第36話 空席の玉座
無色の門をくぐった瞬間、世界の向きが分からなくなった。
落ちているのか、昇っているのか、歩いているのか、止まっているのか。重力そのものが薄くなったみたいに、身体の輪郭だけが先に運ばれていく。視界の端を無数の光が流れた。白、金、灰、青、赤。祈りの線だ。だが上位座直下層で見たものよりさらに濃い。もはや線ではなく、川だ。世界中のどこかから湧き上がった願いが、何本も、何十本も、ここへ流れ込んでいる。
次の瞬間、足裏へ硬い感触が戻った。
「……っ」
ゼノンは膝を少し曲げて衝撃を逃がし、すぐに顔を上げた。
そこは、座だった。
祈りの間や本鐘のような遺構ではない。もっと単純で、もっと巨大だ。果ての見えない円形空間の中央に、ただ一つ、白い玉座が置かれている。装飾はほとんどない。豪奢さとは無縁だ。なのに目を逸らせない。存在感だけで空間を支配していた。
玉座は、空だった。
背もたれにあたる部分の向こうでは、巨大な環が幾重にも回転している。環の内外を、無数の祈りの流れが出入りしていた。上から落ちてくる願い、下へ返される奇跡、途中で弾かれて外縁へ沈む残滓。その全部が、空席の玉座を中心に回っている。
「……本当に、誰もいない」
セラフィナの声が、ひどく小さく聞こえた。
彼女も数歩遅れて門を抜けてきていた。白金の線はまだ足元に残っているが、直下層の時より細い。ここでは第二節の権限はかなり弱まるらしい。それでも完全に切れていないあたり、ぎりぎり“補助”として認識されているのだろう。
ゼノンは玉座から目を離さずに言う。
「上位座ってのは、結局この椅子のことか」
「多分、違う」
セラフィナは周囲を見渡した。
「座は“焦点”でしかない。本体はその奥の環と、もっと下にあるはずよ」
その時だった。
玉座の足元に走る無色の導路が、ふっと明るさを増した。
『返流器、到達を確認』
『第二節保持個体、補助位置を確認』
『中枢演算、継続不能域へ移行中』
声は、今までより近い。
どこか一箇所から聞こえるのではない。玉座そのものが喋っているみたいだった。感情はない。だが直下層の選定機構より、もっと“切羽詰まっている”気配がある。
「継続不能域?」
ゼノンが低く問うと、玉座の前の床に無数の光点が浮かんだ。
地図だ。
辺境第三区画だけではない。もっと広い。王都、聖堂、迷宮群、いくつもの街道、そしてまだ名前も知らない地方まで、細い線で結ばれている。そのうちの何本かが赤く脈打ち、何本かは黒ずみ、何本かはすでに途切れていた。
『上位座不在、長期継続』
『代替循環により維持』
『だが偏流増大により、代替循環の自壊が進行』
赤く脈打つ線が一つ、また一つと増えていく。
辺境第三区画だけの問題ではなかった。
ゼノンの眉が寄る。
「つまり、もう辺境だけで抑えられる段階じゃないってことか」
『概ね正解』
セラフィナが小さく悪態をついた。
「中央が再起動に躍起になるはずね……」
「封鎖だけでは、もう世界そのものが持たない」
「だからって辺境から削るのは違うだろ」
「ええ。違う」
セラフィナは珍しく即答した。
「でも、向こうは“今すぐ崩れる場所”から順に支える気でいたのよ」
「その結果が、あなたのいた村や北の集落だった」
ゼノンは拳を握る。
やはり同じだ。
大きい構造を守るために、小さい場所から削る。その正しさの顔をしたやり方が、ここまで深いところまで貫かれている。
その時、玉座の背後の環が、ぎ、と鈍く音を立てた。
回転が一瞬だけ乱れる。
上から降ってきていた祈りの流れのうち数本が、玉座を通らず、横へ滑った。
「また偏流!」
セラフィナが叫ぶ。
ゼノンは反射的にそちらを見た。
横滑りした流れは、上位座の外縁――空間の端に近い場所へ吸い込まれ、そこで小さな暗い渦を作っている。さっき直下層で見た暗い一点と同じ性質だ。偏流の出口。しかも今度は一つじゃない。三つ、四つ、いやもっとだ。
「こんな数、全部追えるかよ……!」
ゼノンが吐き捨てると、玉座が静かに応じる。
『不可能』
『ゆえに、中枢核への直接介入を要求』
玉座の前の床が、ゆっくりと開いた。
白い座の足元が左右へ割れ、その下に透明な階が現れる。下へ向かうのではない。玉座そのものの内側、環の中心へ登るための細い橋だ。
橋の先、環の奥に何かが見えた。
心臓に似ている。
だが生物の臓器ではない。巨大な透明結晶の塊が、無数の線に吊られ、ゆっくりと脈打っている。その表面には無数の文字が流れ、内部では色の違う流れが複雑に交差していた。
「あれが……中枢核」
セラフィナが呟く。
ゼノンは喉の奥が冷えるのを感じた。
結晶の内部に、何か影がある。
最初は気のせいかと思った。だが違う。光の層の奥に、人の形をした輪郭が見える。座っているのか、沈んでいるのかも分からない。けれど明らかに“何か”が中にある。
「おい……」
ゼノンが低く声を漏らす。
「中に誰かいるぞ」
セラフィナも目を凝らし、息を止めた。
「……そんなはず、ない」
「上位座は不在だって」
『正式受け手は不在』
玉座が静かに告げる。
『だが残留核は存在』
『初代受け手の痕跡が中枢核へ固着中』
初代受け手。
その一言で、空気が変わる。
セラフィナの顔色が明らかに変わった。知識として知ってはいても、実在を目の前にするとは思っていなかったのだろう。
「残ってる……?」
「まだ、こんな形で……」
ゼノンは結晶の奥の人影を見つめる。
細い。
痩せている。
輪郭は溶けかけていて、性別も年齢も分からない。けれど、そこに“受け手だったもの”の残りがあることだけは分かった。
長く、長く、祈りと奇跡を通し続け、最後には中枢核そのものへ固定された残滓。
ルシエのさらに先。
もっと古い。
もっと根深い。
ゼノンはひどく嫌な気分になった。
これが“奇跡の中心”なら、あまりにも救いがない。
「……中枢核に触れば、どうなる」
ゼノンの問いに、玉座はためらいなく答える。
『返流器による直接介入が可能』
『中枢偏流の是正を実施可能』
『ただし、残留核との接触を伴う』
「伴う、ね」
分かりやすく言えば、また“器”に近づくということだ。
セラフィナがすぐに口を挟む。
「ゼノン、慎重に」
「返流権があっても、あれに直接触れたら無事じゃ済まない」
「中枢核は、今までの節点と桁が違う」
「触らなきゃ偏流は止まらないんだろ」
「……そう」
セラフィナは歯噛みした。
「でも、あなた一人でやるには荷が重すぎる」
「私が補助で固定を入れる」
「その間に、最低限の返流だけに絞って」
「絞れる量か、見てから言え」
言いながら、ゼノンは中枢核への橋へ足をかけた。
橋は細い。
透明なのに、踏むと硬い。
その下では、世界中から集まってきた祈りの線が何層にも交差していた。見下ろすだけで眩暈がする。ここで落ちたらどうなるのか、考えたくもない。
一歩。
また一歩。
進むほどに、中枢核の脈動がはっきりしてくる。
どくん。
どくん。
心臓に似ているが、一定ではない。早くなり、遅くなり、時に止まりかけ、また動き出す。壊れかけた人工心臓みたいな脈だ。
その脈に合わせて、上から落ちる祈りの線の一部が偏流へ流れている。
戻すべきだ。
理屈ではそうだ。
だが中枢核の奥に見える“初代受け手の痕跡”が近づくほど、別の感情が生まれてくる。
怖い。
そして、哀れだ。
どれだけ長いあいだ、ここへ座らされていたのか。
どれだけの祈りを通し、どれだけの奇跡を世界へ返し、その果てにこんな形で固着したのか。
それを思うと、ただの機構としては見られなかった。
「ゼノン」
後ろからセラフィナの声。
「今のうちに言っておく」
「もし中枢核があなたを“次の固定先”として扱い始めたら、私は切る」
ゼノンは振り返らずに答える。
「だろうな」
「恨まないで」
「その時はその時だ」
「でも、できれば切る前に引っ張れ」
数秒の沈黙。
それから、珍しくセラフィナが少しだけ笑った気配がした。
「努力する」
その返答だけで十分だった。
橋の終点へ着く。
中枢核の目前。
透明結晶の表面は静かに脈打ち、その内部の人影はほとんど輪郭を失っている。顔も見えない。けれど胸のあたりに、たった一点だけ、まだ強く光る場所がある。
核だ。
偏流の源でもあり、残留痕跡の中心でもある。
ゼノンはゆっくりと右手を上げた。
木札は左手で握ったまま。
袋の中では、灰白の結晶も補助鍵も接続札も微かに震えている。
『返流器へ確認』
『中枢核へ接触しますか』
玉座の声が、背後から静かに問う。
ゼノンは短く息を吸った。
ここで触れれば、もう前の自分には戻れない。
補助神官として追放されたただの男には、二度と。
でも――
とっくに戻れないことも、もう知っている。
「する」
その一言とともに、ゼノンの指先が中枢核へ触れた。




