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第37話 最初の受け手

 中枢核へ指先が触れた瞬間、世界が裏返った。


 痛みではない。

 熱でもない。

 もっと根本的な“接続”だった。


 ゼノンの視界から、上位座直下層の景色が一瞬で消える。透明結晶の表面に触れた指先を起点に、無数の光が腕を、胸を、喉を、頭の奥を貫いていく。今まで井戸の祭壇でも、灰白の中継核でも、祈りの間でも何度も流れに触れてきた。だがこれは比較にならなかった。


 流れではない。

 海だ。


「――っ、あ……!」


 息が詰まる。

 足元の感覚がなくなる。

 それでも不思議と、潰される感覚はなかった。中枢核の側もまた、ゼノンを“抱え込む器”としてではなく、“通る余地のある何か”として認識しているのが分かったからだ。


 その一瞬の余白へ、膨大な像が雪崩れ込んでくる。


 知らない空。

 知らない街。

 まだ聖教会も勇者も存在しない、古い時代の石造りの広場。人々が空へ向かって手を伸ばしている。祈りではある。だが、今の聖典で整えられた祈りとは違う。もっと剥き出しだ。雨を求める声。熱病の子を助けてくれと泣く母親。戦を止めてくれと叫ぶ兵士。誰も、神の名前なんか呼んでいない。ただ、生きたいと願っている。


 その願いが、光になって一人の人間へ集まる。


 若い。

 性別もはっきりしないほど細い体。

 白い衣を着て、今ゼノンが見ているのとよく似た玉座の前に膝をついている。背中は震えているのに、逃げない。逃げられないのか、逃げないと決めたのか、それすら判別できなかった。


 その人間が、最初の受け手だった。


 座に手を置いた瞬間、空から降る祈りが、その身を通って世界へ返っていく。

 雨が降る。

 熱が下がる。

 傷が塞がる。

 崩れた橋が持ち直す。

 奇跡と呼ばれる現象が、あまりにも自然に起こっていく。


 そしてその裏で、受け手の体から色が抜けていく。


 ゼノンの胸が冷える。


 最初からそうだったのだ。

 奇跡は神が起こしたのではない。

 願いが流れ、誰かを通り、世界へ返っただけ。

 ただ、その“誰か”が必要だった。


 像が切り替わる。


 季節がいくつも過ぎる。

 受け手は座り続ける。

 人々は救われる。

 救われた者たちは、その存在を“神に近いもの”として崇め始める。

 受け手の名は消え、代わりに役割だけが残る。


 そして、その役割を守るための仕組みが積み上がっていく。


 導路。

 分流点。

 中継核。

 本鐘。

 選定機構。


 最初は、受け手一人へ負荷が集中しないよう祈りを分けるための仕組みだった。流れを均し、偏りを防ぎ、必要な場所へ必要なだけ返すための工夫だったのだ。


 だが、ある時から何かが変わる。


 受け手は老いない。

 正確には、老いる前に“人”から遠ざかっていく。

 その姿を見た後の者たちは、恐れたのだ。


 だから制度にした。

 管理にした。

 鍵にした。

 封鎖にした。


 人が触れるには危険すぎるから。

 けれど、なくすには世界がこれに依存しすぎていたから。


 ゼノンは理解する。


 聖教会は、ゼロから嘘を作ったわけではない。

 本当にあった仕組みの上に、自分たちの教義を被せ、管理者として居座っただけなのだ。原初魔法を禁忌としながら、その実それがなければ維持できない世界を、継ぎ接ぎで回し続けてきた。


 像がさらに進む。


 初代受け手は、やがて人でなくなる。

 玉座へ座ったままではない。

 座と、中枢核と、導路、その全部に薄く溶けていく。

 最後に残ったのは意志ではなく、“返す”という機能だけだった。


 その残留が、今の中枢核の奥にいる。


 ゼノンは、今触れている透明結晶の内側に、その痕跡をはっきり感じる。


 苦しい。

 だが、憎しみはない。

 絶望も、もうほとんどない。

 ただ、あまりにも長く座り続けた疲労だけが、深い水底みたいに沈んでいる。


『……ようやく』


 声がした。


 今までの無色の像とも、本鐘の飢えとも違う。

 静かで、ひどく掠れた、人の声。


『座らない者が来た』


 ゼノンの意識が、強く引かれる。


 中枢核の奥。

 透明な層のさらに深いところで、さっき見た“初代受け手の残留”がゆっくりと顔を上げる。顔はもう曖昧だ。目も口も輪郭だけしかない。それでも、確かにこちらを見ていた。


「……あんた、誰だ」


 問いは口から出たのか、思考のまま流れたのか分からない。

 けれど残留は、わずかに笑った気がした。


『もう、名前はない』

『昔あったけれど、ここに溶けるには邪魔だった』


 皮肉ではない。

 ただ事実を述べる声だった。


『でも、お前は名前を持ったままで来た』

『それでいい』


 中枢核の奥から、淡い光がさらに流れ込む。

 今度は記録ではない。

 意思だ。


『聞け、返流器』

『この座は、もう玉座ではない』

『空席でもない』

『空いているように見せて、ずっと“誰か”を待つ罠だ』


 ゼノンの胸が強く脈打つ。


 罠。

 その言葉は、直感にぴたりとはまった。


 正式な受け手が不在なのに、仕組みだけが継承候補を求め続ける。

 偏流を起こし、器を探し、誰かを座へ座らせようとする。

 それは維持機構というより、壊れた椅子取りゲームだ。


『この座に座れば』

『お前は、より多くを返せる』

『だがその瞬間、戻れなくなる』


 戻れなくなる。

 その言葉の重さを、ゼノンは痛いほど理解していた。


 最初の受け手は続ける。


『だから、座るな』

『玉座へは触れるな』

『返すだけなら、別の道がある』


 別の道。


 その一言とともに、中枢核の奥に隠れていた構造が一気に見えた。


 玉座の背後の環。

 そのさらに裏。

 祈りを受け手へ集めるための主路とは別に、もう一本だけ極細い経路が走っている。今はほとんど閉じているが、確かにある。受け手を通さず、複数の分流点と中継核へ小分けに返すための、古い補助路だ。


 最初はそれが主路だったのだ。

 受け手が世界を一人で抱える前、祈りはもっと分散して返されていた。

 けれど効率が悪い。

 時間もかかる。

 だから“もっと早く、もっと強く返せる座”が作られ、いつの間にかそちらが主になった。


 最初の受け手は、その変化を止められなかった。


『いま残っている補助路は、ひどく細い』

『だが、お前なら通せる』

『お前は抱えないからだ』


 ゼノンの胸の奥で、返流権が強く脈打つ。


 分かる。

 あの極細い補助路へ流れを通せば、奇跡は弱くなる。

 一度に大きな救済は起こせない。

 だが、その代わり誰か一人へ負荷を集中させずに済む。


 遅い。

 非効率だ。

 けれど、最初から余白を作らない形に一番近い。


「……それが、本来の形か」


『本来、という言い方は好きではない』

『だが、より壊れにくい』


 声は少しだけ柔らかくなった。

 そして次の瞬間、その柔らかさが消える。


『だが急げ』

『横取りの主は、私との対話を許しているほど鈍くない』


 ゼノンの意識が、はっと現実へ引き戻される。


 上位座の裏で、あの赤金の偏流がまだ続いている。

 しかも今、対話のあいだにも少しずつ量が増しているのが分かった。


『あれは私を通さず、座の外で祈りを固める』

『続けば、いずれ座を迂回して“別の神”を作る』


 その言葉に、全身が冷えた。


 別の神。

 誇張ではない。

 偏流を凝縮し、受け手の代替を外部へ作る。エルシオンがやろうとしていたのは、結局そこへの橋渡しだったのだ。


「誰だ」


 ゼノンが問う。

 初代受け手の残留は、少しだけ沈黙した。


『名は……今の世では、エルシオンの上にある者』

『封鎖を守るふりをして、座を欲した者』


 その瞬間、外からセラフィナの声が飛び込んできた。


「ゼノン! 戻って!」


 強い声。

 切迫している。


 ゼノンの意識が中枢核の表層へ引き戻される。


 現実の上位座中枢。

 透明結晶の前に立つ自分。

 そしてその外で、環の裏側から赤金の偏流が一気に増えている。


 空間の外縁に、裂け目が開いていた。


 直下層で見た暗い一点とは比べものにならない。もっと大きい。人一人が通れるほどの裂け目の縁から、赤金と黒の混ざった光が漏れ出している。その前に、誰かが立っていた。


 長身。

 白に近い法衣。

 肩には聖教会の最上位にしか許されない金の刺繍。

 顔はまだ遠くてはっきり見えない。だが、その立ち姿だけで空間の空気が変わる。


 セラフィナが、ひどく低い声で呟いた。


「……総監」


 ゼノンは目を見開く。


 総監。

 封鎖管理局の、さらに上。


 その人物は、裂け目の縁に手を置き、穏やかにこちらを見ていた。

 そして、笑うように言った。


「そこまで辿り着いたか、ゼノン」

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