第34話 偏流の源
ゼノンが無色の台座へさらに一歩踏み出すと、足元の灰銀の線が静かに脈打った。
それに応えるように、上位座の背後で回っていた巨大な環がわずかに傾く。頭上を流れていた無数の祈りの線のうち、さっきまで横へ逃げていた赤金の偏流が、一瞬だけ輪郭を濃くした。
「今よ」
セラフィナの声が飛ぶ。
「あなたが返流を当てる。私は流路を固定する」
ゼノンは頷く代わりに、胸の奥の熱へ意識を沈めた。
返流権。
大層な名前だと思った。
だがやることは、これまでと変わらない。
奪わない。
抱え込まない。
行き先を失っているものへ、戻る道を作る。
問題は、相手が“流れそのもの”ではなく、上位座の内部で意図的に横流しをしている何者かだということだった。
ゼノンは偏流線を睨む。
赤金の線は、上位座の環へ入る直前でほんのわずかに折れ、そのまま空間の“裏”へ潜り込んでいた。道として存在しているのに、視線を向けるだけでは掴めない。まるで、世界の表側に貼りついた薄皮の裏側へ逃がしているみたいな流し方だ。
「嫌らしいな」
ゼノンが低く言うと、セラフィナが短く答える。
「まともな管理じゃない証拠よ」
「正規の循環なら、こんな隠し方はしない」
彼女は白金の線の端へ膝をつき、両手を床へ触れさせた。白い術式光が掌から広がり、上位座の周囲へ薄い格子を組んでいく。強引に縛るのではない。流れの形だけを見えるよう固定する、観測用の枠だ。
「今」
「偏流の入口が見えるはず」
ゼノンは目を細めた。
確かに見えた。
赤金の線が、今だけはっきりと姿を現している。環の内側で、他の流れが通る正規の道とは違う角度で折れ、背後へ回り込み、さらにその向こうの“暗い一点”へ注ぎ込んでいた。
暗い一点。
そこだけ、無色の空間に小さな影がある。
星のない夜空に、針で突いた穴が空いているみたいな黒さだった。
「……あそこか」
「見えた?」
「ああ」
「なら、返して」
「ただし一気に引くと気づかれる。まずは細く切って」
ゼノンは呼吸を整え、赤金の偏流線へそっと意識を触れさせた。
熱い。
いや、熱ではない。
執着に近い。
この線には、ただ祈りが流れているわけではない。意図が混じっている。誰かの「こちらへ寄越せ」という強い志向が、そのまま流路の癖になって残っている。
だから嫌だ。
こういうのは、触れた瞬間にこちらの側まで汚してくる。
ゼノンはそれでも離れない。
「返れ」
低く呟く。
最初は何も起きない。
だが、さらに一歩だけ深く触れた瞬間、赤金の線の表面がぴり、と揺れた。横流しされていた一筋のうち、極細い一片だけが本来の環へ戻りかける。
その瞬間だった。
無色の空間の奥で、何かがこちらを見た。
「……っ!」
ゼノンの背筋が総毛立つ。
目ではない。
形もない。
それでも確かに、“偏流の先にいる何者か”が、今この瞬間こちらの介入を認識したと分かった。
セラフィナも同時に察したらしい。
「来る!」
空間が、ずれた。
上位座の背後にあった暗い一点が、突然こちらの真正面へ近づく。距離が縮んだのではない。空間の継ぎ目ごと捻じ曲げて、偏流の出口をこちらへ開いたのだ。
そこから、黒でも無色でもない“薄い人影”が滑り出てくる。
最初は輪郭しかなかった。
肩、腕、顔の線。
だが一歩ごとに質量を持ち始める。灰色の法衣。細い体。長い髪。女だ。年は若い。二十歳前後にも見える。
けれど、その顔には生気がなかった。
美しいとか整っているとか、そういう次元ではない。
人の顔をしているのに、そこへ“いま”の感情が何一つ宿っていない。瞳だけが深く、暗く、赤金の光を薄く映していた。
セラフィナが息を呑む。
「……嘘でしょ」
「知ってる奴か」
ゼノンが問うと、彼女は数秒遅れて答えた。
「記録でしか知らない」
「でも、あり得ない」
「封鎖局初期の……上位座接続実験の失踪者に、似てる」
その言葉が終わるより早く、女のような影が口を開いた。
『返流を確認』
『未承認の補正を検知』
『妨害者を排除します』
声は女のものだった。
だがその話し方は選定機構に近い。
感情がほとんどない。
「生きてるのか、あれ」
ゼノンが低く言うと、セラフィナは険しい顔で答える。
「分からない」
「でも、少なくとも“人だったもの”よ」
影が右手を上げる。
その指先から、赤金の線がいくつも広がった。
上位座の背後へ流れていた偏流そのものだ。それが鞭みたいにしなり、ゼノンとセラフィナの足元へ走る。
「下がって!」
セラフィナが白い格子を一気に引き絞る。上位座の前に張っていた観測枠が、今度は防壁へ変わる。赤金の鞭がそこへぶつかり、鈍い音を立てた。
だが防壁は一撃で罅割れた。
「硬っ……!」
セラフィナが歯噛みする。
「これ、ただの偏流じゃない」
「祈りそのものを固めてる!」
ゼノンは理解する。
返せるはずの流れを、一度“形”にして武器へ変えているのだ。
抱え込んで凝縮し、外へ吐き出す。
エルシオンがやろうとしていたことの、さらに先の使い方だった。
嫌な予感が胸を掠める。
あれは“器”だ。
しかも失敗作ではない。長い時間をかけて、上位座の偏流を受け続け、半ば受け手として固定されたもの。
「……エルシオンが欲しがってたのは、あれの再現か」
ゼノンが呟くと、セラフィナが答える。
「多分ね」
「でもあれは再現じゃない」
「多分、本物の“前任”よ」
前任。
その一言で、全身が冷えた。
上位座は不在だと選定機構は言った。
だが“不在”は消滅とは限らない。正式な受け手が壊れずに残ったまま、深層のどこかへ偏流の出口として組み込まれているなら――
目の前の女のような影は、その成れ果てかもしれない。
『返流器は不要』
『循環は既に代替済み』
『辺境第三区画は供給地として最適』
女の影がそう言った瞬間、ゼノンの中で何かが切れた。
供給地。
やっぱりそうだ。
辺境は最初から、あれにとって“流していい祈りの源”にされていた。
「……ふざけるな」
ゼノンの声は低かった。
怒鳴り声ではない。
それなのに空間の温度が少しだけ下がった気がした。
女の影は、感情のない瞳でこちらを見る。
『否定理由を要求』
「理由?」
ゼノンは一歩前へ出る。
「そんなもの、何度も言わせるな」
灰銀の線が足元で強く光る。
返流権が、今までよりずっと素直に応じた。上位座直下層に来たことで、自分の“通せる範囲”が広がっている。
「辺境は余白じゃない」
「供給地でもない」
「そこにいる連中が願ったものを、お前が勝手に吸って固めてる時点で、もう終わってるんだよ」
女の影は首を傾げる。
機械みたいな仕草だった。
『効率的』
『損耗は許容範囲』
『上位座の代替維持に必要』
その言葉に、ゼノンはもう笑うしかなかった。
「効率、許容、必要」
「お前ら、ほんとに同じことしか言わないな」
セラフィナが横から言う。
「ゼノン、感情で突っ込みすぎないで」
「相手は“会話”してるようで、実際には全部選定語彙よ」
「そこに飲まれると危ない」
「分かってる」
分かっている。
だが引く気もない。
ゼノンは女の影を睨み、足元の灰銀の線を辿る。
相手が偏流を凝縮しているなら、こちらはそれを“ほどく”しかない。
器へ固められた祈り。
それを元の流れへ戻す。
理屈としては灰白の中継核でやったことの延長だ。
だが規模が違う。触れれば、自分まで引っ張られる危険がある。
それでも、今ここでやらなければ。
「セラフィナ」
ゼノンが低く呼ぶ。
「何」
「あいつの背後、暗い一点が見えるか」
セラフィナが目を凝らし、すぐに答える。
「見える」
「偏流の出口」
「向こうにまだ本体がある」
「なら、その出口を固定できるか」
「一瞬なら」
「でもその間、あなたが直接触ることになる」
「そうだろうな」
セラフィナは一瞬だけ言い淀んだ。
そして小さく吐き捨てる。
「無茶する顔してる」
「今さらだろ」
「今だから言ってるの」
「上位座直下での接触は、灰白の中継核なんかより桁違いよ」
「触って戻れない可能性、普通にある」
普通にある。
ずいぶんさらっと言ってくれる。
だが、脅しではないと分かる。
セラフィナの流れは冷えているが、そこに嘘はない。
ゼノンは袋の木札をもう一度押さえた。
前の村。
北の集落。
ミラ。
戻ってきてと言った声。
全部を背負うつもりはない。
でも、ここで流れをほどく役にはなる。
「一瞬でいい」
「固定しろ」
セラフィナは舌打ちしそうな顔をして、それでも頷いた。
「三つ数える」
「その間に終わらせなさい」
「無茶言うな」
「そっちの台詞よ」
白金の線が、足元から立ち上がる。
セラフィナの周囲に白い環が幾重にも展開し、それが上位座の背後へ向かって重なっていく。偏流の出口――暗い一点の周囲に、薄い檻みたいな枠が組まれ始めた。
女の影が初めて、わずかに動揺したように見えた。
『第二節保持個体による干渉を確認』
『防衛を実施』
赤金の鞭が再びしなる。
だが今度はゼノンが先に動いた。
足場を蹴り、真正面から女の影へ踏み込む。鞭が肩を裂くように掠めた。痛い。だが止まらない。
「一!」
セラフィナが叫ぶ。
ゼノンは女の影の目前まで一気に詰めた。
近くで見ると、その顔は確かに人だった。長い年月で感情を削られ、器として均され、それでもなおどこかに“元の誰か”の残り滓が沈んでいる顔。
だから余計に、腹が立つ。
「返れ」
ゼノンは低く言い、女の影の胸元へ手を伸ばした。
触れた瞬間、冷たい海に腕ごと突っ込んだような感覚が走る。
深い。
暗い。
そして重い。
無数の祈りが、固められたままそこに沈んでいる。
前任の受け手とやらは、それを抱え続けて“ここ”になっていた。
「二!」
セラフィナの声。
女の影の瞳が初めて大きく揺れる。
機械みたいだった顔に、ほんのわずかだけ苦しみが走った。
『返流器による直接干渉を確認』
『不適切』
『排除――』
「三!」
白金の檻が、暗い一点を完全に囲む。
その瞬間、ゼノンは女の影の胸の奥にある“結び目”を掴んだ。
偏流の出口。
供給地として固定された辺境の流れ。
それを全部ここへ集めるための芯。
壊すのではない。
ほどく。
「お前一人に、こんな形で抱え込ませる必要なんかないだろ!」
怒鳴った瞬間、女の影の輪郭がひび割れた。




