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第9話 救いを求める声

 翌朝、ゼノンは物音で目を覚ました。


 外ではもう何人かの村人が起き出しており、水を運ぶ音や、家畜をつなぎ直す声が聞こえている。昨日まで死にかけた村とは思えないほど、朝の気配が戻っていた。


 だが、目を開いた瞬間にまず飛び込んできたのは、そんな生活音ではなかった。


 見える。


 人の気配の上に、薄い金色の流れが幾筋も重なっていた。


 外を行き交う村人たちから立ちのぼる、小さな願い。

 今日も倒れませんように。

 子どもがまた熱を出しませんように。

 畑が持ち直しますように。

 そして、その流れのいくつかが自然と、自分のいる空き家の方へ向かっている。


「……本当に面倒だな」


 寝起きの掠れた声で呟いて、ゼノンは額を押さえた。


 地下から戻ってから、力の感覚は明らかに変わっていた。昨日までは“何となく分かる”程度だったものが、今は意識しなくても視界の端にちらつく。便利だが、落ち着かない。人の感情を視覚に近い形で捉えるなど、まともな神官の感覚ではない。


 その時、扉が遠慮がちに叩かれた。


「ゼノンさん、起きてる?」


 ミラの声だ。


「起きてる」


 そう返すと、扉が少しだけ開いた。ミラは両手に木皿を抱えている。載っているのは薄い粥と、わずかな塩漬けの野菜だった。


「朝ごはん。みんなで相談して、一番消化にいいの持ってきた」


「お前たちの方がまだ食うべきだろ」


「ゼノンさんが倒れたら困るから」


 即答だった。


 その一言に、また胸の奥が温かく揺れる。ゼノンは面倒そうに息を吐きながらも、木皿を受け取った。


「……で、用件は飯だけか」


「ううん。村長さんがあとで広場に来てほしいって。井戸のことじゃなくて、村のこれからのこと」


「村のこれから?」


「たぶん、困ってることの話」


 それを聞いた瞬間、嫌な予感がした。


 病が治まりかけたからといって、村が立て直るわけではない。数日まともに働けなかった畑、汚染で使えなくなった井戸、減った備蓄。問題はいくらでも残っている。


 ゼノンは黒パンではなく粥を口に運びながら、内心で舌打ちした。


 救ったら終わりではない。

 当たり前のことだ。


 だが、その“当たり前”がいつも人を際限なく消耗させる。前世でもそうだった。一つの問題を片付ければ、次の問題が当然のように積み上がる。感謝されるのは一瞬で、すぐに「じゃあ次も」と期待される。


 それが嫌で、誰のためにも頑張らないと決めたはずなのに。


「ゼノンさん?」


「何でもない。食ったら行く」


 ミラは頷いたが、扉を閉める前に少しだけ躊躇った。


「あのね」


「何だ」


「今日は……昨日より、もっといろんな人が来てる」


「来てる?」


「うん。村の外から」


 ゼノンの手が止まる。


「どういう意味だ」


「朝早くに、隣の集落の人が来たの。ここの病がよくなったって聞いて」


 空気が、すっと冷えた気がした。


 噂が広がるには早すぎる。だが辺境では、誰かが助かったという話ほど速く伝わるものもない。中央からの救いが来ない場所ほど、そういう話に縋るしかないからだ。


 ゼノンはゆっくりと息を吐いた。


「……最悪だな」


 ミラは小さく首を傾げた。


「助かったって話が広がるの、悪いこと?」


「悪い。少なくとも、ろくなことにはならない」


 言いながら、胸の奥で別の感情が小さく揺れたのを自覚する。


 期待されることへの警戒。

 巻き込まれることへの苛立ち。

 そして、ごくわずかに――必要とされることへの熱。


 認めたくない感情だった。


 広場へ出ると、いつもより多くの人が集まっていた。


 村の顔ぶれに加え、見慣れない者が四人。日焼けした男、背に子どもをおぶった女、痩せた若者、それに杖をついた老婆。服の汚れ方からして、かなり急いで歩いてきたのだろう。


 彼らはゼノンの姿を見るなり、一斉に視線を向けた。


 熱い。

 むき出しの祈りが、ほとんど形を持って押し寄せてくるようだった。


「この人が……」

「本当に、井戸の病を……」

「頼む、うちの村も……」


 ゼノンは眉間に皺を寄せた。


「勝手に期待するな」


 それが第一声になったのは、半分は自衛だった。


 だが四人のうち、一番年配の老婆はその言葉にすら縋るように一歩進み出た。


「期待でも何でもしますよ。もう、それくらいしか残っていないんだ」


 かすれた声だった。


「うちの集落じゃ、病はまだ出ていない。でも井戸の水位が急に下がって、畑も干上がり始めた。昨日、ここの村が死にかけていたのに、一晩で持ち直したって聞いて……何か知っているなら、教えてほしい」


 病だけではない。


 ゼノンの頭の奥で、地下回廊の壁に刻まれていた言葉がよみがえる。

 祈りは流れ。

 流れは世界を満たす。


 もし井戸の下にあるものが、この周辺一帯の地脈に関わっているのだとしたら、異変が一つの村だけで済むとは限らない。


 村長が険しい顔で口を開く。


「ゼノンさん、私からはまだ何も話していません。ただ……この方々は、うちの井戸の異変も前から知っていたそうで」


「知っていて助けに来なかったのか?」


 思わず刺のある声になる。


 だが若い男は悔しそうに拳を握った。


「来たさ。何度も来た。けど、うちも余裕なんてなかった。こっちも教会に頼って、断られて、それで……」


 そこで言葉が詰まる。


 責めるのは簡単だ。だが、彼らもまた辺境で生きる側だ。中央の人間のように、余裕のある立場から誰かを見捨てたわけではない。ただ自分たちも、生きるだけで精一杯だっただけだ。


 それが分かるから、ゼノンは余計に苛立つ。


 結局、どこまで行っても足りない者同士で支え合うしかない。教会も勇者も来ない場所では、最初からそう決まっているみたいに。


「ゼノンさん……」


 ミラが不安そうにこちらを見る。


 広場の空気が重い。

 願いが、祈りが、痛いほど集まってくる。


 助けてほしい。

 なんとかしてほしい。

 知っているなら、救ってほしい。


 その熱を、今のゼノンは前よりもずっと鮮明に感じ取れてしまう。胸の奥の力が、それに応えるように淡く脈を打った。


 危険だ、と理性が告げる。


 ここで安易に頷けば、際限がなくなる。

 一つ救えば次、次を救えばまた次。やがて自分一人では抱えきれなくなり、それでも周囲は当然のように期待する。そうして人は壊れる。


 前世でも、もう十分味わった。


 なのに――


 ゼノンはふと、昨日の焚き火の夜を思い出した。

 食事を囲んで笑う村人たち。

 生き延びたというだけで戻った、小さな生活の音。

 自分が“応えた”ことで、誰かの願いがそのまま誰かを支えた感覚。


 あれを見てしまったから、簡単には切り捨てられない。


「……まず、状況を聞く」


 口から出た言葉に、広場の空気が揺れた。


「助けるとはまだ言ってない。井戸の位置、畑の様子、水位が下がり始めた時期、病人の有無、全部だ。話を聞いてから判断する」


 それでも、四人の表情は一気に明るくなった。


「ありがとうございます……!」

「話だけでも……!」

「助かる、ほんとに……」


 金色の流れが一斉に揺れ、自分へ向かいかける。


 ゼノンは意識して、それを真正面から受けないよう外へ逃がした。まだ何もしていない段階で応えてもいない祈りを、力に変える気にはなれなかった。


「勘違いするな。まだ何もしてない」


 釘を刺すように言ってから、ゼノンは地面に枝で簡単な地図を描かせた。


 隣の集落はこの村から半日ほど北。小さな湧き水と一本の用水路に頼る農村で、最近になって急に水量が減り、家畜が痩せ始めたという。病はまだないが、土がやせ、作物の葉先が黒ずんでいる。


「……似てるな」


 井戸水の汚染とまったく同じではない。だが、地下の流れが歪んだ時の症状としては十分あり得る。


 ゼノンは地図を見下ろしながら考え込んだ。


 自分が昨日たどり着いたのは、たまたまこの村の井戸の下にあった祭壇だ。だが木版にあった『辺境第三区画』という記述が本当なら、同種の封印や導路がこの周辺一帯に散っていてもおかしくない。


 だとすれば、これは村ひとつの問題ではない。


 もっと広い。


 もっと面倒だ。


「ゼノンさん」


 ミラが、少しだけ息を呑むようにして聞いた。


「行くの?」


 その問いに、ゼノンはすぐには答えなかった。


 行けば、確実に厄介事が増える。

 戻れなくなるかもしれない。

 教会の隠しているものへ、さらに踏み込むことになる。


 だがここで目を背ければ、次に死にかけるのは今目の前にいる人間たちかもしれない。そして、その時また自分は、“知っていたのに何もしなかった側”になる。


 それが嫌だった。


「今日中には決める」


 短くそう言うと、四人は不安げに顔を見合わせた。


 ゼノンはそのまま村長へ向き直る。


「その間に、この村の備蓄を確認しろ。病み上がりの連中がどれくらい動けるかもだ。もし俺が外へ出るなら、こっちも最低限自力で回る状態にしておく必要がある」


「わ、分かりました!」


「ミラ、お前は回復した連中の様子を見てこい。無理して動いてる奴がいたら寝かせろ」


「うん!」


 皆が散っていく。


 だがゼノンだけはその場に残り、地面に描かれた粗い地図を見下ろした。


 村と村を結ぶ道。

 枯れかけた用水路。

 そして、その下にきっと眠っている、見えない流れ。


 助けを求める声は、もう一つではなかった。

 この先、いくつ増えるのかも分からない。


 それでも耳を塞げないのは、自分がもう“知ってしまった側”だからだ。


 風が吹き、地面の線を少しだけ掠めた。


 その時だった。


 胸の奥の力が、ごく微かに北の方角へ引かれるような感覚を返した。


 まるで――そこにも何かがある、と告げるように。


 ゼノンは目を細める。


「……本当に、一区画だけの話じゃないのか」


 井戸の底の祭壇。

 原初の座。

 辺境第三区画。

 そして今度は、北の集落の水枯れ。


 点だったものが、少しずつ線になり始めていた。


 厄介事の気配しかしない。


 それなのに、胸の奥ではもう、静かに次の流れを追い始めている自分がいた。

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