第44話 三つの騎乗灯
南の見張りが「灯が三つ」と告げた瞬間、焚き火の周りの空気は一気に冷えた。
夜の集落は、ついさっきまで生き延びた安堵に包まれていたはずだった。薄い汁の匂い、木椀の触れ合う音、遠くで家畜を繋ぎ直す物音。どれも小さく、慎ましいものだ。だが今は、その全部がぴたりと止まっている。
「どこまで来てる」
ゼノンが立ち上がりながら問うと、集落の長は息を切らしたまま答えた。
「南の街道を外れて、こちらへ向かう細道へ入りました。灯の高さからして騎馬です。馬車じゃない。進み方が速い……!」
セラフィナの顔から、かすかに残っていた疲れの色が消えた。
「三騎、夜間進軍、街道を外す」
「……観測、審査、護衛の組み合わせね」
ミラが不安そうに聞く。
「それって、やっぱり中央?」
「ええ」
セラフィナは即答した。
「しかも“様子見”じゃない。何かを確かめに来てる」
集落の人々のあいだから、押し殺した悲鳴みたいな息が漏れた。
当然だ。
教会の上位側が、夜の辺境へ、三騎だけで、最短距離で来る理由など一つしかない。救いではない。確認だ。異変の痕跡を嗅ぎつけ、必要ならその場で処理するための動きだ。
ゼノンは舌打ちしそうになるのを抑えた。
「予想より早いな」
「総監が消えたのよ」
セラフィナは低く返す。
「早くて当然。むしろ夜明けまで猶予があるだけましだと思って」
その言い方に冗談はなかった。
ゼノンは一瞬だけ目を閉じ、考える。
逃げるか。
隠れるか。
迎え撃つか。
どれも最悪だ。
だが、その最悪さの種類が違う。
「今から全員で逃げたら?」
ミラが言う。
「足跡で追われるし、集落が空なら余計に怪しまれる」
ゼノンは即座に切る。
「中途半端に散るのが一番まずい」
セラフィナも頷いた。
「同意見。ここは“何も起きていない場所”に見せるしかない」
「少なくとも第一印象で、深層絡みの異変だと悟らせないこと」
そう言うと、彼女は一気に動き始めた。
「長」
「はい!」
「谷や崩聖堂の話は誰もするな。鐘の音も地下も禁句」
「湧き水は“昨日より少し戻った”。それ以上は言わない」
「病人が減ったのは休養と教会の浄化剤が遅れて効いたことにする」
長が青い顔で何度も頷く。
「分かりました……!」
「皆にも徹底させます!」
「あと、崩聖堂へ続く道に詳しい者は黙らせて」
「聞かれても“近づかない場所です”で通して」
セラフィナの声は冷静だった。
その冷静さが、かえって集落の人々を動かした。恐怖で固まる暇もなく、皆が散っていく。鍋を片づける者。余計な足跡を消す者。水桶の数を整える者。家の前に積んだ薬草を隠す者。
“普通の辺境の夜”を作るための、歪な準備が始まった。
ゼノンはそのあいだに、自分の腕を見下ろす。
灰銀の細い線は、まだ薄く皮膚の内側に残っていた。普段なら袖で隠れる。だが近くで見られれば、普通の傷痕ではないと分かるかもしれない。
セラフィナがすぐに気づいたらしい。腰の小袋から灰色の粉を取り出し、無言でゼノンの腕を取った。
「動かないで」
「なんだ、それ」
「巡検用の偽装粉」
「流れの痕を鈍く見せる」
そう言って粉を擦り込むと、灰銀の線は確かに少しだけくすんだ。完全に消えはしない。だが、ぱっと見ではただの古い火傷痕に近くなる。
「便利だな」
「本当は、こういう使い方をしたくないのだけれど」
珍しく本音が混じっていた。
ミラがすぐ隣へ寄る。
「ゼノンさん、顔も少し疲れて見える」
「疲れてるからな」
「そうじゃなくて、もっと普通の旅人っぽく……」
言いながら、彼女は焚き火の灰を少しだけ指で取り、ゼノンの頬へ軽くつけた。ゼノンが嫌そうな顔をすると、ミラは真剣な顔で言う。
「きれいすぎると怪しい」
「今のゼノンさん、なんか……静かすぎて逆に怖いもん」
それは自分でも少し分かっていた。
上位座から戻ってから、世界の輪郭がまだ近すぎる。人の気配も、祈りの残り香も、以前より手前で分かってしまう。そのせいで表情が薄くなっているのかもしれない。
「……好きにしろ」
ぶっきらぼうにそう言うと、ミラは少しだけ安心したように頷いた。
集落の外れへ移動するころには、南からの灯はもう肉眼ではっきり見える位置まで来ていた。
三つ。
等間隔。
無駄な揺れがない。
馬も乗り手も訓練されているのだと分かる進み方だった。先頭は灯を低めに掲げ、中央の一騎だけがほとんど光を揺らさない。護衛と観測役、そのあいだに主役がいる布陣だ。
ゼノン、セラフィナ、ミラ、集落の長が、入口近くで迎える形になる。
ハルトは少し後ろ。集落の人々はさらに奥の家影に散らばり、必要以上に出てこない。
やがて三騎は、音もなく止まった。
馬は黒。
鞍も装備も簡素だが質がいい。
鈴も飾りもなく、ただ移動のためだけに仕立てられている。乗り手たちは皆、白と灰を基調にした外套を羽織っていた。辺境の神官服ではない。刺繍は少ないのに、見る者が見れば一目で“上位”と分かる仕立てだ。
先頭の騎手が降りる。
女だった。
三十前後。背は高くない。だが立ち姿に迷いがなく、顔立ちも整っている。問題は目だ。灰色の瞳が、集落も人もまとめて“対象”として見ていた。嫌な目だった。セラフィナとも違う。もっと乾いている。
続いて二人目が降りる。
痩せた男。片眼鏡をかけ、手には細い金属筒を持っている。観測役だろう。最後の一人は無言のまま馬上に残る。兜はないが、神官というより騎士だ。腰の剣に手を置き、いつでも抜けるようにしていた。
女はゆっくりと集落を見渡し、それから一歩前へ出る。
「中央聖教会、封鎖管理局臨時監査班」
落ち着いた声だった。
「夜分の立ち入りを失礼します」
言葉は丁寧だ。
だが断りではない。告知だ。
集落の長が震える声で頭を下げる。
「よ、ようこそ……このような辺境まで……」
「歓迎は不要です」
女はあっさり切る。
「こちらは数点、確認事項があって来ました」
その灰色の目が、湧き水の方角を一瞬見た。
次に病み上がりの集落の空気を確かめるように止まり、最後にゼノンへ向く。
鋭い。
だがそこで終わらなかった。
女の視線は、さらに横のセラフィナへ移る。
ほんの一拍。
それだけで、ゼノンには分かった。
見抜かれた。
「……第二巡検班補佐、セラフィナ」
女が静かに言う。
「なぜあなたがここにいるのですか」
集落の空気が一瞬で凍りつく。
セラフィナはフードを深く被ったまま、顔色一つ変えなかった。
だがゼノンには、その肩の筋肉がほんのわずかに張ったのが分かった。
「巡検中です」
セラフィナは淡々と返す。
「北方の水脈異常を追っていました」
「総監アルベリウスとの定時接続が昨夜途絶えました」
女の言葉は、刃みたいにまっすぐだった。
「最後の観測点が、この辺境第三区画に重なっています」
ミラの指先が、ゼノンの袖をぎゅっと掴む。
集落の長はもう声も出せない。
女はそこで、ようやく小さく息を吐いた。
「ですから」
「説明していただきます、セラフィナ」
「それと――」
灰色の瞳が、今度はまっすぐゼノンを射抜く。
「そちらの旅人にも」
その一言で、夜の温度がまた一段下がった気がした。




