第11話 枯れゆく水脈
北へ向かう林道は、昼を過ぎるにつれて細くなっていった。
村を出てしばらくは獣道に毛が生えた程度の道幅があったが、やがて両脇の木々が迫り、枝葉が頭上を覆い始める。湿った土の匂い。遠くで鳴く鳥の声。足元には古い轍の跡が残っているものの、最近はほとんど荷車も通っていないらしかった。
ゼノンは先を歩きながら、何度も無意識に地面へ視線を落としていた。
見えるわけではない。
だが感じる。
胸の奥にある淡い熱が、時折、足元のさらに下へ引かれるように揺れる。井戸の底で感じたあの導路の気配に似ていた。ただし今回はもっと薄く、広く、網の目のように散っている。
一本の流れではない。
いくつもの細い流れが、この辺境一帯を地下で繋いでいる。
そんな感覚だった。
「……やっぱり、一区画だけの話じゃないな」
前を向いたまま呟くと、後ろからミラが小走りで距離を詰めてきた。
「何が?」
「独り言だ。気にするな」
「またそうやってごまかす」
少し不満そうに言う声は、けれど昨日までよりずっと元気だ。病み上がりのくせに歩く速度も落ちていない。無理をしている気配はあるが、それ以上に気持ちが前へ出ている。
隣の集落から来た四人は先行している。彼らは道を知っている分だけ足取りが早く、ときどき立ち止まってこちらを待つ形になっていた。焦っているのだろう。戻る先に、明日の水も作物も不安な集落があるのだから当然だ。
ミラが少し息を整えながら聞いた。
「ゼノンさん、ほんとに教会って助けてくれないのかな」
「助けることもある」
「でも、うちの村は来なかった」
「中央にとって優先順位が低かったんだろうな」
「それって、見捨てたってことじゃないの」
ゼノンはすぐには答えなかった。
正しい言い分はいくらでもある。人手が足りない。重要拠点を優先する。辺境すべてを平等に救うのは不可能。どれも理屈としては間違っていない。
だが理屈の正しさと、目の前の人間が救われるかどうかは別だ。
「結果だけ見れば、そうだ」
短く返すと、ミラは黙った。
しばらく歩いた先で、林道の脇に小さな石造りの祠が現れた。半ば崩れた旅人用の聖堂だ。入口には聖教会の古い紋章が刻まれているが、蔦が絡みつき、扉も片方が外れかけている。祭壇の前に供えられていたらしい花は完全に枯れ、燭台にはいつのものかも分からない煤が残るだけだった。
ミラが足を止める。
「ここ、前は旅の神官さまが休んでたって聞いたことある」
「今は誰も来てないみたいだな」
ゼノンは崩れた祭壇を一瞥した。
祈りの場所ですら放置される辺境。
聖教会の言う“救い”が、どこまで届いているのかよく分かる景色だった。
その時だった。
胸の奥の熱が、祠の下を通るように一瞬だけ強く脈打った。
「……っ」
「ゼノンさん?」
「ここにも、何か流れてる」
「流れてる?」
ミラには意味が分からないようだったが、ゼノンはそれ以上説明しなかった。祠の床石の一部に、井戸の底で見た導路の金色に似た細い線が埋まっているのが見えたからだ。土と埃に覆われてほとんど分からない。普通ならただの傷にしか見えないだろう。
だが、確かに同じものだった。
「……教会は知らないんじゃない。知ってて、上に建物をかぶせて隠してるのか」
思考がひどく嫌な方向へ繋がる。
井戸の下の祭壇。
辺境第三区画。
そして今度は、街道脇の朽ちた祠の下を走る導路。
もしこれが偶然でないなら、この辺境には昔から原初魔法の系統に属する施設か流路が張り巡らされ、その上に聖教会が後から自分たちの信仰施設を建てた可能性がある。
上書きだ。
歴史ごと。
「ゼノンさん、行こう」
先行していた四人が振り返り、焦ったように手を振っている。ゼノンは祠から目を離し、再び北へ向かった。
集落が見えてきたのは、日が傾き始める頃だった。
最初に目についたのは畑だった。
広さそのものはゼノンのいた村とそう変わらない。だが作物の色が悪い。葉先が黒く縮れ、土はひび割れている。水が足りていないだけではない。生気そのものが抜けているような、不自然な痩せ方だった。
囲いの中の山羊も、肋が浮くほど痩せている。
小さな子どもが桶を抱えて井戸ではなく、集落の外れの方へ歩いていくのが見えた。
「……井戸はないのか」
ゼノンが呟くと、先導していた若い男が答えた。
「あるにはある。でも水位が落ちて、泥ばっかりになっちまったんだ。今は湧き水を汲んでる」
集落へ入ると、人々が一斉にこちらを見た。
期待。
不安。
疑い。
縋るような願い。
小さな村で感じたものよりさらに切実な流れが、じわりとゼノンへ向かう。数は多くない。だが、追い詰められた人間の祈りは重い。胸の奥の力がそれに応えようとして、小さく脈を打った。
ゼノンはわざと眉をしかめる。
「見るだけだ。まだ助けるとは言ってない」
先に釘を刺すと、集落の人間たちは落胆しかけ、それでも完全には希望を捨てきれない顔で頷いた。
案内された湧き水の場所は、集落の北端、岩場の下だった。
昔は豊かに湧いていたのだろう。石を積んだ導水溝があり、その先で桶に水を受けられるようになっている。だが今は、糸のように細い水がちょろちょろと落ちるだけだ。溝の底には乾いた泥がこびりつき、周囲の土もところどころ灰色に変色している。
ゼノンはしゃがみ込み、水に手を浸した。
冷たい。
だが井戸の時のような明確な汚染は感じない。
代わりに、水の“奥”が空洞のように薄い。
「上流で何かが詰まってるわけじゃないな」
「分かるのか?」
隣で老婆が息を呑む。
ゼノンは岩肌に手を当てた。胸の奥の熱へ意識を向ける。地の下を流れるものを探るように、感覚を細く伸ばしていく。
すると見えた。
地下のさらに下を走る、金色に近い細い流路。
それがこの湧き水の真下で不自然に痩せている。流れが止まっているのではない。どこか別の方角へ、無理やり吸い上げられているような形だった。
「……奪われてる」
「え?」
「水じゃない。流れそのものがだ」
言ってから、ゼノンは自分でも説明の雑さに顔をしかめる。だが実感としてはそうとしか言えなかった。祈りや地脈のような“満ちるべきもの”が、ここだけ痩せている。結果として水も土も弱っているのだ。
岩場の脇に、半ば土へ埋もれた石柱があるのが目に入った。
苔を払い、表面をなぞる。
やはり文字が刻まれていた。
聖典にない文字。
そして、やはり読める。
「第二導路……分流点……」
ゼノンが小さく読み上げると、周囲の人間たちがざわめく。
「読めるのか?」
「何て書いてあるんだ?」
ゼノンは石柱を凝視したまま答えた。
「ここは流れを分ける地点だったらしい。水脈だけじゃない。もっと別の……満ちる力みたいなものを、各地へ配るための」
「配る?」
「多分な」
その下の文字列にも視線を走らせる。
『供給不足時、上位座へ回帰』
『過剰回収を禁ず』
『偏流は周辺枯死を招く』
ゼノンの背筋に冷たいものが走った。
偏流。
周辺枯死。
今この集落で起きていることそのものだ。
「……誰かが、どこかで流れを吸ってる」
思わず漏れた声に、ミラがすぐ反応した。
「吸ってるって、誰が?」
「分からない。けど自然現象じゃない」
井戸の時は封が緩んで漏れ出した。
今度は逆だ。どこか上位の地点か、あるいはもっと大きな原初の施設が、周辺の流れを引き寄せている。
もしこれが意図的なものなら、かなり悪い。
集落の長らしき男が、押し殺した声で言った。
「ゼノンさん……それ、治せるのか」
その問いに、全員の視線が集まる。
重い。
期待の流れが一斉にこちらへ向く。
ゼノンは石柱から手を離し、立ち上がった。
「今すぐは無理だ」
正直に言うと、何人かがあからさまに肩を落とした。だがゼノンは続ける。
「原因の位置がここじゃない。分流点は痩せてるだけだ。上流――いや、もっと上位の場所を探らないと、ここをいじっても一時しのぎにしかならない」
「その“上位の場所”ってのは、近いのか……?」
「まだ分からん」
本当は、少しだけ当たりがあった。
胸の奥の熱が、北東へ細く引かれている。
おそらくこの集落からさらに先だ。
だがそれを軽々しく口にしたくなかった。口にした瞬間、次も当然のように求められるからだ。
その時、背後の岩場の奥から、乾いた咳が聞こえた。
振り向くと、十歳にもならない少年が、空の桶を抱えたまま立っていた。痩せた頬。乾いた唇。けれど目だけはまっすぐゼノンを見ている。
「おにいちゃん、うちの畑、なおる?」
周囲の大人たちが息を呑む。
誰かが止める前に、少年はもう一度言った。
「おかあさん、もうだいぶごはん減らしてるんだ。やぎも死にそう。なおるなら、なおしてほしい」
無垢だからこそ、遠慮がなかった。
その言葉は、妙にまっすぐ胸へ刺さる。
子どもの祈りは、重いくせに濁りがない。
ゼノンは少しだけ目を伏せ、それから少年へ近づいた。
膝を折り、目線を合わせる。
「すぐに全部は無理だ」
まずそう言うと、少年の顔が少し曇る。
だがゼノンは続けた。
「でも、枯れる理由は見つけた。理由が分かれば、手の打ちようはある」
「ほんと?」
「ああ。ただし、俺一人じゃ足りない。お前らもちゃんと水を無駄にするな。動けるやつは畑の黒くなった葉を切れ。痩せた家畜は日陰へ移せ。できることを全部やれ」
少年は真剣な顔で頷いた。
「やる」
その返事と同時に、かすかな金色の流れが胸へ届く。
ゼノンはそれを受け流さず、少年の足元の大地へそっと返した。
わずかだった。
だが灰色にくすんでいた岩場の苔に、ほんの少しだけ湿りが戻る。
「……今の」
ミラが小さく呟く。
他の大人たちは気づいていない。
だがミラだけは見たらしい。
ゼノンは立ち上がり、低く言った。
「今日はここで泊まる」
場がざわつく。
「夜にもう一度流れを確かめる。昼より静かな方が探りやすい」
それは半分本当で、半分は別の理由だった。
この集落の地下にも、おそらく導路か印がある。昼間の喧騒の中で探すより、夜の方がやりやすい。しかもここまで来て、何も見ずに帰る選択肢はもうなかった。
集落の長が何度も頭を下げる。
「宿なんて立派なものはないが、空いてる納屋なら使える。食事も、たいしたものは出せないが……」
「贅沢を言う気はない」
そう返しながら、ゼノンは再び岩場の石柱へ視線を向けた。
第二導路、分流点。
偏流は周辺枯死を招く。
なら、第一導路も第三導路もあるのかもしれない。
そしてそれらを束ねる“上位座”も。
木版にあった「原初の座」という言葉が、また頭をよぎる。
これはもう、ただの水枯れではない。
辺境全体を走る何かが、どこかで歪み始めている。
日が落ち始め、空が赤く染まる。
痩せた畑の向こうで、風に揺れる作物の葉がかさりと鳴った。
その音を聞きながら、ゼノンは心の中で静かに理解していた。
北へ来たのは正しかった。
だが、その正しさはまた一つ、自分を深く巻き込む方向へ進んでいる。
救いを求める声は、もう点ではない。
流れになり始めている。
そして、その流れの先にいるのが自分だという事実を――
ゼノンはまだ、完全には否定できなくなっていた。




