第43話 中央から来るもの
谷を抜けて集落へ戻る頃には、空はもう群青に沈みかけていた。
北の集落の灯は、前に見た時より少しだけ多い。湧き水の勢いが戻ったことで、夜のうちにできることをしておこうという者が増えたのだろう。畑の見回りに出る者、家畜を移す者、鍋に火を入れる者。どれも小さな動きだ。けれど、死を待つだけだった場所に生活の音が戻っているという事実が、妙に目に刺さった。
ゼノンはそこでようやく、胸の奥に残っていた緊張が少しだけほどけるのを感じた。
「戻った!」
最初に気づいたのは子どもだった。
声が上がると、集落の長や老婆、それにまだ顔色の悪い大人たちまでが一斉に外へ出てくる。誰もがまずゼノンとミラ、それからセラフィナの姿を確かめ、最後に谷の方角を見た。
「崩聖堂は……?」
「鐘の音は、さっきからほとんど聞こえなくなったけど……」
「水は、このまま持つのか……?」
質問が一気に飛ぶ。
ゼノンは一瞬だけ答えを選び、それから短く言った。
「今すぐ前みたいに枯れる形はかなり減る」
ざわ、と空気が動く。
「ただし、全部元通りじゃない。井戸も湧き水も、しばらくは丁寧に使え。無茶に戻そうとするな」
「そ、それはつまり……助かったってことでいいのか?」
集落の長の声は震えていた。
ゼノンは少しだけ目を伏せる。
完全に助かった、とは言えない。
だが、ここでまた曖昧に濁しても意味がない。
「生き延びる猶予は繋いだ」
「今後も気をつける必要はあるが、少なくとも“もう終わりだ”って段階は越えた」
その言葉に、長はへなへなと膝をついた。
泣いているのか笑っているのか分からない顔で、何度も何度も頷いている。周囲でも、押し殺していた息が一斉に抜ける音がした。
その時、ゼノンの胸の奥へ淡い熱が流れ込む。
感謝。
安堵。
生きたいという静かな願い。
前なら警戒が先に立ったはずのそれを、今のゼノンは少し違う形で受け止めていた。抱え込まない。ただ、来たものを細く地面へ返す。返流権なんて大仰な言葉を使わなくても、やることは変わらない。
焚き火の残り火のようなぬくもりが、集落の空気へ薄く戻っていく。
最初にそれに気づいたのは、やはりミラだった。
「……今、またやったでしょ」
「気のせいだ」
「うそ」
即答され、ゼノンは面倒そうに眉を寄せる。
だが今は言い返す元気もあまりなかった。
セラフィナがそんな二人を横目で見ながら、長へ向き直る。
「話はまだ終わっていません」
その一言で、場の空気が少しだけ引き締まった。
「今回の異変は、自然に起きたものではない。崩聖堂の下にあった仕組みへ、人為的な介入があった。そして、その影響はここだけでなく周辺一帯に及んでいた」
長や老婆の顔がこわばる。
「人為的って……誰が?」
「教会、なのか……?」
問われて、セラフィナは一拍置いた。
「聖教会の中でも、かなり上位の側です」
それだけで十分だった。
場の空気が一気に冷える。
“教会”という言葉だけならまだ救いの可能性も残る。だが“上位の側”となれば話は別だ。辺境の人間にとって、それは助けではなく、裁きと隠蔽の匂いを伴うものだからだ。
ゼノンが低く続ける。
「要するに、ここで何が起きたかを嗅ぎつけて、近いうちに中央側の人間が来る可能性が高い」
「ちゅ、中央って……」
「審問官か……?」
「そんな……」
誰かが青ざめた声を漏らす。
ゼノンは否定しなかった。
「来るのが審問官とは限らない。けど、普通の巡回神官で済むとは思うな」
そこまで言ってから、集落の長へ視線を向ける。
「だから隠せ」
「崩聖堂のことも、谷の鐘のことも、俺たちが下へ行ったことも、全部だ。聞かれても“水が少し戻った”“奇跡は起きていない”“教会の浄化剤が効いたかもしれない”くらいにしておけ」
長は戸惑いと恐怖のあいだで顔を揺らした。
だが結局、唇を噛みしめて頷く。
「……分かりました」
「命の恩人を売る気はありません」
「そういう言い方はやめろ」
ゼノンは即座に返す。
「恩だの何だのじゃなく、お前らが生き残るためだ」
その言葉に、長は少しだけ目を伏せた。
きっと全部分かっているのだろう。ゼノンがそういう言い方でしか受け取れないことも。
その夜、集落ではささやかな食事が用意された。
前の村で焚き火を囲んだ時ほど和やかではない。安堵より、次に来る“中央”への不安が強いからだろう。それでも温かい汁があり、固いパンがあり、水が尽きないというだけで、人の顔色は違った。
ゼノンは少し離れた場所で木椀を受け取る。
すると、隣へミラが当然みたいな顔で座った。
「なんだ」
「見張り」
「まだ言うのか」
「ゼノンさん、こういう時に一人でどっか行くでしょ」
「行かない」
「うそ」
今日だけで二回目だった。
ゼノンは返事を諦めて、汁を一口すする。薄い塩味の中に、わずかな野草の苦みがある。豪華とは程遠い。だが、深層の無色の空間から戻ってきた身には、こういうはっきりした味の方が妙にありがたかった。
対面では、セラフィナが集落の長へ地図を描かせていた。
「こっちが前の村」
「こちらが北の谷」
「崩聖堂の位置はここ」
「この周辺三つの小集落にも、水量の変化がないか確認して」
声は冷静だ。
けれどゼノンには分かる。彼女もまた、休んではいない。頭の中で次の動きをずっと組み続けている。
「お前、休まなくていいのか」
ゼノンが聞くと、セラフィナは地図から目を離さず答えた。
「あなたにだけは言われたくない」
「それに、今のうちに整理しないと中央が来た時に動けない」
「総監が消えたんだもんな」
その言葉に、セラフィナの手が一瞬止まる。
「ええ」
「そしてそれは、たぶんもう向こうに伝わっている」
ミラが小さく身を乗り出した。
「どうやって?」
「封鎖管理局の上位は、深層の鍵の状態変化で人の消失を読む」
セラフィナは短く言う。
「アルベリウスほどの位置の人間なら、なおさら」
「じゃあ、もう……」
「時間の問題よ」
その声に冗談の余地はなかった。
焚き火がぱちりと鳴る。
集落の人々も、何となくその空気を感じているのか、さっきまでのざわめきが少しずつ静かになっていった。誰も大声では笑わない。ただ、小さく食べ、小さく話し、明日の水や畑のことを確かめ合っている。
ゼノンは木椀を見下ろしたまま、ぽつりと聞く。
「中央は、何人来ると思う」
「少人数」
セラフィナは即答した。
「大人数で来れば辺境で目立つし、内部の問題だと悟られる」
「だから精鋭。観測、審問、回収、そのどれか――たぶん全部をこなせる少人数」
「要するに質が悪いな」
「そういうこと」
ミラが不安そうに聞く。
「逃げた方がいい?」
その問いに、ゼノンとセラフィナは同時に黙った。
選択肢としてはある。
だが、逃げればこの集落と前の村に矛先が向く可能性が高い。かといって留まれば、自分たちが中央と正面からぶつかることになる。
ゼノンは少し考えてから答える。
「今すぐは逃げない」
「なんで」
「逃げ方を決めてないまま動くと、追う側に都合のいい線になる」
「まずは前の村まで戻って、情報を合わせる。それからだ」
セラフィナが小さく頷く。
「妥当ね」
「それに、返流の痕がまだ第三区画全体へ薄く残ってる」
「中央が追うなら、まずは“どこが変わったか”を見るはず。前の村も外せない」
返流の痕。
その言葉に、ゼノンは自分の腕へ視線を落とす。
灰銀の細い線は、まだ薄く皮膚の内側に残っていた。痛みはない。だが消えない。これがいつまで残るのか、あるいは一生消えないのか、今は分からない。
ミラがその視線に気づき、そっと聞く。
「それ、痛い?」
「いや」
「ほんとに?」
「ほんとだ」
嘘ではない。
ただ、痛みじゃない別の違和感があるだけだ。自分一人の身体に戻りきっていない感覚。深層と上位座に触れたあと、世界の流れがほんの少しだけ近すぎる。
それをミラへ説明する気にはなれなかった。
夜が更ける頃、集落の長が慌てた顔で走ってきた。
「大変です!」
その声で、焚き火の周りの空気が一気に張る。
「何だ」
ゼノンが立ち上がると、長は息を切らしながら言った。
「南の見張りが、街道に灯を見たと……!」
「馬車ではない、小型の騎乗灯が三つ、北へ向かっているそうです」
「進み方が早い。巡礼でも商人でもない、と」
ゼノンとセラフィナの視線がぶつかる。
三つ。
少人数。
それでいて速い。
嫌な条件が綺麗に揃っていた。
「どれくらいの距離だ」
「夜明け前には、この辺りへ入るかもしれません」
セラフィナがすぐに言う。
「予想より早い」
「もう来た」
ミラが息を呑む。
「中央……?」
「十中八九ね」
焚き火の火が、小さく爆ぜた。
安堵の夜は、そこで終わった。




