第42話 返流の痕
白い玉座の上で、小さな木札がかすかに揺れた。
その揺れを最後に、上位座中枢の景色はゆっくりと薄れ始める。頭上を流れていた光の川は遠ざかり、無色の床は足元から透け、玉座の輪郭すら水面へ落ちる月みたいに曖昧になっていった。
『帰還路を開示』
静かな声が落ちる。
中枢核の脈動はまだ続いている。けれどさっきまでの切迫した軋みはない。補助路へ分散された流れが細く、広く、世界の裏へ伸びていくのが、ゼノンにははっきり分かった。遅い。弱い。だが、誰か一人へ座を押しつけるよりはずっとまともだった。
その代償みたいに、ゼノンの膝はもう笑っている。
「……帰れるうちに帰るぞ」
声が思ったより掠れて、ゼノンは少し眉をひそめた。
セラフィナも壁に手をついて立ち上がる。白金の線はほとんど消えかけていた。普段の冷たい顔を保ってはいるが、呼吸は明らかに浅い。
「同感ね」
「ここで倒れたら、今度こそ洒落にならない」
「珍しく意見が合うな」
「珍しく、じゃなくて当然よ」
軽口を返しながらも、二人とも中枢核から目を離さなかった。
透明結晶の奥には、もう“人の形”は見えない。初代受け手の残留は流れへ戻った。玉座は空席のまま止まり、環は新しい比率で静かに回り始めている。
けれど、完全に平穏になったわけではない。
中枢核の表面には、ところどころ細い濁りが残っていた。補助路へ流しきれなかった滞留、あるいは今後また偏流になりうる歪みだろう。上位座は壊れたまま立て直されたにすぎない。完治ではない。応急と再定義のあいだだ。
それでも、前へ進んだのは確かだった。
無色の空間の奥で、ゆっくりと門が開く。今度の門は中枢へ入る時のような圧を持たない。ただ、帰るための道だと分かる静かな裂け目だった。
ゼノンは一歩踏み出しかけて、足を止める。
白い玉座の上の木札がまだ残っていたからだ。
「……忘れるところだった」
ぶっきらぼうに呟き、玉座へ近づく。座はもう、さっきみたいな“座らせようとする気配”をほとんど持っていない。中枢核の再配分が通り、単一受け手前提が外れたことで、玉座そのものもただの焦点へ戻りつつあるのだろう。
木札を拾い上げる。
ただの粗末な木片。
魔力も、術式も、何もない。
なのに、この上位座の中心で最後まで異物として残り続けた。
返してもらうから。
あの言葉がまた胸に引っかかる。
ゼノンは無言で木札を袋へしまった。
その様子を見ていたセラフィナが、少しだけ目を細める。
「大事にしてるのね」
「借り物だ」
「そう」
セラフィナは短く返した。
「でも、そういう“借り物”の方が、深層では効くのかも」
「まだ言ってるのか」
「実感したくせに」
否定できないのが癪だった。
二人は帰還路へ足を向ける。
門をくぐる直前、ゼノンは一度だけ振り返った。上位座中枢。空席の玉座。静かに回る環。もう人を縫い付けるためだけの場所ではない。少なくとも、さっきまでとは違う。
だがその奥、世界の裏を流れていく無数の線のうち、何本かにはまだ薄い濁りが残っていた。
面倒は終わらない。
その予感だけが、妙にはっきりしている。
「……また呼ばれるんだろうな」
誰にともなく零すと、玉座の声がごく微かに返した。
『閾値超過時、再招請』
「律儀だな」
吐き捨てて、ゼノンは門をくぐった。
帰還は一瞬だった。
無色の光が反転し、次の瞬間には上位座直下層の床へ膝をついている。白い玉座も巨大な環も消え、戻ってきたのは無色の前域だ。ここもまだ静かではあるが、さっきまでの緊張はかなり薄れていた。
セラフィナもすぐ後ろへ戻ってくる。
「っ……」
着地と同時に、彼女が珍しく大きくよろめいた。ゼノンは反射的に腕を出し、肩を支える。
「大丈夫か」
「平気」
即答だった。
だが声に力がない。
「平気なやつはそんな顔しない」
「あなたにだけは言われたくない」
見れば、ゼノン自身の腕にも細かな灰銀の筋が残っていた。返流権の名残だろう。痛みはない。だが消えもしない。今までとは違う何かが、自分の中に確かに刻まれたことだけは分かる。
その時、直下層の下から、低い揺れが一度だけ上がってきた。
ごうん――
本鐘だ。
だが今の響きは、前のような飢えた音ではない。むしろ長く働き続けた何かが、ようやく静まる前の最後の余震に近かった。
「落ち着いた……?」
ゼノンが聞くと、セラフィナは目を閉じて流れを探る。
「完全じゃない。でも、第三区画へ直撃するような偏流はかなり引いた」
「少なくとも、今すぐ前の村や集落が枯れ直すことはないはず」
「今すぐは、か」
「ええ。今すぐは」
楽観はしていない。
それが逆に信頼できた。
二人は無色の前域から直下層へ戻る。
そこから本鐘の間、祈りの間、崩聖堂の地下へと道を辿るたび、空気の質が少しずつ変わっていくのが分かった。深層に近い重みが薄れ、祈りの残響が人の耳に耐えられる程度まで落ちていく。
祈りの間へ戻った時、祭壇の上に積もっていた白い粉の一部が、光を失ってただの灰になっていた。
ルシエの残滓も、リオヴェルの残滓も、完全に消えたわけではない。
けれど“固定された出口”としての不気味さだけは消えている。
セラフィナが小さく言った。
「……弔いとしては、たぶんこれ以上ないわね」
ゼノンは答えなかった。
答えられなかった、の方が近い。
本鐘の間を抜ける頃には、頭の奥の熱が鈍痛に変わっていた。補助路を主へ切り替えた反動だろう。歩けないほどではない。だが、まだ体が“自分一人分”に戻っていない感覚がある。
それでも足は止めない。
崩聖堂の裂け目から地上の光が見えた時、初めて本当に終わったのだと実感した。
外は、もう夕方に近かった。
どれだけ深層にいたのか分からない。体感では長くても一時間か二時間だが、空の色は朝とはまるで違う。谷を渡る風はまだ冷たいが、あの裂け目に満ちていた狂った聖歌はほとんど聞こえなくなっていた。
「ゼノンさん!」
声が飛ぶ。
裂け目の外、崩れた石の陰からミラが駆け出してくる。顔色は青い。だが立っている。待っていたのだろう。二日と言ったのに、結局ほとんどその場を動かなかったに違いない。
ハルトも少し遅れて現れた。
こちらは目を丸くしたまま、何度も二人を見比べている。
「……ほんとに、戻ってきた」
ミラの言葉に、ゼノンは思わず息を吐いた。
「戻るって言っただろ」
「努力はする、って言ってた」
「それ、戻らない人の言い方だったもん」
不満そうに言うくせに、声は少し震えていた。
ゼノンは何か返そうとして、結局やめる。
代わりに袋から木札を取り出して差し出した。
「返す」
ミラはぱち、と目を瞬かせる。
それから木札を受け取り、少しだけ驚いたような顔をした。
「……あったかい」
「気のせいだ」
「ううん。違う」
断言され、ゼノンは面倒そうに眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。
セラフィナが裂け目を振り返り、低く呟く。
「崩聖堂は、しばらく封じ直した方がいいわね」
「前みたいな完全封鎖じゃない。監視と通気だけ残して、深層へ直結する道は閉じる」
ハルトが恐る恐る聞く。
「それで……もう、水は枯れないんですか」
ゼノンとセラフィナは一瞬顔を見合わせる。
嘘は言えない。
だが希望まで奪う必要もない。
ゼノンが先に答えた。
「今までみたいに、急に全部枯れる形はかなり減る」
「ただ、流れそのものが完全に直ったわけじゃない。井戸も湧き水も、しばらくは無茶に使うな」
ハルトは何度も頷いた。
ミラは木札を胸元へ戻しながら、小さく聞く。
「じゃあ、終わったの?」
その問いに、ゼノンは少しだけ空を見る。
谷の上の空は、薄く赤い。
だが胸の奥では、まだいくつかの線が遠くで揺れているのが分かる。第三区画の主な偏流は引いた。補助路も開いた。けれど補助路は不安定で、上位座はまだ完全に健全ではない。加えて、中央がこの変化を見逃すはずもない。
「……一回、止めただけだ」
ゼノンはそう答えた。
「これからまた面倒が来る」
「うわぁ」
ミラが素直に顔をしかめる。
「そんな予感しかしない」
「俺もだ」
セラフィナがそれを聞いて、少しだけ息を吐いた。
「その前に、まずは報告と隠蔽の勝負ね」
「総監が消えた以上、中央は必ず動く」
ハルトが青ざめる。
「中央って……教会が?」
「ええ」
セラフィナは淡々と言う。
「しかも、多分まともな神官じゃ済まない」
審問官。
あるいはもっと上の何か。
その予感は、ゼノンにもあった。
アルベリウスが消えた。
上位座の補助路比率が変わった。
奇跡の出力低下を、中央が見逃すはずがない。
つまり――
次に来るのは、辺境の井戸の病や水枯れみたいな自然な異変ではない。
人間だ。
それも、深層の変化を嗅ぎ取れる側の人間。
ゼノンは木札を返した手を見下ろし、ゆっくりと握る。
座らないと決めた。
抱え込まないと決めた。
それでも、流れへ手を入れた以上、もう中央の目からは逃れられないだろう。
「……帰るぞ」
短くそう言うと、ミラがこくりと頷く。
ハルトも慌てて道を開ける。
セラフィナだけは、その場で少しだけ立ち止まった。
「どこへ?」
ゼノンが振り返る。
セラフィナは、崩聖堂の裂け目と谷の向こうを一度見てから答えた。
「今のところは、あなたたちと」
「返流器を一人で歩かせるほど、私も楽観していない」
「そうかよ」
「そうよ」
セラフィナは白い外套を払った。
「それに、中央が来るなら私も当事者だもの」
面倒だな、とゼノンは思う。
だが、断る理由も今はなかった。
谷を抜ける風は、来た時より少しだけ静かだった。
それでも遠くのどこかで、まだ細い鐘の余韻が鳴っている気がする。
完全に終わったわけじゃない。
けれど確かに、一つの座は止めた。
その事実だけを足元へ置いて、ゼノンは夕暮れの谷を歩き始めた。




