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第26話 本鐘の下へ

 祭壇の裏に隠れていた縦穴は、まるで最初からそこに口を開けていたみたいに静かだった。


 半ばずれた石板の向こうへ、黒い穴がまっすぐ落ちている。壁面に埋め込まれた金の導路が細く光り、その脇を鉄とも石ともつかない灰色の梯子が下へ伸びていた。上から覗き込んでも底は見えない。ただ、深いところから低い鐘の振動だけが、規則正しく上ってくる。


 ごうん――

 ごうん――


 灰白の塔や谷で聞いた音より、さらに重い。


 もう“鐘のような音”ではなかった。

 鐘そのものだ。

 しかもそれは、誰かが意図して鳴らしている。


 ゼノンは縦穴の縁へ近づき、胸の奥の熱を確かめた。


 反応が強い。

 祈りの間より、さらに濃い。ここから下では、流れはもう“通っている”のではなく、“渦になっている”としか思えなかった。人の願い、恐れ、執着、救いを求める声。その全部が、底の一点へ向かって吸い寄せられている。


「……気分のいい場所じゃないな」


 吐き捨てるように言うと、セラフィナが隣で白い灯を掲げた。


「深層に近いほど、そうなる」

「ここから先は、祈りの形がもう人の言葉に収まらない」


「分かりやすく言え」


「見たら嫌でも分かるわ」


 可愛げのない返答だった。


 ゼノンは祭壇の周囲へ視線を走らせる。リオヴェルが崩れて残した白い粉。砕けた白杭。古代文字の刻まれた座。どれも、この上層だけでも十分に危険だったことを示している。


 そのさらに下。


 正気のまま戻れる保証は、たぶんどこにもない。


「セラフィナ」


 ゼノンが低く呼ぶと、女は振り向いた。


「何」


「本鐘を止めたら、全部終わるのか」


 セラフィナは少しだけ黙った。


 それだけで、答えは半分見えた。


「……“全部”が何を指すかによるわ」

「第六座標の呼び声は弱まる」

「辺境第三区画の偏流も、かなり落ち着くはず」

「でも上位座そのものが完全に止まるかは別」


「根はもっと先か」


「多分ね」


 ゼノンは鼻で笑いそうになる。


 やっぱりそうだ。

 ここを越えても、まだ先がある。

 だが、だからといって今ここを放置する理由にはならない。少なくとも、第六座標と辺境第三区画を縛っているこの本鐘は止めなければならない。


 さっきリオヴェルが命懸けで残した情報が本当なら、今いちばん現実的に壊せるのはここだ。


「下りるぞ」


 ゼノンが言うと、セラフィナは短く頷いた。


「先に言っておく」

「本鐘の間では、音で意識を持っていかれるかもしれない」

「聞こえたものを“意味”として取らないで」

「返事もしない、反論もしない、慰められても乗らない」


「ずいぶん細かいな」


「必要だからよ」

「深層に近い音は、もう言葉じゃなくて接続に近いの」


 ゼノンは木札を袋の上から軽く押さえた。


「……分かった」


 セラフィナが先に梯子へ足をかける。


「順番は私が先」

「落ちた時、下にあなたがいると困る」


「縁起でもないな」


「縁起で済めば楽なんだけど」


 そうして二人は、縦穴の底へ下り始めた。


 梯子は思った以上に長い。


 白い灯の明かりは上下の壁しか照らさず、底の様子はまだ見えない。だが下へ行くほど鐘の振動は強くなり、手をかける梯子そのものがびりびりと細かく震えていた。風はなく、代わりに音だけが肌へまとわりつく。


 ごうん――

 ごうん――


 その合間に、微かな囁きが混じる。


『たすけて』

『こっちへ』

『まにあわない』

『お前しかいない』


 ゼノンは目を閉じたくなる衝動をこらえ、ただ一段ずつ足を下ろした。


 聞くな。

 意味を取るな。


 そう頭では分かっている。

 だが声は、こちらの弱いところを正確に探ってくる。


『お前がいれば救えた』

『もっと早ければ』

『捨てられたままで終わるのか』


 前世のこと。

 勇者パーティを追放された時のこと。

 辺境の村で死にかけていた人たちのこと。


 全部を都合よく混ぜて、耳元で囁いてくる。


 ゼノンは歯を食いしばった。


 その時、上から小さな木片が胸へ当たる。

 袋の口から少し出ていた木札が、梯子の揺れで跳ねたらしい。


 そのわずかな感触だけで、意識が少しだけ自分の側へ戻る。


「……ほんとに効くのかよ、これ」


 思わず漏らすと、先を下っていたセラフィナが聞き返した。


「何か言った?」


「独り言だ」


「そう。ならまだ大丈夫ね」


 どこまで聞こえているのか分からない返しだった。


 やがて、足元に床が見え始めた。


 白い灯が広がり、底の空間が輪郭を持つ。

 そこは、祈りの間よりさらに広い円形の大空洞だった。天井は高く、中央の吹き抜けを囲むように何段もの足場が円を描いている。その一番下、底の中央に――本鐘はあった。


 巨大だった。


 聖堂の天井に吊るされていた鐘とは比べものにならない。横倒しではなく、黒灰色の架台に垂直に固定され、その表面を無数の金の導路と白い術式線が覆っている。鐘というより、巨大な臓器だ。鳴るたびに表面の文字が脈打ち、周囲の空気ごと震わせる。


 その前に、一人の男が立っていた。


 長身。

 細身の黒衣。

 肩から胸へかけては灰銀の装甲が沿うように付いている。法衣というより、儀礼と戦装束を混ぜたような異様な服だ。背を向けていても分かる。空気がその男を中心に張りつめている。


 そして男の右手には、長い銀杖が握られていた。

 杖の先端は、本鐘の表面に埋め込まれた鍵座へ差し込まれている。


 鐘を鳴らしているのは、そいつだった。


 セラフィナが小さく息を止める。


「……エルシオン」


 男が、ゆっくり振り返った。


 年は三十代前半ほどか。整った顔立ちだが、目元にだけ疲労の影が濃い。けれどその瞳は静かで、冷たく、少しも揺れていなかった。セラフィナを見、次にゼノンを見て、最後にその袋のふくらみ――木札か、鍵か、結晶か、そのどれかを見抜くように視線を止める。


「やはり来たか」


 穏やかな声だった。

 穏やかすぎて、かえって不気味だった。


「灰白が落ちた時点で予想はしていた。セラフィナが動くことも、第一節がここまで辿ることも」


 ゼノンは足場の縁へ降り立ち、男を睨む。


「待ってたのか」


「半分は」

「もう半分は、来る前に終えるつもりだった」


 エルシオンはそう言って、杖の先をわずかにひねる。


 ごうん、と本鐘がまた鳴る。


 今度の振動はさっきまでと比べものにならなかった。足場の石が軋み、壁を走る導路が一斉に光を返す。鐘の表面から、薄い霧みたいな光が吹き上がり、空洞の上へと流れていく。


「辺境第三区画の主導路、第四分岐から第六分岐まで再接続中だ」

「あと少しで安定する」

「そうすれば、崩れかけていた封鎖は持ち直す」


 セラフィナが低く言う。


「持ち直す? そのために辺境を削って?」


「一時的な偏流だ」

 エルシオンは平然と答えた。

「切るべきものを切り、残すべきものを残せばいい」


 その物言いに、ゼノンの胸の奥で熱がざらりと荒れた。


 またそれだ。


 大きいものを守るために小さいものを切る。

 必要な犠牲。

 優先順位。

 理屈の顔をした切り捨て。


「で、その“切るべきもの”が辺境の村ってわけか」


 ゼノンが吐き捨てるように言うと、エルシオンは少しだけ目を細める。


「感情で話すな、第一節」

「お前もここまで来たなら分かるだろう。原初導路は放置しておける規模じゃない」

「止めれば崩れる。動かせば偏る」

「なら、どこかに負荷は集中させるしかない」


「だから辺境でいいと?」


「違う」

「辺境“から始める”のが合理的だと言っている」


 その言葉に、空気が凍る。


 セラフィナの表情がはっきりと歪んだ。

 ゼノンはもう笑いそうになる。

 あまりに想像通りで、反吐が出るほど想像通りだったからだ。


「合理的、ね」


 ゼノンは一歩、足場の中央へ進む。


「お前ら中央の連中は、ほんとにその言葉が好きだな」


 エルシオンは否定しない。


「好む好まないではない。必要だから使う」

「この世界の表層は、封鎖の上に立っている」

「教会も、王都も、勇者も、すべてその上で安定している」

「なら、まず守るべきはそこだ」


 勇者。

 その単語に、ゼノンの目がわずかに細まる。


 こいつは知っている。

 聖教会の中央にいる以上、勇者パーティや迷宮攻略の情報まで把握していてもおかしくはない。


「辺境はそのための土台だと?」


「違う」

 エルシオンは静かに言う。

「土台ですらない。余白だ」

「削っても全体に即座の破綻をもたらさない領域」


 その一言で、ゼノンの中の何かが静かに切れた。


 余白。


 村も、人も、そこで生きている人間の命も、こいつにとっては“削ってもすぐ困らない余白”でしかない。


 怒鳴りたいわけじゃない。

 激情に任せて殴りかかりたいわけでもない。

 ただ、ひどく澄んだ怒りが胸の奥に沈んでいくのを感じた。


 セラフィナが低く言う。


「エルシオン、それ以上は言い訳にもならない」


「言い訳の必要はない」

「結果だけ見ればいい」

「本鐘が安定すれば、第三区画の封鎖は再び保つ。お前たちが止めた灰白中継核も、再調整すれば生きる」

「辺境の損耗は数年単位で回復する」


「数年?」

 ゼノンが笑った。

 笑ったはずなのに、自分でもひどく冷たい声だと思った。


「お前、それを村で飢える連中の前で言えるのか」


「言わない」

 エルシオンは即答した。

「理解されないからだ」


 その傲慢さに、セラフィナですら一瞬言葉を失う。


 鐘がまた鳴る。

 ごうん、と。

 その響きの中で、ゼノンははっきりと理解した。


 こいつは壊れている。

 灰白の男やリオヴェルみたいに、原初の流れに焼かれて壊れたのではない。

 もっと前から、人の命を数字と構造へ置き換え続けた結果として、別の意味で壊れている。


 そして、その壊れ方は教会そのものとよく似ていた。


「……セラフィナ」


 ゼノンが視線を逸らさずに呼ぶ。


「何」


「本鐘を止めれば、こいつの再接続も切れるんだな」


「ええ」

「ただし、杖に入ってる正鍵を外さないと本鐘は止まらない」

「無理やり壊せば、ここ一帯の導路が吹き飛ぶ」


 エルシオンが初めて、少しだけ口元を歪めた。


「理解が早くて助かる」

「だから手を引け、ゼノン」

「第一節を持つなら、お前もいずれ分かる」

「村一つ、集落一つを守るために全体を崩す方が、よほど愚かだと」


 ゼノンは何も答えない。


 ただ、木札の入った袋を一度だけ押さえる。

 前の村。

 北の集落。

 ミラ。

 井戸の底で聞いた「たすけて」。

 焚き火の夜に返した祈り。

 それら全部が、いま胸の奥で静かに並んでいた。


 村一つ。

 集落一つ。

 その一つ一つを余白だと言い切る相手に、もう言葉で返す気はなかった。


 エルシオンの杖が、本鐘に深く差し込まれている。

 正鍵。

 それを外さなければ止まらない。


 ゼノンは足元の導路へ意識を落とした。


 本鐘へ流れている線。

 エルシオンの杖を通って制御されている線。

 そしてセラフィナの持つ正鍵と、自分の第一節が触れられる余地。


 奪うな。

 喰らうな。

 止めろ。


 ゆっくりと、胸の奥の熱が形を持ち始める。


 鐘の音がまた鳴った。

 ごうん、と。


 その瞬間、ゼノンは一歩踏み出した。

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