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第41話 残留核の解放

 初代受け手の残留が、静かに言った。


『私を、ここから外せ』


 その一言で、上位座中枢の空気がさらに張り詰めた。


 玉座の背後の環はなおも軋み続けている。主路の比率は落ち、補助路の比率は上がりつつある。だが、それだけでは足りないらしい。中枢核の奥に固着した初代受け手の痕跡が“座を中心に奇跡を返す”という古い前提の最後の芯になっていて、それが残る限り、補助路を本格的な主路へ切り替えきれないのだろう。


 ゼノンは中枢核へ触れたまま、低く問う。


「外すって、どうやる」


『核をほどけ』

『私を奇跡の返却点ではなく、流れへ戻せ』


「簡単に言うな」


 思わず吐き捨てると、残留はわずかに揺れた。

 苦笑したのかもしれない。


『簡単ではない』

『だから、お前が必要だった』


 セラフィナがすぐに口を挟む。


「ゼノン、慎重に」

「残留核を解放するってことは、中枢核の中心から“受け手の定義”そのものを引き剥がすってことよ」

「失敗したら補助路どころか、上位座全体が空転する」


「成功しても、相当危ないんだろ」


「ええ」

 セラフィナは即答した。

「解放の瞬間、長年ここへ固定されていた祈りの残響が一度に自由になる」

「返流器のあなたが受け止め損ねたら、補助路へ行く前に直下層へ逆流する」

「そうなれば崩聖堂も灰白も、第三区画の座標がまとめて吹き返す」


 最悪だった。


 つまりここで初代受け手を解放するには、中枢核の古い芯をほどきつつ、解放された流れをすぐ補助路へ分散しなければならない。少しでも遅れれば、今まで以上の反動が辺境へ落ちる。


「……ほんとに最後まで面倒だな」


 ゼノンが言うと、セラフィナが疲れたように答える。


「今さら気づいたの?」


 そのやり取りの最中も、中枢核は脈打ち続けている。

 どくん、どくん、と。

 その鼓動のたびに、初代受け手の残留の輪郭が少しずつ明滅した。時間がないのだと分かる。


 ゼノンは袋の中の木札を握る。


 返してもらうから。

 あの言葉が、妙に鮮明に胸へ残っていた。


 全部を背負わない。

 座らない。

 それでも、今だけは通す役になる。


「……やるしかないか」


 ゼノンが低く言うと、初代受け手の残留が静かに答えた。


『ありがとう』


「礼はまだ早い」

「外せるって決まったわけじゃない」


『それでも』

『座らない者が、ここまで来たこと自体が、もう救いだ』


 その言葉に、ゼノンは一瞬だけ返事を失う。


 初代受け手は、長すぎる時間をここへ縫い付けられていた。

 奇跡を返し続けるためだけに。

 誰か一人が座ることで、世界が楽をしてきた。その中心にいたのがこの残留だ。


 だからこそ、“座らない者”が来たこと自体に意味があるのだろう。


 ゼノンは深く息を吸い、セラフィナへ視線を向けた。


「補助路、どこまで固定できる」


「灰白、第二区画寄りの支線、第三区画の主分流、崩聖堂、本鐘、第二分流点――そこまではいける」

「でも全部を均等には無理」

「あなたが流れの太さを見て、どこへどれだけ返すか決めて」


「やっぱりそこは俺か」


「返流器って、そういうことでしょう」


 嫌味ではない。

 事実として言っている。


 ゼノンは中枢核の奥を見た。


 初代受け手の残留は、今やほとんど“人の形をした芯”にしか見えない。薄く、細く、長い時間をかけて削られた輪郭。その胸の中心に、たった一点だけ、白金でも灰銀でもない透き通った光が灯っている。


 あれが、本当に最後の核だ。


「そこか」


 ゼノンが呟くと、残留は頷いた。


『そこをほどけば、私は流れへ戻る』

『ただし、長く抱えすぎた分……反動も大きい』


「分かってる」


『本当は、誰か一人へ託したくなかった』

『だが、それしか方法がなかった』


「だから今、別の形に変えるんだろ」


 残留は、またほんの少しだけ揺れた。

 頷きに見えた。


 セラフィナが白金の線を張り直す。

 足元から立ち上がった第二節の固定枠が、上位座の周囲へ複雑な円環を描いていく。補助路ごとの出口、座標ごとの返し口、それらを一時的に開いておくための術式だ。細く、繊細で、少しでも乱れれば全体が崩れそうな枠だった。


「準備、いける」


 セラフィナが言う。

「でも、ほんとに一度きりよ」

「迷ったらそこで終わる」


「迷わない方が怖いだろ」


「それはそう」


 短い沈黙。


 アルベリウスの灰が、足元で音もなく広がっていく。

 玉座へ投げた木札は、まだ白い座の上で小さく止まったままだ。


 あの木片ひとつで、座の理屈は一瞬止まった。

 なら今度は、人を座から外す。


 ゼノンは中枢核へ両手を当てた。


 右手だけでは足りない。

 左手も添えると、透明結晶の奥の脈がよりはっきり伝わってくる。どくん、どくん、と揺れるたび、初代受け手が通し続けた祈りと奇跡の残響が腕を通って胸へ流れ込む。


 多い。

 重い。

 果てがない。


 けれど今のゼノンは、最初の頃のようにそれを“全部受けなければならないもの”とは感じなかった。


 返す。

 分ける。

 繋ぐ。

 それだけだ。


「行くぞ」


 ゼノンが言う。


 セラフィナが白金の線を引き絞る。


「今!」


 ゼノンは初代受け手の核へ、返流をまっすぐ差し込んだ。


 壊すのではない。

 長く固定されていた“座へ返すための癖”をほどく。

 受け手という定義を、流れそのものへ戻す。


 最初は何も起きない。


 次の瞬間――

 中枢核の奥で、かちり、と小さな音がした。


 初代受け手の胸の一点から、透き通った光がふっと浮き上がる。

 同時に、中枢核の全層が一斉に震えた。


「っ、来る!」


 セラフィナが叫ぶ。


 解放だ。


 今まで一人分の芯へ縫い付けられていた膨大な祈りの残響が、一度に浮く。奇跡として返されたものも、返されなかったものも、その全部の“通し癖”が剥がれ、何十、何百もの線になって空間へ広がった。


 ゼノンの視界が真っ白になる。


 村。

 集落。

 迷宮。

 聖堂。

 名も知らない都市。

 泣く子ども。

 祈る兵士。

 膝をつく老人。

 叫ぶ母親。


 数が多すぎて、もはや誰が誰かも分からない。


『返流器』


 中枢核そのものが呼ぶ。


『いま、返せ』


「……っ!」


 ゼノンは歯を食いしばった。


 全部を一度に通せば、自分が裂ける。

 だから刻む。


 灰白へ。

 第二分流点へ。

 崩聖堂へ。

 本鐘へ。

 まだ名もない複数の座標へ。


 線を何本も開き、一気にではなく層ごとに返していく。苦しみの濃いものから、偏流に近いものから、滞留年数の長いものから。優先順位はある。だが最初から“落とす”前提ではない。ただ、通りやすい出口から次々に押し出していく。


「セラフィナ、第三支線もっと開けろ!」

「崩聖堂側が詰まる!」


「やってる! あなたも灰白へ寄せすぎ! 本鐘側へ少し回して!」


「本鐘はまだ受けられるか!?」


「主路比率落としてるから前よりはまし!」


 怒鳴り合いに近いやり取り。

 だが、不思議なほど噛み合っていた。


 白金の固定と灰銀の返流。

 管理と中継。

 考え方は違うのに、今この瞬間だけは同じ方向を向いている。


 中枢核の脈動が荒れる。

 玉座の背後の環が軋む。

 だが同時に、上から落ちてきた祈りの大河が、少しずつ一本の主路ではなく複数の補助路へ散り始めていた。


 補助路は細い。

 通る量も弱い。

 けれど流れは、ちゃんと進んでいる。


『補助路比率、閾値突破』

『主路依存率、低下』

『単一受け手前提を解除』


 玉座の声が、初めて少しだけ遠く聞こえた。


 初代受け手の残留が、中枢核の奥でゆっくりとほどけていく。

 顔の輪郭が薄れ、肩が光へ変わり、最後には残っていた“人の形”そのものが消えていく。


 だが今度は、悲しさよりも静けさが勝った。


『……ようやく、降りられる』


 その声は、もうほとんど風みたいだった。


 ゼノンは息を詰める。


「戻る先はあるのか」


 問いへの返事は、言葉ではなかった。


 無数の補助路のうち一本が、中枢核の奥からふわりと明るくなる。まるで、長く閉じていた窓がようやく開いたみたいに。その先に何があるかは見えない。けれど、そこが“座ではない場所”であることだけは分かった。


 初代受け手の残留は、最後にほんの少しだけ笑った気がした。


 そして、光へ溶けた。


 今度こそ完全に。


 中枢核の中心から、人の形が消える。


 同時に、玉座の背後の環が大きく脈打ち、長く続いていた軋みが少しずつ収まっていく。


『残留核、解放完了』

『補助路群を主循環として再定義』

『返流器による暫定中継を承認』


 ゼノンの膝が、がくりと折れた。


「っ、は……」


 息が苦しい。

 頭の奥が熱い。

 視界が端から白く滲む。


 それでも、さっきまでのような“全部を抱え込んで潰れる”感覚はなかった。流れは通っている。自分は中継だ。負荷は凄まじいが、少なくとも座へ縫い付けられてはいない。


 セラフィナも膝をついていた。

 白金の線はまだ残っているが、かなり細くなっている。


「……やった、の?」


 掠れた声で聞く。


 玉座の声が静かに応じる。


『暫定再配分、成功』

『上位座は空席を維持』

『単一受け手の要求を停止』

『ただし、補助路循環は不安定』

『以後の維持には、返流器による断続的介入を要する』


 ゼノンは思わず顔をしかめた。


「やっぱり、完全解決じゃないのかよ」


『完全解決の定義が不明』


「そういうとこだぞ……」


 力なく吐き捨てる。


 だが、少なくとも一つだけははっきりしていた。


 玉座は空席のまま保たれた。

 誰か一人を座らせ、縫い付け、奇跡を返し続ける構造は止まった。

 補助路は細く、弱く、面倒だ。

 それでも、最初から誰かを余白にする仕組みよりはましだ。


 ゼノンは玉座の上の木札を見る。


 まだそこにあった。

 何の力もない木片。

 けれど、この空間で最後まで“座るためのものではない何か”として残り続けた。


 それが妙に、救いみたいに思えた。


 セラフィナが荒い息のまま笑う。


「……ほんとに、座らなかった」


「座る気ないって言っただろ」


「ええ。でも、ここまで本当にやるとは思ってなかった」


「お前、わりと失礼だな」


「今さらよ」


 短い沈黙のあと、上位座中枢の空間が、少しずつ薄れていくのが分かった。

 無色の床も、頭上の光の川も、玉座も、環も、全部がさっきより遠い。中枢核への直接介入が終わり、ここへとどまる理由がなくなってきているのだろう。


『返流器』

『第二節保持個体』


 玉座の声が最後に響く。


『上層への帰還路を開示』

『以後、返流の乱れが閾値を超えた際は再招請を行う』


「……呼び出し機能まであるのかよ」


『必要機能』


「便利そうに言うな」


 そのやり取りを最後に、ゼノンは深く息を吐いた。


 終わっていない。

 これから先も、補助路は詰まり、偏流はどこかで起こるだろう。自分はそのたびに呼ばれるかもしれない。面倒だ。とてつもなく面倒だ。


 でも今はまだ、それでいいと思えた。


 辺境を余白にする座は、少なくとも一度壊した。

 その意味だけは、確かだった。


 白い玉座の上で、小さな木札がかすかに揺れた。

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