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第33話 上位座直下層

 無色の境界を越えた瞬間、足元の感覚が消えた。


 落ちたのかと思った。

 だが次の瞬間には、ゼノンの靴裏へ静かな硬さが戻ってくる。石ではない。水でもない。光そのものが床の形を取っているみたいな、不安定なくせに崩れない足場だった。


 視界が開ける。


「……なんだ、ここは」


 思わず漏れた声が、異様に遠くまで響いた。


 そこは空洞ではなかった。

 空だった。


 夜空に似ている。

 けれど星はない。代わりに、無数の細い光の糸が頭上を横切っている。白、金、灰、淡い青。一本一本が、遠いどこかから伸びてきた祈りの線だと、ゼノンには直感で分かった。村、集落、王都、聖堂、迷宮、知らない街、知らない人々。世界のあちこちから立ち上る願いが、ここを通ってどこかへ送られている。


 地平のように広がる足元の床は、薄い水面にも見えた。

 覗き込めば、そこにもまた別の線が走っている。上から降ってきた光が、足元の透明な層へ落ち、そこで向きを変え、世界のどこかへ返っていく。上と下、流れの往復だけでできた空間だった。


 遠く、中央に一つだけ高い台座がある。


 白い。

 だが灰白の塔や祈りの間の祭壇とも違う。もっと簡素で、もっと巨大だ。椅子にも祭壇にも見える形。その背後には、大きな環がゆっくり回転している。環の中を、無数の祈りの線が出入りしていた。


「……あれが、上位座」


 セラフィナが低く呟く。


 彼女の声は強張っていた。

 ここまでずっと抑えていた警戒が、今やっと露わになったようだった。


 ゼノンは周囲を見回す。


 無色の境界は、もう背後にない。

 戻り道は見えなかった。

 代わりに、二人の足元からそれぞれ違う色の細い線が伸びている。ゼノンは灰銀、セラフィナは白金。その線は、中央の台座の手前で分かれ、ゼノンの線だけが台座の中心へ続いていた。


 それを見た瞬間、セラフィナが短く息を吐く。


「……やっぱり」


「何がだ」


「あなたしか、中枢の前まで行けない」


 ゼノンが眉をひそめる。


 改めて足元を見る。

 確かにセラフィナの白金の線は、台座のかなり手前で止まり、その先へは薄い膜のようなものが張っていた。見えない壁ではない。境界だ。“ここまで”という判断だけが、最初から形になっている。


「ふざけた話だな」


「同感よ」

 セラフィナは淡々と返す。

「でも、返流権を通されたのはあなただけ」

「私は多分、ここから先へは入れない」


 その時、空間全体へ静かな声が落ちた。


『上位座直下層へ到達を確認』

『返流器のみ、中枢前域への進行を許可』

『第二節保持個体は観測補助へ制限』


 感情のない声。

 だが今までより少しだけ“近い”。


 ゼノンは思わず舌打ちしそうになる。


「勝手に決めるな」


『決定ではなく、適合』

『返流器は通路であるため、中枢へ触れ得る』

『第二節保持個体は制御者であるため、中枢を固定化する危険が高い』


 セラフィナが乾いた笑みを浮かべた。


「嫌われてるみたいね」


「好かれたくもないだろ」


「まあ、それはそう」


 短いやり取りのあと、二人とも自然と黙る。


 上位座から流れてくる圧は、さっきまでの本鐘や選定機構と比べても別格だった。重いのに暴力的ではない。むしろ静かすぎて怖い。ここでは、何か一つ答えを間違えた時に、音もなく人間の輪郭が削られるのだと分かってしまう静けさだった。


 ゼノンは袋の中の木札を指先で押さえたまま、セラフィナを見る。


「観測補助って、何ができる」


「多分、あなたが流れに呑まれた時に、外から切る役」

「あるいは、あなたが触ったものをこちら側で記録する役」

「要するに補佐よ」


「頼りになるのか」


「この状況でそれ聞く?」


 もっともだった。


 ゼノンは小さく息を吐く。

 それから中央の台座へ視線を戻した。


 遠い。

 だが、歩けないほどではない。


 その途中、床の中に何かが沈んでいるのが見えた。光の流れではない。もっと輪郭がある。人影だ。いや、人影に見えるだけかもしれない。無数の祈りが堆積して、たまたま人の形を取った滓にも見える。


 足元の透明な層を覗き込んだ瞬間、そのうちの一つがこちらを見上げた。


 女の顔。

 次の瞬間には、老いた男の顔。

 また次には、子どもの顔。


 全部違うのに、目だけが同じだった。


 助けて、と言っている。


「見ない方がいい」

 セラフィナが低く言う。

「それは滞留の残像よ」

「中枢まで届かなかった願いが、ここで形だけ残ってる」


「届かなかった……?」


「全部が奇跡に変わるわけじゃない」

「通ったものもあれば、濾し落とされたものもある」


 その言葉に、ゼノンの胸の奥で何かが冷えた。


 奇跡にならなかった願い。

 救いに変換されなかった祈り。

 そんなものが、ここに沈殿している。


 上位座が“誰に奇跡を通すか決める場所”だとしたら、その影で落ちたものたちなのだろう。


 ゼノンは唇を引き結ぶ。


「……ますます気に入らないな」


「そういう顔は、向こうで出さない方がいい」

 セラフィナが言う。

「怒りは引っかかる」


「分かってる」


 分かっている。

 だが簡単に消せるものでもない。


 その時、頭上を走っていた光の線のうち一本が、ふいに強く脈打った。


 赤に近い金。

 見覚えのない線だ。

 だがその線だけが、上位座の背後の環へ吸い込まれるのではなく、どこか別の位置へ横流しされている。


 ゼノンは目を細める。


「……おい」


「何」


「今の見えたか」

「あの、右側へ逃げた線」


 セラフィナは目を凝らし、すぐに小さく息を呑んだ。


「見えた」

「本来の循環から外れてる」


「偏流か」


「ええ。しかも、かなり意図的な」


 つまり、上位座直下まで来てもなお、まだ誰かが流れを弄っている。

 エルシオンだけではない。

 もっと深いところに、もう一つ手がある。


 ゼノンはゆっくりと前へ一歩踏み出した。


 足元の灰銀の線が、それに合わせて静かに明るくなる。

 台座までの距離は縮まらないようでいて、確かに近づいていた。


『返流器へ告知』

『上位座は不在』

『ゆえに、代理演算を継続中』


 静かな声が落ちる。


 ゼノンもセラフィナも、同時に足を止めた。


「……不在?」


 ゼノンが低く繰り返す。


 声は淡々と続けた。


『正式受け手、不在』

『固定管理者、不在』

『ゆえに、選定・濾過・偏流調整は自律演算へ委譲済み』


 セラフィナの表情が初めて、はっきり崩れた。


「そんなの……聞いてない」


「誰もいないのに、こんな規模を回してたのか」


「違う」

 セラフィナはかすれた声で言う。

「本来なら“誰か”がいたはずよ」

「少なくとも封鎖局の古い記録では、上位座には歴代の受け手か管理者の痕跡があるって……」


「でも今はいない」

 ゼノンが言う。


 声は肯定も否定もせず、ただ告げた。


『不在状態、長期継続』

『自律演算は限界に近い』

『ゆえに継承候補を探索中』


 ぞっとするほど筋が通っていた。


 上位座に正式な管理者がいない。

 だから自律演算で無理やり回している。

 その結果、封鎖は継ぎ接ぎになり、偏流が増え、器を求めるようになった。


 壊れた仕組みが壊れたまま、それでも世界の裏で動き続けていたのだ。


「……誰もいないってことは」

 ゼノンはゆっくり言う。

「お前らが探してた“器”って、結局その空席に誰かを座らせるためか」


『概ね正解』


 静かな肯定。


 セラフィナが低く呟く。


「だから中央は再起動に執着した……」

「封鎖だけではもう保たないって、どこかで気づいてたのね」


「気づいてて、辺境で試したのか」


 ゼノンの言葉に、セラフィナは答えなかった。

 答えられないのだろう。


 その時、上位座の背後にある大きな環が、不意にわずかだけ逆回転した。


 ぎ、と世界そのものが軋むような音。


 右へ流れていた赤金の偏流線が、今度は二本、三本と増える。どれも本来の循環を外れ、上位座のさらに奥――空間の“裏”へ消えていく。


「また増えた」


 ゼノンが呟く。


「誰かがここから抜いてる」


 セラフィナが即座に返す。

「上位座の内部で、祈りの流れを横取りしてる」

「エルシオンより上よ。ここまで来てなお手を出せるなら、正式鍵か、それに準ずる何かを持ってる」


 ゼノンは無色の台座を睨みつけた。


「そいつが、今の元凶か」


『偏流主因の一部』

『返流器へ任務を提示』

『選定ではなく、是正を実施せよ』


「是正、ね」


 ゼノンは吐き捨てるように言う。


 選定され、器にされるのではない。

 是正しろと命じられる。


 言い方は違うが、結局は“手を入れろ”という話だ。

 ただし今の自分には、少なくとも一つだけはっきりした違いがあった。


 器として座るのではなく、返流器として通す。

 全部を抱え込まない。

 それが、さっき選定機構へ通した定義だ。


 なら、やるべきことも少しは見える。


「セラフィナ」


「何」


「あの偏流線、追えるか」


 彼女は目を細め、環の向こうを見た。


「単独では無理」

「でもあなたの返流権と私の第二節を重ねれば、偏流の抜け道くらいなら見つけられるかもしれない」


「やり方は」


「簡単じゃない」


「いつものことだ」


 セラフィナは短く息を吐いた。

 それから、初めて少しだけ人間らしい疲れた笑みを見せる。


「上位座の前で、よくその台詞が言えるわね」


「言わないと足が止まる」


「それもそう」


 短い沈黙。


 上位座の背後で、偏流線がまた一本増えた。

 放っておけば、辺境第三区画のどこかでまた歪みが出る。前の村かもしれない。別の知らない村かもしれない。


 ゼノンは木札を握ったまま、無色の台座へ向かってさらに一歩進んだ。


 足元の灰銀の線が応える。

 返流権が、行けると告げていた。


「やるぞ」


 ゼノンが言う。


 セラフィナも頷き、白金の線の端に立つ。


「あなたが返す先を開く」

「私が制御の枠を作る」

「でも、偏流の源に触れた瞬間、向こうもこっちを認識する」


「つまり」


「本当に、相手に見つかる」


 その一言が、静かな上位座の空間で妙に重く響いた。


 今までは、壊れた仕組みの痕跡を追ってきただけだ。

 だがここから先は違う。

 上位座の内部で、今この瞬間も流れを横取りしている“誰か”へ、こちらから直接手をかけることになる。


 ゼノンはゆっくりと息を吐いた。


 怖い。

 当然だ。


 だが、怖いから止まるには、ここまで知りすぎた。


「……なら、見つかる前に掴む」


 ゼノンの低い声に、無色の空間が静かに揺れた。

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