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第39話 裂けた設計線

 アルベリウスの設計線が裂けた瞬間、上位座中枢の空気が反転した。


 赤金に染まっていた偏流の道が、音もなく左右へほどけていく。中枢核の裏へ隠されていた横流しの細道が、まるで継ぎ目から剥がれる皮みたいに一枚ずつ捲れ、その下から本来の無色の環が姿を現した。


 どくん、と中枢核が大きく脈打つ。


 上から降ってきていた祈りの流れが、一瞬だけ行き場を失って空間全体へ広がった。白、金、灰、淡い青。無数の願いが薄い霧みたいに拡散し、次の瞬間には、裂けた設計線の断面から一気に逆流を始める。


「っ、やめろ!」


 アルベリウスが初めて声を荒げた。


 穏やかな仮面は完全に剥がれていた。

 男は裂けた線へ片手を伸ばし、無理やり押さえ込もうとする。だが戻り始めた流れはもう一人の人間の手で止められる量ではない。赤金の偏流は彼の指先をすり抜け、腕を逆向きに駆け上がる。


 その瞬間、アルベリウスの白い法衣の裾に、細いひびみたいな黒線が走った。


 深層接続の逆流だ。


「ゼノン!」


 セラフィナが叫ぶ。

「今のうちにもっと開いて! 一部だけ戻しても、すぐ再接続される!」


「言われなくても分かってる!」


 ゼノンは中枢核へ触れた手にさらに力を込めた。


 返流権が、今までにないほど深く応える。

 いや、応えているのは返流権だけじゃない。中枢核の奥に残っていた初代受け手の痕跡が、いま一瞬だけゼノンの意志へ寄り添っていた。座らない手。抱え込まない経路。その形を、中枢核の側も理解し始めている。


 触れている透明結晶の内側で、複雑に絡み合っていた線が見える。


 アルベリウスの設計は巧妙だった。

 本来の循環環に薄く寄り添い、祈りの大流を直接奪うのではなく、一度“選定後の余剰”として集計し直してから横へ逃がしている。だから表からは見えにくかったのだ。辺境だけではない。王都近郊の聖堂群、東部の巡礼路、いくつかの迷宮都市――複数の区域から、少しずつ、長く、持続的に吸っていた。


「……お前、どこまで広げてた」


 ゼノンの掠れた声に、アルベリウスは苦しげに顔を上げる。


「必要なだけだ」

「上位座は空だった……! 誰も座らず、誰も管理せず、ただ壊れていく構造を前にして、手をこまねいていろと?」

「座らせればまた人が潰れる! なら、座らずに回る代替を組むしかなかった!」


 その言葉には、初めて剥き出しの焦りがあった。


 言い訳だけではない。

 こいつなりに、本当に“他に方法がなかった”と思い込んでいたのだろう。


 だがゼノンは手を緩めない。


「だから見えないところから削ったのか」

「痛みを散らせば、痛みじゃなくなるとでも思ったか」


「一箇所に押し込むよりはましだ!」


「誰にも見えないように薄く広く傷つける方が、よほど質が悪い!」


 怒鳴り返した瞬間、中枢核の地図が大きく開いた。


 今まで点と線でしか見えていなかった世界の裏側が、急にはっきり輪郭を持つ。辺境第三区画だけじゃない。中央管理下にある複数の封鎖区、それらを支える旧導路網、聖教会の大聖堂に直結した新しい補助循環、迷宮の深部で勇者へ供給される奇跡の保護線――全部が一本の巨大な網だった。


 その網の何本かへ、アルベリウスの設計線が深く食い込んでいる。


 ゼノンは息を呑む。


「……勇者にも、流してたのか」


 思わず漏れた声に、アルベリウスの目が細くなる。


「当然だ」

「表層の防衛線は維持しなければならない」

「迷宮が一つ溢れれば、辺境の一村どころの被害では済まない」


「だから勇者の奇跡を優先して、辺境を削るのか」


「優先順位の問題だ!」


 アルベリウスが叫ぶ。

 その声と同時に、男の周囲を走る黒線が一気に増えた。逆流した偏流が身体へ戻り、彼自身を“設計の一部”として食い始めている。


 セラフィナが低く吐き捨てる。


「見なさいよ、それがあなたのやり方の末路」

「構造へ寄りすぎれば、自分から順番に部品になるのよ」


 アルベリウスは答えない。

 答える余裕がないのだろう。


 中枢核の奥で、初代受け手の残留が静かに震える。

 声はもうほとんど掠れていたが、それでもゼノンには届いた。


『いまなら……補助路を起こせる』

『偏流を戻すだけでは足りない』

『玉座を通らない道を、表へ繋げ』


 補助路。


 最初の受け手が見せた、細く古い返流路だ。

 受け手一人へ集中させる前の、遅く、弱く、だが壊れにくい道。


「ゼノン!」

 セラフィナが気づいたらしい。

「見えてるなら開けるしかない! 偏流を元に戻しても、今の主路だけじゃまたどこかが詰まる!」


「分かってる!」


 だが簡単ではなかった。


 補助路は細い。

 細すぎる。

 本来の主路が長年使われ続けた結果、ただでさえ弱っている。ここへ一気に流し込めば、道そのものが裂ける。


 どうする。


 ゼノンの頭の中で、前の村の井戸、北の集落の湧き水、灰白の中継核、本鐘、直下層の選定機構が一斉に浮かぶ。それぞれは全部、流れを“集める”か“止める”かのどちらかに寄っていた。だから偏りが出た。


 なら――


「集めず、止めず、刻む」


 ゼノンが低く呟く。


 セラフィナが聞き返す。

「何?」


「流れを細かく割る」

「補助路一本へ通すんじゃなくて、戻る先を同時に複数開く」

「村も集落も中継核も、座標ごとに細く返して、その先でまた分ける」


 セラフィナの目が一瞬見開かれた。


「……そんな分割、今ここでやる気?」


「やるしかないだろ」


「失敗したら?」


「その時はお前が切れ」


 即答すると、セラフィナは舌打ちしかけ、それでも頷いた。


「ほんとに無茶しかしないわね!」


「今さらだ!」


 アルベリウスが苦しげに笑う。


「出来るはずがない」

「補助路は受け手不在ではただの排水路だ」

「お前みたいな半端な権限で、世界規模の返流を多点分割できるものか」


「半端なのはお互い様だろ」


 ゼノンは吐き捨て、中枢核のさらに深い層へ意識を沈めた。


 返流権。

 灰白の結晶。

 第二分流点。

 補助鍵。

 黒銀の接続札。

 今まで触れてきた節点と鍵が、一本の線ではなく、複数のノードとして頭の中へ並ぶ。


 そうか、とゼノンは思う。


 自分は“一つの大きな器”になる必要なんてなかった。

 最初から、複数の細い流れを一時的に結び替える中継にしかなれないし、なるつもりもない。


 なら、その半端さこそ使えばいい。


「セラフィナ!」


「何!」


「お前の第二節、封鎖じゃなくて“刻み”に使えるか!」


 セラフィナは一瞬だけ沈黙した。

 次に返ってきた声は、驚き半分、理解半分だった。


「……細分化固定なら、いける」

「でも制御点が足りない!」


「あるだろ」


 ゼノンは袋の中のものを、一気に中枢核の前へ放り出した。


 透明結晶。

 補助鍵。

 黒銀の接続札。

 木札だけは手元に残したまま。


 灰白の結晶と補助鍵と接続札は、中枢核の表面に触れた瞬間、それぞれ違う色で光り始める。灰銀、白、黒。全部、不完全な鍵だ。だが不完全だからこそ、一つの玉座に固定されていない。


 セラフィナが息を呑む。


「即席で分流点を作る気……!?」


「中継核も分流点も、全部ここに触れた断片だ」

「なら“座に座らない返流の杭”くらいには使える!」


 アルベリウスの顔色が変わる。


「やめろ! それをやれば、中枢の単一性が崩れる!」


「崩れて困るの、お前だけだろ!」


 ゼノンは中枢核へ触れた右手を軸に、三つの断片へ同時に流れを落とした。


 どくん、と中枢核が脈打つ。


 灰白の結晶が、辺境第三区画の灰白中継核と共鳴する。

 補助鍵が、崩聖堂とその上層へ細い白線を伸ばす。

 黒銀の接続札は一瞬だけ抵抗したが、アルベリウスの設計線から切り離されると、今度は別の補助路の入口として沈黙した。


「セラフィナ、いまだ!」


「分かってる!」


 第二節の白金の線が、三つの断片を囲むように回る。

 封鎖ではない。

 切断でもない。

 刻みだ。


 本来一つの玉座へ集めるはずの流れを、細く、複数の経路へ切り分けていく。


 中枢核が悲鳴みたいに震えた。


 頭上の祈りの川が、大きく形を変える。今まで一本の太い主路へ落ちていたものが、四つ、五つ、七つへ分かれ、別々の角度で流れ始める。遅い。力も弱い。だが、一人の受け手へ集中させるよりはるかに“まし”な形だと、ゼノンには直感で分かった。


 アルベリウスが叫ぶ。


「止めろ! そんな流し方では表層の奇跡強度が落ちる!」


「当たり前だ!」

 ゼノンは怒鳴り返す。

「お前みたいに見えないところから吸って、王都だけ綺麗に保つ方が歪んでるんだよ!」


 上位座全体が揺れる。


 地図上で赤く染まっていた線のうちいくつかが、色を戻していく。

 辺境第三区画だけじゃない。

 別の封鎖区でも、偏流が薄れ始めていた。


 だが代わりに、金色だった主路の輝きが全体的に少し落ちる。

 大きな奇跡は減るだろう。

 迅速な集中的救済も弱まるだろう。


 それでも――


『補助路、再開通』

『主路の集中率を低下』

『全体安定性、上昇』

『即効性、低下』


 無色の玉座が、静かに告げる。


 ゼノンは荒い呼吸のまま笑った。


「それでいい」


 セラフィナも息を切らしながら、中枢核を睨みつける。


「ええ……それでいい」


 アルベリウスは、信じられないものを見る目をしていた。


「……本気か」

「大規模奇跡の出力が落ちる」

「中央の保護線も、勇者の補助も、王都の自動浄化も、全部いままで通りには動かないぞ」


「なら自分の足で立て」

 ゼノンは低く言う。

「見えない辺境を削って保つ前提の奇跡なんか、最初から壊れてるんだよ」


 その一言で、アルベリウスの何かが完全に切れた。


 男は白杭の拘束を、深層へ寄ることで無理やり引きちぎる。肩口と腕から黒い線が噴き出し、その代わり人としての輪郭がさらに薄くなる。それでも構わないという顔だった。


「なら――!」


 アルベリウスは中枢核へ飛びかかった。

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