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第12話 夜の分流点

 夜の集落は、昼よりもずっと静かだった。


 風が吹くたび、痩せた畑の葉が乾いた音を立てる。水の足りない土地特有の、ざらついた冷気が肌にまとわりついていた。家々の明かりは少なく、どの窓も早々に閉じられている。疲れきった人間は、希望があってもなくても、眠れるうちに眠るしかない。


 ゼノンは借りた納屋の壁にもたれたまま、しばらく目を閉じていた。


 眠ってはいない。


 胸の奥の熱が、ずっと北東を指しているからだ。昼間よりもはっきりと、細く長い流れが暗闇の先へ伸びているのが分かる。そしてその途中に、今いる集落の分流点が、痩せ細った結び目のように存在していた。


 ここを見なければ先へは進めない。


 ゼノンはゆっくり立ち上がり、水筒と短剣、それに昼間拾った石柱の写しを取った紙片だけを持って外へ出た。


 月は半分ほどしか出ていない。岩場の方角はなおさら暗く、地面はところどころ白く乾いていた。昼より冷えるはずなのに、湧き水の近くまで来ると妙にぬるい空気が混じる。井戸の底で感じたものと完全に同じではない。だが、地の下で何かが擦れているような不快さが確かにあった。


「一人で行くって言ったのに」


 背後から声がして、ゼノンは振り返った。


 ミラだった。


 薄い上着を羽織り、息を潜めたつもりらしいが、見つからないと思っていた方が無理がある。


「帰れ」


「やだ」


「お前は“やだ”で通る年か」


「通らないから来たの。どうせ、ゼノンさんは一人で危ないことするでしょ」


 言い返しかけて、ゼノンはやめた。否定しきれない。


 ミラは少しだけ肩をすくめる。


「ついていくだけ。邪魔しない。危なかったらちゃんと下がる」


「昨日も似たようなことを聞いた気がするな」


「今日はほんとに」


 真顔だった。

 流れを見ても、嘘はない。


 ゼノンは面倒そうに息を吐き、それ以上は追い返さなかった。


「勝手に近づくな。俺が止まれと言ったら止まれ」


「うん」


 岩場の湧き水は、夜にはさらに頼りなく見えた。細い糸のような水が石を伝い、底の浅い水受けへ落ちている。その音がやけに遠く響く。昼間、子どもが立っていた場所に足を止め、ゼノンはしゃがみ込んだ。


 石柱。

 導路。

 偏流。


 胸の奥の熱へ意識を沈める。


 すると、昼よりはるかに鮮明に見えた。


 地の下を走る流れが、月明かりの届かない場所でぼんやりと金を帯びている。一本の太い水脈というより、願いと熱と生命力が混ざったような、曖昧で古い流れ。その一部がこの岩場の下で本来の方向を失い、北東へ強く引っ張られていた。


「……やっぱり、ここが悪いんじゃない」


「もっと先?」


 ミラの問いに、ゼノンは頷く。


「ここは絞られてるだけだ。喉を締められた水路みたいなもんだな」


「じゃあ、ここを広げれば少しは戻る?」


 その発想に、ゼノンは一瞬だけミラを見た。


「……悪くない」


 完全な解決にはならない。だが、今必要なのは集落が数日持ちこたえるための猶予だ。


 ゼノンは湧き水の周囲に手をかざし、昼間読んだ石柱の文を思い出す。


 供給不足時、上位座へ回帰。

 過剰回収を禁ず。

 偏流は周辺枯死を招く。


 命令文だ。

 つまりこの分流点には、本来“戻しすぎない”“吸い上げすぎない”ための機構がある。


 今それが壊れている。


 なら、応急処置はできるかもしれない。


「ミラ、石を拾え。拳より少し大きいのを三つ」


「分かった」


 ミラが周囲から石を集めるあいだ、ゼノンは水受けの底に指を浸した。冷たさの奥にある空虚へ、意識をさらに沈める。新しく得た導式は、祈りの受信と分流に関する基礎権限――そう声は言っていた。


 なら、地の流れも“分ける”ことはできるはずだ。


 問題は、自分の器と、欲を混ぜないこと。


 もっと流れを奪えば、大きな力になる。

 そういう甘い囁きが、力に触れるたびにどこかで生まれる。


 ゼノンはそれを無視し、水脈のうちごく薄い一本だけを指先へ引いた。奪うのではない。塞がれた溝をこじ開けるように、ここの分流点へ戻すだけ。


「ゼノンさん、石」


「そこに置け。三角に」


 ミラが石を並べる。

 ゼノンはその配置に合わせて、水受けの縁に細く刻まれた古い溝へ指を走らせた。昼間はただの傷に見えた線が、今は月光を受けて微かに金を返している。


「そこから動くな」


「うん」


 ゼノンは息を整えた。


 受け取るな。

 喰らうな。

 戻せ。


 石と溝と水受けを一つの輪として意識し、その中心へ、北東へ吸われていた流れのほんの一部を押し返す。


 最初は何も起きない。


 次の瞬間、石の一つがかちりと鳴った。


 水受けの底で、見えない何かがほどける感覚。

 そして細い糸だった湧き水が、一瞬だけ途切れたかと思うと、次の瞬間には二倍ほどの太さで流れ落ち始めた。


「……増えた」


 ミラが呆然と呟く。


 ゼノンは返事をしなかった。

 額に汗が浮いている。少し戻しただけなのに、抵抗があった。まるで向こう側が「返すな」と引っ張っているような感覚。


 ただの自然の偏りではない。


 誰か、あるいは何かが、意図して吸っている。


「応急処置にはなったな」


 声に出した途端、岩場の奥でごり、と鈍い音がした。


 二人とも同時に顔を上げる。


 湧き水のさらに上、岩の裂け目の奥から、冷たい風が吹き出してきた。昼間はなかった隙間だ。さっき流れを戻した反動で、内側のどこかが緩んだのかもしれない。


 ミラが息を呑む。


「何か……開いた?」


 ゼノンは松明代わりの灯石を取り出し、裂け目へかざした。


 岩の奥に、人工的な石段が見えた。


 自然の洞穴じゃない。

 削られている。

 しかも壁面には、白い石と細い金色の導路が埋まっていた。


「……当たりか」


 昼間の石柱だけでは終わらなかった。

 分流点そのものが、地下施設の入口を兼ねていたのだ。


 ミラが小さく声を上げる。


「入れるの?」


「入れるかじゃない。入るしかなくなった」


「それ、同じ?」


「全然違う」


 そう言いながらも、ゼノンの目はもう裂け目の奥を見ていた。


 灯石の明かりが届く範囲だけでも、石段はかなり深く続いている。壁にはところどころ文字が刻まれ、足元には乾いた泥ではなく、黒い粉のようなものが薄く積もっていた。


 嫌な気配だった。

 井戸の時のような暴走寸前の濃さではない。だが、もっと長く、じわじわと周囲を蝕む種類の不穏さがある。


 そして何より、胸の奥の熱がはっきりと応えていた。

 ここから先だ、と。


「ミラ」


「うん」


「今から集落へ戻れ。長を呼んで来い。水は少し戻るはずだ。けど絶対にこの裂け目へ近づかせるな」


「ゼノンさんは?」


「中を少しだけ見る」


「少しだけ、って言って長くなるやつでしょ」


 鋭い。

 だが否定しても説得力がなかった。


「だからお前が戻るんだよ」


 ミラは裂け目とゼノンの顔を見比べ、唇を噛んだ。


「……すぐ戻る」


「一人で戻れ。転ぶな」


「子どもあつかいしないで」


「子どもだろ」


 言い返しながらも、ミラは後ろ髪を引かれるように数歩下がった。だが最後に、真剣な顔で言う。


「無茶しないで。今のゼノンさん、昨日よりちょっと危ない顔してる」


 その言葉に、ゼノンは一瞬だけ目を細めた。


 自分では分からない。

 だが、ミラには見えているのかもしれない。力に触れる時の、自分の変化が。


「早く行け」


 それだけ返すと、ミラは小さく頷き、集落の方へ駆けていった。


 足音が遠ざかる。

 残るのは風と、水の音と、裂け目の奥から吹く冷たい気配だけだ。


 ゼノンは灯石を握り直し、石段の入口へ足をかけた。


 応急処置で水は少し戻った。

 だが根本は何も変わっていない。


 この先に、偏流の原因がある。

 そしておそらくは、井戸の底で見つけたものと同じ系統の施設が。


「……ほんと、次から次へと」


 吐き捨てるように呟き、ゼノンは地下へ降りた。


 石段の壁には、聖典にない文字がいくつも刻まれている。

 灯石をかざした途端、それらの一部がじわりと浮かび上がった。


『第二導路保守路』

『上位座への過剰供給を検知』

『封鎖未完』


 最後の四文字を読んだ瞬間、ゼノンの背筋を冷たいものが走る。


 封鎖未完。


 つまり、誰かが封じきれなかった。

 あるいは、封じたものが再び動き始めた。


 その時、石段のさらに下から、かすかな音が響いた。


 水音ではない。

 何かが、ゆっくりと擦れる音。

 硬いもの同士が、闇の中で動くような音だった。


 ゼノンは足を止め、灯石を高く掲げる。


 明かりの届かない奥で、何かの輪郭が一瞬だけ動いた気がした。


 この分流点は、ただ枯れているだけではない。

 下で何かが、生きている。


 そう直感した瞬間、胸の奥の熱が強く脈打った。

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