第6話 原初の回廊
昼を少し回った頃、ゼノンは再び井戸の前に立っていた。
昨夜とは違い、村人たちは遠巻きに騒ぐこともなく、固唾を呑んでこちらを見守っている。井戸の周囲は簡単に掃除され、足場用の板と新しい縄、それに予備の松明まで用意されていた。誰が指示したわけでもないだろうに、できることをしようとした痕跡がそこにはあった。
その事実が少しだけ胸に引っかかる。
昨日まで、誰かの期待など重荷でしかなかった。
今も本来ならそうであるはずなのに、この村の人間たちの期待は、妙に静かで、妙にまっすぐだった。
「ゼノンさん」
振り返ると、ミラが両手で水筒を抱えて立っていた。
「持っていって。下、乾いてるかもしれないから」
「地下遺跡に降りる前の台詞じゃないな」
「でも必要でしょ」
差し出された水筒を受け取りながら、ゼノンは小さく息を吐いた。
「お前は井戸から離れてろ。異変が起きたら、すぐ全員を下がらせるんだ」
「……うん」
頷きながらも、ミラの目は不安を隠しきれていない。
ゼノンは少しだけ迷ってから、言葉を足した。
「昨夜みたいに無茶はしない。確かめるだけだ」
それがどこまで本当か、自分でも分からなかった。
だがミラは、その一言だけで少し安心したように笑った。
「いってらっしゃい」
その言葉に返事はしなかった。
代わりに縄を腰へ巻きつけ、松明に火を移し、井戸の縁へ足をかける。昨夜焼き払われた汚染の痕跡は、昼の光の下ではほとんど見えない。普通の古井戸にしか見えなかった。だからこそ余計に気味が悪い。
「合図したら引け。俺が三回縄を引いたら、何があっても上げろ」
村の男たちが緊張した顔で頷く。
「わ、分かりました」
「気をつけてください、ゼノンさん」
ゼノンはそれ以上何も言わず、井戸の中へ身体を沈めた。
石壁が近い。
昼間でも内部はすぐに薄暗くなり、やがて地上の喧騒は遠のいていく。湿った冷気が頬を撫で、松明の火が細く揺れた。昨夜崩れた石板のあたりまで降りると、そこから下はぽっかりと口を開けた穴になっている。
祭壇の気配は、昨夜ほど露骨ではなかった。
だが、確かにそこにあった。
胸の奥で淡い熱が灯る。
呼応しているのだと、嫌でも分かる。
「……歓迎されても嬉しくない」
独り言を落とし、ゼノンは穴の縁に足をかけた。昨夜切れた縄の残骸を頼りに、慎重に身体を滑らせていく。十数歩ぶんほど降りた先で、地下空洞の床へと着地した。
白い祭壇は静まり返っていた。
昨夜あれほど眩く輝いていたのが嘘のように、今は砕けた石片の間に淡い燐光を残すだけだ。中央の掌型の窪みも、ただそこにあるだけに見える。だが近づいた瞬間、皮膚の内側をなぞるような感覚が走り、ゼノンは眉をひそめた。
力は消えていない。
眠っているだけだ。
そして祭壇の奥には、昨夜見えた石の回廊が口を開けていた。
幅は人が二人並んで歩ける程度。壁も床も白い石で造られているが、聖教会の建築とは明らかに違う。過剰な装飾がないのに、妙に威圧感がある。人が祈るための場所というより、何かもっと大きなものの通り道のようだった。
松明を掲げ、ゼノンはゆっくりと足を踏み入れる。
空気が変わった。
井戸の底の湿気が消え、代わりに乾いた静けさが耳を包む。自分の足音だけがやけに大きく響いた。壁には一定間隔で浅い溝が刻まれ、その中を金色に近い鉱物が走っている。触れると、ほのかに熱を持っていた。
「地脈……いや、導路か?」
神授魔法の術式は、魔力を定められた形へ通すことで奇跡を起こす。
だがここにあるのは術式ではない。
もっと生の流れだ。力そのものを通すためだけの道。
数歩進んだ先、壁一面に文字が現れた。
聖典にない文字。
なのにやはり、意味だけが頭に流れ込んでくる。
『祈りは捧げるものではない』
『祈りは流れである』
『流れは世界を満たし、満ちた世界は奇跡を返す』
ゼノンは松明を近づけ、無意識に読み下していた。
「……神に届くから奇跡が起こるんじゃない。祈りそのものが力で、世界を動かしている……?」
口にした瞬間、自分でぞっとする。
それは聖教会の教義を根本から否定する考えだった。
神が奇跡を与えるのではない。
人の願いが世界へ直接干渉している。
もしそれが本当なら、神官は“神の代行者”ではなく、ただ祈りを整えて利用している技術者にすぎないことになる。
「……だから隠したのか」
教会がこれを禁忌とする理由は、考えるまでもなかった。
さらに奥へ進むと、回廊の途中で人影が見えた。
反射的に身構えたが、動かない。
近づいてみて、それが白骨化した遺体だと分かった。壁にもたれかかるように座り込んだまま、片手に金属製の杖を握っている。法衣らしき布は朽ちていたが、胸元に付いた銀の飾りには、聖教会の古い紋章が刻まれていた。
「教会の人間……?」
しゃがみ込み、骨のそばに転がっていた小さな金属板を拾う。そこにも文字が刻まれていた。今度は聖典文字だ。
『封印任務第七班』
『原初座標・辺境第三区画』
『接触者一名、適合反応あり』
『処分を提言する』
『だが――』
そこから先は、爪で引っ掻いたように削り取られていた。
ゼノンはしばらくその金属板を見つめた。
適合反応。
その言葉が胸に残る。
昨夜、祭壇が自分を拒まなかったことを思い出す。偶然ではないのかもしれない。教会はこの遺跡を知っていて、しかも“触れれば誰でも使える”わけではないと分かっていた。
選別がある。
適合がある。
そして、適合者は処分対象になる。
「笑えないな」
乾いた声が回廊に吸い込まれる。
つまり今の自分は、教会にとって最悪の存在だ。
追放された補助神官である以前に、禁忌へ適合した異端者なのだから。
遺体の脇にはもう一つ、小さな石箱が落ちていた。蓋は半ば開いており、中には薄い水晶板が何枚か収められている。松明の光をかざした瞬間、その一枚に淡い金色の文字が浮かび上がった。
『祈りは奪うものではない』
『導くものだ』
『祈りを喰らう者は、やがて人を喰らう』
ゼノンの喉が、ひくりと鳴った。
昨夜、自分はミラの感謝を“受け取った”。
確かに力になった。
あれは間違いではなかった。
だが、この文はそれを警告している。
祈りを利用することと、祈りを喰らうことは違う。
境目を踏み外せば、人を救うはずの力は、人を消耗させる力へ変わる。
脳裏に、祭壇で流れ込んできた光景が蘇った。
無数の願い。
無数の命。
そしてそれが一つの場所へ吸い寄せられていく光景。
「……最初から代償付きかよ」
苛立ち混じりに呟いた瞬間、回廊の奥から低い音が響いた。
ご、と石が鳴る。
ゼノンは即座に立ち上がり、松明を構えた。暗闇の向こうで、壁の一部がゆっくりとせり上がっていく。風もないのに火が揺れ、床の金色の導路が淡く明滅した。
祭壇に触れた者を認識したのか。
あるいは、水晶板を取り上げたことで何かが作動したのか。
どちらにせよ、歓迎とは思えなかった。
石壁の向こうに現れたのは、円形の広間だった。
天井は高く、中央には巨大な紋様が床一面に刻まれている。回廊よりもさらに濃い金色の鉱脈がその紋様を走り、まるで巨大な心臓の血管のように脈打っていた。広間の奥には、白い椅子にも祭壇にも見える奇妙な台座がひとつ据えられている。
そして、その背後の壁には巨大な壁画が描かれていた。
人々が祈る。
その祈りが光となって集まる。
中央に立つ一人の人間へ流れ込む。
その人物は、王冠でも聖印でもない、ただ光そのものを背負っていた。
神ではない。
人だ。
「……これが、原初の座」
木版に刻まれていた言葉が、ようやく意味を持って迫ってくる。
その時だった。
広間の中央の紋様が、ふっと強く光る。
次の瞬間、ゼノンの耳元で、誰かの声がした。
『適合者を確認』
低く、冷たく、感情のない声。
ゼノンは反射的に振り向いた。
だが背後に人影はない。なのに声だけが、確かにこの広間全体から響いていた。
『継承試験を開始します』
床の紋様が一斉に輝き、広間の入口が石壁で閉ざされる。
鈍い轟音が、退路の消滅を告げた。
ゼノンは舌打ちし、松明を握り直した。
「……やっぱり、ろくでもないな」
だがその目は、恐怖だけではなく、確かな警戒と熱を宿して、広間の中心を見据えていた。




