漏らした。
石壁へ縫い止められた男が、情けない声を上げる。
「いっ、痛ぇ!!
抜けねぇ!!」
そこでようやく、周囲がざわつき始めた。
「な、なんだ今……」
「見えなかったぞ……」
「騎士か?」
「いや、ドレスだろ……?」
「貴族じゃないのか……?」
ヴァレリアは、そんな周囲をまるで気にも留めていない。
短剣を指先で軽く回し、柄を持って男へ差し出す。
「返す」
「怖ぇよ!!」
即答だった。
カイルが腹を抱えて笑う。
「ははっ!!
なんだそれ!!」
だが。
目だけは笑っていなかった。
踏み込み。
視線。
重心移動。
全部が自然すぎた。
訓練された騎士じゃない。
もっと別だ。
もっと実戦寄り。
一瞬でそう分かる動きだった。
「……はは」
思わず笑いが漏れる。
「なんだよそれ」
◇◇◇◇◇◇◇◇
「――で?」
路地裏だった。
「なんでこうなる」
ヴァレリアが真顔で言う。
カイルは笑ったまま、木剣を肩へ担いでいる。
「気になるだろ」
「何がだ」
「お前」
即答だった。
ルシアンが深いため息を吐く。
「やめておけ」
「一回だけだって」
「お前の“一回”は信用できん」
「ひでぇなぁ」
全く反省していない。
カイルは木剣を軽く振る。
「試させろ」
ヴァレリアは少しだけ首を傾げた。
「木剣か?」
その言い方に、カイルの口元が上がる。
「いいねぇ」
路地裏の空気が、すっと静かになった。
クラリスが壁際へ下がる。
ノルヴァルは揚げ菓子を食べている。
自由だった。
ルシアンだけが、静かにヴァレリアを見ていた。
カイルが構える。
帝国騎士団。
その中でも前線寄り。
隙のない構えだった。
だが。
ヴァレリアは動かない。
力みもない。
ただ自然に立っている。
風が吹いた。
次の瞬間。
カイルが踏み込む。
速い。
石畳が鋭く鳴った。
普通の相手なら、反応すらできない。
だが。
――カンッ!!
乾いた音。
本当に一瞬だった。
気づけば。
カイルの木剣が空中を回転している。
「……は?」
間の抜けた声が漏れた。
ヴァレリアは半歩横へずれた姿勢のまま、木剣を握っている。
終わっていた。
あまりにも自然に。
ヴァレリアが首を傾げる。
「終わったぞ」
数秒。
沈黙。
それから。
「ははっ……!」
カイルがとうとう吹き出した。
「マジかお前!!」
心底楽しそうだった。
ルシアンは額を押さえている。
「だから言ったんだ……」
クラリスは静かに目を閉じた。
ノルヴァルは揚げ菓子を食べながら頷く。
「美しいですね」
「何が!?」
カイルが笑いながら言う。
ヴァレリアだけが意味が分かっていない顔だった。
カイルはそんなヴァレリアを見て、少しだけ真顔になる。
「……なるほどな」
小さく呟く。
「そりゃ、
隠したがるわけだ」
ヴァレリアが眉を寄せた。
「何の話だ」
カイルは答えない。
代わりに、にやりと笑う。
「なあヴァレリア」
「なんだ」
「今度は本気で手合わせしようぜ」
ルシアンが即座に口を挟んだ。
「やめておけ」
「なんでだよ」
「お前が無事で済まない」
「そこまでか!?」
カイルが笑う。
ヴァレリアだけが、少し考え込んでいた。
「……そんなに脆いのか?」
「自覚がないのが一番怖い」
ルシアンの声は真顔だった。
数秒の沈黙。
そして。
カイルがとうとう吹き出す。
「ははっ!!
最高だなお前ら!」
昼の喧騒が、路地の向こうからまだ聞こえている。
その中で。
ヴァレリアだけが、最後まで意味が分かっていなかった。
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