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第27話 余白ではない

 ゼノンが一歩踏み出した瞬間、本鐘の表面を走っていた白い術式線が一斉に脈打った。


 ごうん、と重い音。

 直後、床の導路から白い光の輪が立ち上がり、足場の外周を這うように走る。エルシオンは杖を本鐘へ差し込んだまま、わずかに手首を返しただけだった。


「言葉で止まらないなら、構造で止めるしかないか」


 穏やかな声。

 だが、その穏やかさの奥にあるものは、もはや人間の体温ではなかった。


 白い輪がゼノンの足元まで迫る。

 神授術式の拘束陣だと直感した。しかも普通の神官が使うものよりはるかに強い。封鎖管理局の連中が深層用に調整した術式だろう。捕まれば、そのまま本鐘の前へ引きずられる。


「ゼノン、右へ!」


 セラフィナの声が飛ぶ。


 ゼノンは即座に床を蹴った。白い輪がついさっきまで立っていた場所を掠め、石の足場を音もなく削り取る。遅れて、削られた縁から白い粉がぱらぱらと落ちた。


「拘束だけじゃないのかよ」


「深層用よ」

 セラフィナはすでに腰の銀杭を二本抜いていた。

「捕縛と切断が同時に来る。触るな!」


 言いながら、彼女は杭を左右へ投げる。白い光を引いた杭が足場の両端へ突き刺さり、本鐘へ伸びていた白線の一部をわずかにずらした。エルシオンの拘束輪が、その瞬間だけ角度を失う。


 ゼノンはその隙間へ身体を滑り込ませた。


「……息は合ってるな」


「不本意だけどね!」


 セラフィナが吐き捨てる。


 エルシオンはそれを見ても表情を変えなかった。


「封鎖局同士で殺し合う趣味はない」

「セラフィナ、お前は退け」

「第一節は私が使う」


「お断りよ」


「そうか」


 短い応答。

 次の瞬間、本鐘の内側から白い霧が吹き出した。


 鐘の表面に刻まれた古代文字が、一列ずつ明るさを増していく。ごうん、ごうん、と間隔の短くなった鐘の響きに合わせて、空洞じゅうへ声が広がる。


『たりない』

『もたない』

『うつせ』

『うつせ』


 祈りの滞留ではない。

 もっと飢えた、もっと直接的な要求だった。


 ゼノンは思わず眉をしかめる。


「これが本鐘の声か」


「半分はね」

 セラフィナが答える。

「もう半分は、エルシオンが接続してる“向こう側”よ」


 向こう側。

 上位座か、それに類する何か。


 エルシオンが静かに言う。


「本鐘は器を欲している」

「流れを通すには受け手が要る」

「灰白もリオヴェルも足りなかった」

「だが、お前なら届く」


「だから差し出せって?」


「違う」

「理解しろ、と言っている」


 その言葉に、ゼノンの胸の奥で熱がざらりと波打つ。


 理解。

 合理。

 必要な犠牲。


 全部同じだ。

 切り捨てる側の言葉だ。


「……分かるわけないだろ」


 ゼノンの声は低かった。


「余白だの、損耗だの、誤差だの」

「お前らはずっとそうやって、人の命を数の外へ置いてきた」


 エルシオンは杖を握ったまま、ほんの少しだけ首を傾げる。


「それで全体が保つなら、正しい」

「お前も第一節を得た時点で、その入口へ立っているはずだ」

「祈りの流れを知ったなら分かるだろう。すべてを等価には扱えない」


「扱えないことと、切り捨てていいことは違う」


 言い返した瞬間、本鐘が強く鳴った。


 ごうん――!


 今度の音は、空気だけではなく、ゼノンの胸の奥へ直接叩き込まれる。視界がぐらりと揺れた。足場の石が柔らかく歪み、目の前に別の光景が重なる。


 枯れた畑。

 井戸の底で熱にうなされる子ども。

 前世の白いオフィス。

 勇者ユリウスの横顔。

 “お前はもう要らない”という声。


『お前は救えなかった』

『足りなかった』

『だからこちらへ来い』


 耳元ではなく、頭の内側から響く。


 ゼノンの足が一瞬、止まる。


 そこへ白い拘束輪が迫った。


「ゼノン!」


 セラフィナの声と同時に、白杭が一本、ゼノンの足元へ突き刺さる。光の輪がほんのわずかに弾かれ、拘束が逸れる。その隙にゼノンは歯を食いしばって横へ転がった。


 呼吸が荒い。

 視界の端でまだ幻がちらつく。


「っ……くそ、面倒な真似を……!」


「本鐘の音に正面から意味を与えちゃ駄目!」

 セラフィナが叫ぶ。

「“事実”として受け取ると、そこから引きずられる!」


「分かってる、けどな……!」


 本鐘の音は厄介だった。

 ただの精神攻撃じゃない。こちらが持っている痛みや後悔へ、勝手に輪郭を与えて突きつけてくる。否定しきれないからこそ強い。


 エルシオンが杖を軽く持ち上げる。


「もう気づいているはずだ、ゼノン」

「お前は向いている」

「祈りに触れ、分流を扱い、器となる条件を揃えつつある」

「辺境の小さな救済で終わる器じゃない」


 その言葉に、ゼノンの中で別の苛立ちが生まれる。


 向いている。

 器。

 もっと多くを救える。


 そういう言葉は、甘い。

 救いの形をしているくせに、最後には人を手段へ変える。


「……だから嫌なんだよ」


 ゼノンはゆっくり立ち上がった。


「そうやって“正しそうな言葉”で包むところが」


 本鐘の声はまだ続いている。

 足場も揺れている。

 エルシオンは冷静だ。

 状況だけ見れば不利だった。


 それでもゼノンは、胸の奥へ意識を沈めた。


 本鐘へ向かう流れ。

 エルシオンの杖を通る制御。

 セラフィナの白杭が作ったずれ。

 その全部を、一つずつ捉える。


 奪うな。

 喰らうな。

 応えろ。


 灰白の中継核でやったことを思い出す。

 焚き火の夜に、村人たちへ祈りを返した感覚を思い出す。


 本鐘が集めているのは祈りだ。

 なら、その流れを“受け手ひとつへ集める”のではなく、“元の線へ散らす”ことができればいい。


「セラフィナ!」


「何!」


「お前の杭で、本鐘の外周四点を固定できるか!」


 セラフィナの目が一瞬だけ鋭くなる。


「できるかじゃない、やるしかないって顔ね」


「答えろ」


「できる! でも四本じゃ一瞬よ!」


「一瞬で十分だ!」


 エルシオンが初めて、わずかに眉を動かした。


「何をする気だ」


「お前が嫌がることだよ」


 吐き捨てると同時に、セラフィナが動いた。


 銀杭が一、二、三、四。

 白い灯を引きながら、本鐘の周囲の足場へ突き刺さる。杭と杭のあいだに、薄い四角い膜が立ち上がった。一瞬だけ、本鐘へ流れ込んでいた白い術式線が乱れる。


 今だ。


 ゼノンは足場を蹴り、本鐘の真正面へ飛び込んだ。


 エルシオンの杖が動く。

 白い拘束輪が横から来る。

 だが、本鐘へ固定を入れたせいで、ほんの一拍だけ反応が遅れた。


 ゼノンはその一拍へ全部を賭け、鐘の表面へ手を叩きつけた。


 冷たくて、熱い。

 そして重い。


 無数の祈りが、行き場を失って渦になっている。

 辺境から吸われたものだけじゃない。もっと古く、もっと前からここへ溜まっていた願いまで混ざっている。


 普通なら飲まれる。


 でも――


「お前一つで持つ必要なんかないだろ」


 ゼノンは低く言った。


「最初から、流れるためのものなんだからな」


 胸の奥の第一節が脈打つ。

 灰白中継核の結晶が袋の中で震える。

 第二分流点の制御権が遠くで応える。


 そして木札が、掌の下で小さく鳴った気がした。


「戻れ」


 その一言とともに、ゼノンは本鐘の中に渦巻いていた流れへ“出口”を作った。


 上位座へ一本化されていた道ではない。

 辺境第三区画へ散っている細い線。

 井戸、分流点、村、集落。

 そこへ繋がる元の経路へ、無理やり押し戻す。


 本鐘が、悲鳴みたいに鳴った。


 ごうん――!!


 さっきまでの低い共鳴とは違う。

 苦しげな、裂けるような音だった。


「何をした!」


 エルシオンが初めて声を荒げる。


「散らしてるだけだ!」

 ゼノンも怒鳴り返す。

「お前みたいに、上だけに寄せるためじゃない!」


 本鐘の表面を走っていた白い術式線が、一本、また一本と切れていく。代わりに古代の金筋が明るさを取り戻し、鐘の側面から四方へ細い光が弾ける。


 辺境へ戻る流れだ。


 エルシオンは即座に杖を抜こうとする。

 だが遅い。


 セラフィナがその隙を逃さなかった。


 白い刃みたいに凝縮した術式を掌にまとわせ、エルシオンの腕へ叩き込む。男の手から杖がわずかに浮いた。


「ゼノン、今!」


「分かってる!」


 ゼノンは本鐘から片手を離し、もう一方の手で杖の柄を掴んだ。


 重い。

 ただの杖じゃない。正鍵と制御系そのものが一体化したような感触だ。


 エルシオンの瞳が初めて大きく揺れた。


「離せ」


「お断りだ」


 力任せでは抜けない。

 なら、流れを切る。


 ゼノンは杖と本鐘の接続部へ意識を集中させた。そこには、エルシオンの制御と本鐘の飢えが噛み合ってできた“太い管”がある。それを、上位へ送る道ではなく、分散させる道へ変える。


「――ほどけろ!」


 ばきん、と硬いものが割れる音がした。


 杖が抜けた。


 同時に本鐘の共鳴が途切れ、足場全体を満たしていた重圧が一瞬だけ消える。エルシオンがよろめき、セラフィナがその胸を突き飛ばした。男は数歩後退し、足場の縁ぎりぎりで踏みとどまる。


 ゼノンの手の中には、銀の杖――正鍵が残っていた。


 鐘はまだ完全には止まっていない。

 だが鳴り方が変わった。


 ごうん、ではなく、かすかな余震みたいな震えだけになっている。吸い上げる音ではない。何か大きな流れが、行き先を失って揺らいでいる音だ。


 ゼノンは荒い呼吸のまま、杖を握りしめる。


 エルシオンは足場の向こうで体勢を立て直し、初めてあからさまな敵意を目に浮かべた。


「……やるな」


 穏やかさは消えていた。


「第一節にしては、だが」


 その言葉とともに、男の足元の導路が黒く沈む。


 違う。

 白でも金でもない。

 もっと深い色。

 本鐘のさらに下、深層へ直結する流れだ。


 セラフィナが息を呑む。


「ゼノン、下がって!」


「何だ、あれ」


「エルシオン、自分で深層に接続する気よ!」


 その瞬間、本鐘の足元の床がひび割れた。

 下から、黒い光が噴き上がる。


 さっきまでの白い霧とも、金の導路とも違う。

 祈りが長く沈殿しすぎて、もう色を失ったみたいな闇だった。


 エルシオンはその闇の中で、静かに笑った。


「器が来ないなら、こちらから寄せればいい」

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