第5話 聖典にない文字
夜が明ける頃、村を覆っていた空気は昨夜とはまるで別物になっていた。
熱にうなされる声も、絶望を押し殺した咳も、もうほとんど聞こえない。代わりに聞こえてくるのは、戸を開ける音と、戸惑い混じりのざわめきだ。まだ全快ではない。頬のこけた者も、足元の覚束ない者も多い。それでも、全員の顔に「生き延びた」という色が戻っていた。
ゼノンは村を一軒ずつ回り、昨夜と同じように症状を確認していた。
「深く息を吸ってみろ」
痩せた老人が恐る恐る息を吸い込み、目を丸くする。
「……吸える。胸が痛くない」
「咳は」
「少しだけ、痰が絡むが……昨日までとはまるで違う」
ゼノンは頷き、次の家へ向かった。
どの家も似たようなものだった。高熱は引き、呼吸は落ち着き、皮膚に浮いていた黒ずみも薄くなっている。完全治癒ではない。だが、死線は越えた。あとは休養と、汚染された水を断てば持ち直せるところまで来ている。
本当に救ってしまった。
昨夜から何度も頭に浮かぶその実感に、ゼノンはまだ馴染めなかった。
神授魔法では不可能だった。少なくとも、自分の知る聖教会の術式ではあり得ない。にもかかわらず、村人たちは確かに回復している。
つまり、井戸の底で得たあれは本物だ。
そう認めるたび、胸の奥に冷たいものが走る。
「ゼノンさん!」
振り返ると、ミラが小走りで駆けてきた。昨日まで死にかけていたとは思えないほど顔色が戻っている。まだ痩せてはいるが、目には力があった。
「走るな。ぶり返すぞ」
「もうそんなに苦しくないよ」
「だからって調子に乗るな」
素っ気なく返すと、ミラは少しだけ唇を尖らせたが、すぐに思い出したように言った。
「村長さんが呼んでる。大事な話があるって」
「大事な話?」
「井戸のこと、かも」
その一言で、ゼノンの表情が変わった。
村の中央に戻ると、昨夜よりはるかに多くの村人が集まっていた。だが昨日のような悲壮感はない。皆、疲れた顔の奥に、確かな生気を宿している。そしてゼノンを見る目には、隠しきれない熱があった。
その視線に気づかないふりをして、ゼノンは村長の前へ立つ。
「話って何だ」
村長は手に古びた布包みを抱えていた。昨夜よりも声に力がある。
「井戸について、思い出したことがありまして……いえ、正確には、思い出したというより、蔵の奥から見つかったんです」
村長は布包みを慎重に開いた。
中から現れたのは、湿気で端の傷んだ羊皮紙と、ひどく古い木版だった。どちらにも、黒ずんだ文字と図が刻まれている。
ゼノンが羊皮紙を受け取ると、独特のかび臭さが鼻を刺した。
「これは?」
「昔の村長の手記らしいです。この村には代々、“井戸には近づきすぎるな”って言い伝えがあったんです。水は使え、でも井戸の底を覗くな、掘り返すな、石を壊すなって」
「そんな重要なことを、昨日まで忘れてたのか」
「申し開きできません……ただ、もう何代も病も異変もなく過ごしてきたもので、ただの古い迷信だと……」
責める気にもなれなかった。中央の人間ならともかく、辺境の小村で古い禁忌が形骸化するのは珍しくない。
ゼノンは羊皮紙に目を走らせた。
癖の強い筆跡だが、辛うじて読める。
文面は断片的だった。
『井戸の底の封は決して損なうな』
『地下に眠る祈りの座に手を触れるな』
『教会の使いは来たが、何も告げず石だけを積み直して去った』
『あれは祝福ではない』
『あれは神ではなく――』
そこで文字は途切れていた。紙のその先が、綺麗に破れている。
「肝心なところがないな」
「木版の方も見てください」
村長に促され、ゼノンは木版を手に取った。
そこに刻まれていたのは、井戸の見取り図と、その下へ続く簡略な通路だった。井戸の底の祭壇らしき場所、さらに奥へ伸びる回廊。そして、その先に大きな空間を示す円。円の脇には短い文字が添えられていた。
聖典文字ではない。
だが、読める。
昨夜までは絶対に読めなかったはずなのに、見るだけで意味が頭に流れ込んでくる。
「……原初の座」
ゼノンが無意識にそう呟くと、村長が目を見開いた。
「読めるんですか?」
ゼノン自身が一番驚いていた。
木版に刻まれた文字は、聖教会の神官が学ぶどの言語とも違う。なのに、意味だけが脳に直接届いてくる。井戸の底で祭壇に触れた時と同じ感覚だった。
「いや……読んでるっていうより、分かるだけだ」
言いながら、ゼノンは続きを追う。
円の周囲には、さらに細かな記号が並んでいる。
『祈りは流れ、流れは満ち、満ちた座は奇跡を生む』
『捧げられるのは言葉ではない』
『願いそのものだ』
そこまで読んだところで、ゼノンは木版から手を離した。
気味が悪い。
文の内容も、読めてしまう自分も。
村長が恐る恐る問う。
「その……何と書いてあるので?」
「ろくでもないことだ」
即答すると、周囲の村人が息を呑んだ。
ゼノンは少し考え、言葉を選ぶ。
「井戸の下には昔から何かが封じられていた。教会はその存在を知っていて、封をして放置した可能性が高い。昨夜の病は、その封が緩んで漏れ出した汚染のせいだ」
「じゃ、じゃあ……また病が広がるんですか!?」
「昨日の時点で原因の流れは断った。すぐに元通りってことはない」
そこまで言ってから、ゼノンは井戸の方を振り返った。
「だが、根そのものが消えたわけじゃない。地下はまだ残ってる」
朝の光を受ける井戸は、昨夜の異様さが嘘のように静かだった。だがその下に、祭壇と回廊が眠っているのをゼノンは知っている。
知らなければ、ただの古井戸で済んだ。
知ってしまった今は違う。
「……教会に報告すべきでしょうか」
村長の問いに、ゼノンはすぐには答えなかった。
報告する。
それ自体は正しい。
だが、もし聖教会が本当にこの地下の存在を知っていて、なお封じて放置したのだとしたらどうなる。辺境の村一つを切り捨ててでも隠し通したい何かがあるということだ。そんな相手に、正直に「禁忌っぽい遺構が露出しました」と知らせればどうなるか。
最悪、村ごと焼かれる。
異端の証拠隠滅。
辺境なら珍しくもないやり方だ。
「駄目だ」
ゼノンが低く言うと、村長は息を止めた。
「今はまだ何も報告するな。井戸の異変が収まったことだけを近隣に伝えろ。病の詳細も、昨夜の光も、地下のことも話すな」
「し、しかし……」
「教会が信用できるなら、そもそもこの村は昨日みたいな有様になってない」
その言葉に、村長は黙り込んだ。
誰も反論しなかった。
それが、この村にとっての現実だった。
沈黙を破ったのはミラだった。
「ゼノンさん、じゃあどうするの?」
まっすぐな目だった。
不安はある。だが昨日のような怯えだけではない。目の前の男なら何とかするのではないかと、そう信じている目だ。
その視線が、ゼノンの胸をまた妙にざわつかせる。
「……俺が下を調べる」
言った瞬間、村人たちがざわめいた。
「危険です!」
「昨夜あんなことがあったばかりで……!」
「もう十分じゃありませんか、ゼノンさん!」
十分。
その言葉に、ゼノンは苦く笑いそうになった。
勇者パーティにいた頃、一度だってそんな言葉は聞かなかった。もっと働け、もっと埋めろ、もっと役に立て、そればかりだった。なのに、この村の人間は、今の時点で既に「十分だ」と言う。
それが少しだけ、腹立たしかった。
いや、違う。
腹立たしいんじゃない。
怖いのだ。
ここで「十分」と言われて手を引けば、自分はまた昨日までの人間に戻ってしまう気がした。見捨てられる側でも、切り捨てられる側でもなく、ただ何も知らないまま終わる側に。
「十分かどうかを決めるのは、お前たちじゃない」
ゼノンの声に、自分でも驚くほど硬いものが混じった。
「井戸の下に何があるのか、放っておいていいものか、それを確かめない限り終わりじゃない。昨日たまたま上手くいったからって、また次もそうなる保証はない」
村人たちは押し黙った。
ゼノンは木版を握り直す。
聖典にない文字。
祈りを力に変える祭壇。
教会が隠した痕跡。
どれも見過ごせない。
そして何より、知りたかった。
昨夜、自分の中に流れ込んできたあの力が何だったのかを。
なぜ自分にだけ文字が読めるのかを。
なぜ井戸の祭壇が、自分の掌を受け入れたのかを。
「昼まで休む」
ゼノンはそう告げた。
「その後、井戸の下へ降りる。誰か一人、足場と縄の扱いに慣れてる奴を貸せ。だが、地下へ入るのは俺だけでいい」
「わ、私が行く!」
真っ先に手を挙げたのはミラだった。
「お前は寝てろ」
「でも!」
「お前が倒れたら、昨日の苦労が全部無駄になる」
即座に切り捨てると、ミラは悔しそうに唇を噛んだ。それでも諦めきれないのか、なおも食い下がる。
「じゃあ、せめて準備は手伝う。水とか縄とか、運ぶから」
「……それくらいなら勝手にしろ」
ミラの顔がぱっと明るくなった。
その変化を見て、周囲の村人たちの表情も少しだけ和らぐ。完全な安心ではない。だが、昨夜まで絶望しかなかった村に、今は確かに「次」を考える余地が生まれている。
それを作ったのが自分だという事実に、ゼノンはまた落ち着かない気分になる。
昼前、村外れの空き家を借りて横になったゼノンは、眠ろうとして結局眠れなかった。
瞼を閉じるたび、井戸の底の祭壇が浮かぶ。
白い石。
掌の窪み。
流れ込んできた無数の願い。
そして、もう一つ。
祭壇の奥に見えた回廊の先。
あの先には、さらに大きな何かがある。
木版の地図に描かれていた円形の空間。
『原初の座』という言葉。
教会が封じた理由。
「……原初、ね」
ゼノンは天井を見上げた。
神授魔法より前にあった力。
もしそんなものが本当に存在するなら、それはこの世界の根幹を揺るがす。教会が絶対視している聖典も、神官の術式も、全部その上に成り立っていることになるからだ。
あり得ない。
だが、あり得ないで済ませられないものを、もう自分はこの手で触れてしまった。
部屋の外で足音が止まる。
「ゼノンさん」
ミラの声だった。
「何だ」
「ごはん、持ってきた」
扉越しのその声は、妙に弾んでいた。
ゼノンは起き上がり、扉を開ける。木皿の上には硬い黒パンと、薄い野菜の煮込みが載っていた。貧しい村らしい質素な食事だ。だが、昨日までまともに食べられなかった人間たちが、自分の分を回して持ってきたのだと思うと、軽くは扱えなかった。
「……お前、ちゃんと休んだのか」
「少しは」
「少しじゃ駄目だ」
「ゼノンさんも休んでないでしょ」
言い返され、ゼノンは黙った。
ミラは皿を差し出しながら、小さな声で言う。
「みんな、こわいんだと思う。井戸の下のこと。でも……ゼノンさんが行くなら、きっと何とかなるって思ってる」
「勝手に思うな。俺は万能じゃない」
「うん。でも、昨日助けてくれた」
それだけだった。
たったそれだけなのに、胸の奥でまた熱が灯る。
感謝。
期待。
信頼。
昨日の夜から何度も感じた、その薄い金色の流れが、今も確かに自分へ向かっている気がした。
祈りが力になる。
その理屈を、ゼノンはまだ言葉にしきれない。
だが少なくとも、今の自分はもう「一人で戦っている」のではないらしい。そう思った瞬間、皮肉にも少しだけ力が湧いた。
「……昼を回ったら行く」
ゼノンは木皿を受け取りながら言った。
「お前たちは井戸の上で待機だ。何かあっても勝手に降りてくるな」
「分かった」
ミラは頷き、それからほんの少しだけ躊躇って言う。
「気をつけて」
ゼノンは答えなかった。
代わりに扉を閉め、手の中の木皿を見下ろす。
腹は減っていた。
だがそれ以上に、胸の奥がざわついている。
昼になれば、もう一度井戸の底へ降りる。
今度は落ちるのではなく、自分の意思で。
井戸の下にある回廊。
聖典にない文字。
原初の座。
そこにはきっと、昨日の奇跡よりもっと厄介な真実が眠っている。
ゼノンは黒パンを一口かじり、ゆっくりと咀嚼した。
硬い。
味も薄い。
なのに妙に、現実の手触りがあった。
勇者パーティを追放された補助神官だった自分は、もうここにはいない。
代わりにいるのは、教会の知らない力に触れ、その力の続きを見に行こうとしている自分だ。
窓の外では、井戸の方角に向かって風が吹いていた。
まるで地下の何かが、最初から自分を待っているかのように。




