第10話 聖教会は救わない
昼過ぎになっても、ゼノンはまだ北の集落へ向かうか決めきれずにいた。
広場の片隅、粗末な木箱に腰を下ろしたまま、彼は地面に描かれた簡単な地図を見つめている。自分の村、北の集落、枯れかけた用水路、林道。視線を線でなぞるたび、胸の奥にある淡い熱が、北の方角へわずかに引かれるように揺れた。
気のせいではない。
井戸の底の祭壇に触れてから、ゼノンの感覚は明らかに変わっていた。人の祈りだけではない。地の流れそのものが、うっすらと輪郭を持って見えることがある。北から返ってくる感覚は弱い。だが弱いからこそ不気味だった。井戸の時のように表面へ漏れ出す前の、もっと深い歪みかもしれない。
「ゼノンさん」
振り返ると、ミラが小走りで近づいてきた。昨日よりさらに顔色が良くなっている。まだ頬は痩せているが、足取りはもう病人のものではなかった。
「北の人たち、まだ待ってる」
「帰らせろと言っても帰らないだろ」
「うん。絶対帰らないと思う」
だろうな、とゼノンは心の中で返す。
広場の反対側では、北の集落から来た四人が小さく身を寄せ合っていた。疲労と不安が濃い。だが、その奥にはどうしようもない期待がある。救われた村を見てしまった人間の目だった。
厄介だ。
期待は人を縛る。
前世でも、この世界でも、それは変わらない。助けを求められれば応えたくなる。応えれば次も期待される。そうやって際限なく背負わされて、最後に足りなければ責められる。それが分かっているからこそ、ゼノンは決めきれずにいた。
その時だった。
村の入口の方から、車輪の軋む音が聞こえた。
広場にいた全員の顔が一斉にそちらを向く。
土煙を上げながら入ってきたのは、白い布を張った小型の荷馬車だった。側面には聖教会の紋章。荷台には木箱がいくつか積まれ、御者台には灰色の法衣を着た男が座っている。荷馬車の左右には、簡素な鎧を着た護衛が二人。
村の空気が、目に見えて固まった。
「……教会」
誰かが、喉を引きつらせるように呟いた。
ゼノンは立ち上がった。
遅い、とまず思った。
次に、面倒だとも。
荷馬車は広場の中央で止まった。御者台から降りてきたのは、三十代半ばほどの男だった。痩せた顔。整えられた髪。法衣は清潔だが、靴にはこの村までの泥がほとんど付いていない。途中まで街道の良いところしか通っていない証拠だった。
男は村人たちを見回し、それから少しだけ眉をひそめた。
「……思ったより元気そうだな」
その第一声に、ゼノンは目を細める。
村長が恐る恐る前へ出た。
「巡回司祭さま……」
「ベルム補祭だ。司祭ではない」
男――ベルムは、面倒そうに訂正した。謝罪も、遅れへの説明もない。ただ帳面を開き、広場の面々を見渡す。
「数日前に疫病の報せが来ていた。薬草と簡易浄化剤を持ってきたが……必要なさそうだな」
必要なかったのではない。
遅すぎたのだ。
だが村長はそれを口にできず、唇を震わせるだけだった。北の集落から来た老婆が思わず一歩前へ出る。
「薬草? 今さらですか」
ベルムが、初めて彼女を見る。
「今さら、とは?」
「この村は昨日まで死にかけていた。教会に何度も使いを出したのに、人手がない、順番を待てと、そればかりだったじゃないか」
老婆の声は怒りよりも、長く押し殺してきた諦めに近かった。
ベルムは眉一つ動かさない。
「辺境全域で同様の要請が増えている。中央にも優先順位がある。すべての村へ即座に神官を派遣するのは不可能だ」
「じゃあ、ここは後回しで死ねということか」
「極端な物言いはやめていただきたい」
淡々とした口調だった。
だがその冷たさに、広場の空気がさらに張る。
ゼノンは黙ってベルムを観察していた。
新しい感覚のせいか、その男の周囲に漂うものが妙に薄く見える。信仰の熱ではない。義務と保身、面倒を増やしたくないという乾いた思考。神官なら誰もが纏うはずの祈りの残滓が、驚くほど希薄だった。
代わりに村人たちの方には、怒りと不安と、助かりたいという切実さが濃く渦巻いている。
どちらが“神に近い”のか、考えるまでもなかった。
ベルムは帳面を閉じ、村長へ向き直った。
「で、なぜ回復した?」
広場が静まり返る。
「報せでは、井戸由来の疫病で重篤者多数。自然治癒する規模ではない。しかも、今朝方すれ違った商人からは“この村で奇跡が起きた”などという馬鹿げた噂まで聞いた」
その視線が、村人たちのあいだをゆっくりと滑る。
「誰が治した?」
誰も答えない。
ミラが小さく息を呑むのが、ゼノンには分かった。
ベルムはそれを見逃さなかったらしい。視線がミラへ向かう。その瞬間、ゼノンは一歩前へ出た。
「そんなことを聞いてどうする」
広場の空気が、ぴんと張る。
ベルムが初めてゼノンを正面から見た。法衣はくたびれ、袖には井戸の泥が残っている。補助神官だった頃の名残はあっても、今の姿は教会から見れば正規の人員には見えないだろう。
「あなたは?」
「通りすがりだ」
「通りすがりが、この村の事情に口を挟むと?」
「挟みたくもなる。来るのが遅すぎるからな」
護衛の一人がぴくりと動いた。だがベルムは片手で制し、ゼノンを値踏みするように眺めた。
「なるほど。噂の出どころはあなたか」
「勝手に決めつけるな」
「決めつけではない。私は回復した村を見ている。そして、正規の神官はここへ派遣されていない。なら残る可能性は少ない」
ベルムの声は低かったが、そこに宿るものは疑念より先に警戒だった。
「聖教会の許可なく治癒行為を行ったのなら、内容によっては異端審問の対象となる」
その単語に、広場が凍りついた。
ミラの母親が震え、村長の顔から血の気が引く。
ゼノンはベルムを見据えたまま、ゆっくりと言った。
「死にかけた人間を前にして、最初に出てくる言葉がそれか」
「規則だ」
「便利な言葉だな」
ベルムの眉がわずかに寄る。
ゼノンは一歩、さらに前へ出た。
「ここの連中は教会に助けを求めた。何度もだ。だが来なかった。来たのは全部が終わってからだ。そのくせ、生き延びた理由は問いただす。面白い仕組みだな、聖教会は」
「口を慎め」
「慎まなければどうする。今度は見殺しにした上で、助かった理由まで奪うのか」
護衛の一人が剣の柄に手をかけた。
村人たちのあいだから、怯えた気配が一気に立ちのぼる。その流れがゼノンへ向かいかけるのを感じ、彼は無意識に息を整えた。受けるな。飲まれるな。応えることと、呑み込むことは違う。
ベルムはゼノンを睨んだまま、ゆっくりと息を吐く。
「いいだろう。争いに来たわけではない」
そのわりに、目は冷えていた。
「だが井戸は確認させてもらう。疫病の原因が残っているなら封鎖が必要だ。村人の安全のためにもな」
「駄目だ」
即答すると、ベルムの目が細くなる。
「なぜだ」
「まだ不安定だ。素人が近づけば逆に危ない」
「私は聖教会の補祭だ」
「だから何だ」
ゼノンの声は低かった。
「ここで死にかけた人間を診たのはあんたじゃない。井戸の異変を見たのも、底に何があるか知ってるのも俺だ。今近づけば危険だと言っている」
嘘ではない。
だが全部を言ってもいない。
ベルムは沈黙した。迷っているのではない。計算している。ここで強引に踏み込むことの損得を測っているのが、薄い流れの揺れ方で分かった。
村人たちは今、ゼノン側だ。
ここで教会が井戸へ近づき、何か起きれば責任問題になる。逆に、何も起きずともこの場で強権を振るえば、噂はさらに広がる。
ベルムはその程度には慎重だった。
「……いいだろう。今日は確認しない」
村人たちのあいだから、ほっとした息が漏れる。
だが補祭はそこで終わらなかった。
「その代わり、報告は上げる。この村で正規手続きを経ない治癒が行われた可能性。井戸の異変の詳細が不明であること。外部の不審人物が村人を扇動していること」
「不審人物、ね」
「名乗れない時点で十分だ」
ゼノンは鼻で笑いそうになった。
本当に教会らしい。救えなかった事実ではなく、管理できなかった事実にだけ反応する。
ベルムは村人たちを見回す。
「よく覚えておけ。聖教会の庇護なしに存在する奇跡はない。もしそれらしきものがあるとすれば、それは奇跡ではなく――」
「異端か?」
ゼノンが遮ると、ベルムは口を閉じた。
「便利だな。そう言っておけば、助からなかった理由も、助かった理由も、全部処理できる」
広場の向こうで、誰かが小さく嗚咽した。
ベルムはそれ以上何も言わず、法衣の裾を翻した。荷馬車へ戻りながら、最後に村長へ短く告げる。
「薬草は置いていく。浄化剤もだ。使い方は箱に書いてある」
そこで一拍置き、冷たい声で続けた。
「次に来るのが私とは限らない。軽率な噂は慎め」
そうして補祭は護衛を連れ、広場を後にした。
車輪の音が遠ざかっていく。
誰も、しばらく動けなかった。
最初に口を開いたのは村長だった。
「……申し訳ありません。こんなことに」
「謝るな」
ゼノンは荷馬車の消えた方角を見たまま答えた。
「遅かれ早かれこうなる。助かった村が一つあれば、教会は必ず嗅ぎつける」
ミラが不安そうに袖を掴む。
「ゼノンさん、どうなるの」
「面倒になる」
「それは分かるけど……」
困ったようなその顔に、ゼノンは短く息を吐いた。
「少なくとも、ここに長く留まるのはまずい」
北の集落から来た四人が、はっと顔を上げる。
ゼノンは地面の地図へ視線を落とした。
教会はもう気づいた。
噂も広がり始めている。
なら、この村で立ち止まっている時間はない。
しかも北の異変は、待ってはくれないかもしれない。胸の奥の引きが、さっきよりわずかに強くなっている気がした。
「今日のうちに北へ行く」
言うと、四人の顔が一気に強張る。喜びより先に、信じきれないという色が出るあたりが辺境の人間らしかった。
「ほ、本当に……?」
「今から……?」
「勘違いするな。あんたらのためだけじゃない。そっちの異変がここと繋がってる可能性がある。俺も確かめたいだけだ」
それでも彼らの目に宿るものは、感謝に変わる。
金色の流れがまた立ち上がりかけ、ゼノンは舌打ちしたい気分になった。
だが今度は、正面から拒まなかった。
少しだけ流れを整え、自分の内へ取り込まず、行動のための集中へ変える。熱は残るが、昨夜ほど重くはない。地下で得た第一節の知識が、確かに役立っていた。
村長が慌てて言う。
「準備をします。食料と水、それから荷運びに慣れた者も――」
「人数はいらない」
ゼノンは即座に切る。
「大勢で動けば目立つ。教会に追いつかれたら余計面倒だ。案内役を一人、北の地理に詳しい奴を出せ。それだけでいい」
「じゃあ、私が行く」
ミラだった。
広場の空気が一斉にミラへ向く。母親が青ざめる。
「駄目よ、ミラ! あんた昨日まで――」
「もう歩ける。道も知ってる。北の人たちの集落、何度かおつかいで行ったことあるもん」
「それでも……!」
ゼノンはミラを見る。
少女の目はまっすぐだった。無茶をしたいだけではない。自分も助けられた側だからこそ、次に苦しむ誰かを放っておけないという色が、その流れに出ている。
面倒だ。
ひどく面倒だ。
だが、よく知っている目でもあった。
無理だと分かっていても手を伸ばしてしまう人間の目だ。
「半日歩けるか」
ミラはすぐに頷いた。
「歩ける」
「途中で倒れたら置いていく」
「倒れない」
「言い切るな」
そう返すと、ミラはほんの少しだけ笑った。
村長も母親も不安そうだったが、他に適任がいないのも事実らしい。結局、準備は慌ただしく進み始めた。乾いたパン、水袋、簡易の薬草、道中用の布。村人たちがそれぞれできることを持ち寄ってくる。
その光景を見ながら、ゼノンは井戸の方を振り返った。
底には祭壇がある。
教会は嗅ぎつけた。
北にも異変がある。
点が線になり始めている。
そして、その線の先にあるものはたぶん、辺境の一村で収まる話ではない。
ミラが荷を抱えて戻ってきた。
「用意できた」
「早いな」
「ゼノンさんが、早く行く顔してたから」
そんな顔をしていたつもりはない。だが否定もしなかった。
広場の出口へ向かって歩き出すと、村人たちが静かに道を開ける。誰も大声では何も言わない。ただ視線だけが、痛いほどまっすぐに向けられていた。
助けてほしいという祈りではない。
今度は、無事でいてほしいという願いが混じっている。
それが妙に、胸に残った。
村の外れで一度だけ足を止め、ゼノンは振り返る。
昨日まで死にかけていた村。
今はまだ脆いが、それでも立ち直ろうとしている場所。
ベルムの馬車が去った街道の向こうには、聖教会がある。
北の林道の先には、次の異変がある。
どちらも、放っておけば必ずこちらへ迫ってくる。
「……先に動くしかないか」
自分に言い聞かせるように呟くと、隣でミラがこくりと頷いた。
「うん」
短い返事だった。
だがその一音に、不思議と迷いが削られる。
ゼノンは前を向いた。
辺境の林道は細く、先は木々に隠れて見えない。
けれど胸の奥の熱だけが、確かにその先を指していた。
救いを求める声は、もう一つではない。
そして聖教会は、その声に応えない。
なら――誰が応えるのか。
その問いにまだ答えられないまま、ゼノンはミラとともに北へ向かって歩き出した。




