第25話 祈りの間
通路の空気は、さっきまでより明らかに重くなっていた。
祈りの滞留層を越えてからというもの、壁に刻まれた文字の密度が増えている。灰白石の表面に、聖典には存在しない古代文字が何層にも折り重なり、その隙間を細い金の導路が血管みたいに走っていた。足元の石も、ただの床ではない。踏み込むたび、ごく微かに脈打つような反発がある。
ゼノンは木札を握ったまま、足を速めた。
器。
受け手。
蓄えられた祈りが流れ込む先。
その言葉が、頭の奥で嫌な残響を引いている。
自分が第一節に触れた時から、何度も感じてきたことだった。祈りはただ漂うだけでは終わらない。流れは必ず、どこかへ集まる。集まったものは、何かに宿る。そうでなければ奇跡として現れない。
だから禁忌なのだと、ようやく腑に落ちた。
祈りそのものを力に変えるなら、最後にはそれを受ける“人”が必要になる。
神ではなく、人が。
「止まって」
前を行くセラフィナが、突然低く言った。
ゼノンも反射的に足を止める。
通路はそこで終わっていた。
正面の壁が崩れ、その先に大きな空間が見えている。だが自然崩落ではない。壁を塞いでいたはずの石板が、外側から砕かれていた。縁には白い術式焼けの痕が残り、灰白の塔で見たような現代の封鎖術式が無理やり剥がされた跡がある。
「誰かが先に開けてる」
ゼノンが低く言うと、セラフィナが頷いた。
「ええ。しかも一度や二度じゃない」
「迷わずここまで来てる」
床に視線を落とせば、白い粉の上に新しい足跡が残っていた。二人分。いや、三人分かもしれない。靴底の違う跡が乱れている。そのうちの一つは、途中から引きずるように崩れていた。
「灰白の男とは別だな」
「多分。歩幅が違う」
ハッとしたようにゼノンがセラフィナを見る。
「お前、足跡まで覚えてるのか」
「覚えてるわよ。そういう仕事だもの」
相変わらず可愛げのない言い方だ。
だが頼もしいのも事実だった。
ゼノンは崩れた壁の向こうを覗き込む。
そこが“祈りの間”だった。
広い。
灰白の塔の中継核の間より、さらにひと回り以上大きい。天井は高く、半円状のドームがかろうじて残っている。そこから垂れ下がるように、大小無数の鐘が鎖で吊られていた。鐘はどれも鳴っていない。だが風もないのに、かすかに揺れている。揺れるたび、音にならないほど低い共鳴が空間全体へ広がる。
床は段状になっていた。
外縁から中央へ向かって、円形に一段ずつ下がっている。その一番奥、底にあたる場所に、白い祭壇があった。
いや、祭壇というより座だ。
人が一人、膝をついて祈るのにちょうどいい高さ。表面には掌を置く窪みがあり、その周囲を同心円状の文様が取り巻いている。井戸の底の祭壇、灰白の中継核、第二分流点――それら全部の起点みたいな形だった。
そして祭壇の足元には、倒れた人影があった。
「……っ」
セラフィナが息を呑む。
ゼノンも視線を細める。
人影は法衣姿だった。外套の色こそ違うが、肩の印はセラフィナや灰白の男と同じ。三本線を円で囲った印。中央封鎖管理局の系統だ。
だが、その身体はもう半分ほど石と光に変わっていた。
下半身から腰までが白い結晶みたいに硬化し、胸のあたりには金の筋が幾重にも走っている。顔だけは辛うじて人間の形を残していたが、目は開いたまま虚空を見つめ、その口元には乾いた血ではなく白い粉がこびりついていた。
「先行した奴か」
ゼノンが言う。
セラフィナは答えない。
代わりに、ゆっくりとその人影へ近づいた。警戒は解かないまま、けれど足取りには迷いがない。倒れた男――いや、若い男だった――の胸元から金属票を引き抜く。
「……リオヴェル」
「深層観測補佐」
初めて、セラフィナの声にわずかな感情が混じった。
「知ってる奴か」
「同じ班じゃない。でも顔は知ってる」
「ここまで来たのね」
知り合いの死体を見ても、泣きもしない。
だが、だからといって何も感じていないわけでもなさそうだった。
ゼノンは祭壇から目を離さないまま問う。
「何をした」
セラフィナは周囲を見回す。
祭壇の外周には、現代の術式杭が四本打たれていた。だがどれも途中で砕け、逆流したように黒く焼けている。さらに、その中央――祭壇の窪みには乾いた血がわずかに残っていた。
「適合しようとした」
セラフィナが低く言う。
「自分を器にするつもりで」
「でも、耐えきれなかった」
ゼノンは木札を握る指に力を込める。
器。
さっき壁にあった文の意味が、嫌というほど具体化した。
深層へ蓄えられた祈りを流すための受け手。
その役を、こいつは自分でやろうとした。
そして途中で壊れた。
祭壇の上の鐘が、ひとつだけ微かに揺れる。
ごうん、と低い音が鳴った。
その途端、祈りの間じゅうに淡い光が走る。床の同心円文様が一斉に明るくなり、ドームの鐘の内側に刻まれた文字が浮かび上がった。聖典にない古代文字。それでも、ゼノンには読める。
『受け手未完』
『流れは滞留中』
『適合個体を再探索』
胸の奥が、どくん、と重く跳ねた。
「……見つかったな」
ゼノンが吐き捨てるように言うと、セラフィナの視線がすぐにこちらへ向いた。
「第一節を持つあなたがここへ立った時点で、候補にされるのは当然よ」
「嬉しくない話だ」
「私も同意する」
祭壇の足元で倒れていたリオヴェルの身体が、かすかに軋んだ。
ゼノンもセラフィナも、同時に身構える。
死体ではなかった。
白く硬化した身体の奥で、わずかに光が走る。砕けかけた喉から、ひび割れた声が漏れた。
「……遅い……」
さっき崩聖堂の奥から聞こえた声とは違う。
これは、目の前のこいつ自身の声だ。
「リオヴェル?」
セラフィナが低く呼ぶ。
男の瞳が、焦点の合わないままわずかに動いた。
「セラ……フィナ……?」
「なんで……来た……」
「後始末に」
容赦のない返答だった。
リオヴェルは苦笑したように見えたが、それも顔面に走る光で引きつっただけかもしれない。
「無理……だ」
「もう……半分……向こう側だ……」
向こう側。
その言い方に、ゼノンは眉を寄せる。
「誰が先に入った」
短く問うと、リオヴェルの目がゆっくりとゼノンへ向いた。
「適合……者」
「そうか……やっぱり……来た……」
「質問に答えろ」
「……主任が」
「監査……主任……エルシオン……」
「上位座を……開いた……」
「俺は……器の補助を……命じられて……」
主任。
エルシオン。
初めて、敵の名が出た。
セラフィナの顔がわずかに強張る。
知っている名なのだろう。
「エルシオンがここにいるのか」
リオヴェルは喉を鳴らす。
それが頷きなのか苦しみなのか、判別がつかない。
「下……」
「もっと……下……」
「上位座……の……直下……」
「でも、もう……戻れない……」
祭壇の周囲の文様が、ひときわ強く光った。
次の瞬間、ゼノンの耳へ無数の声が一斉に流れ込む。
『足りない』
『まだ』
『受け手を』
『流せ』
『満たせ』
深層そのものが、リオヴェルを通じて喋っているみたいだった。
「ちっ……!」
ゼノンは思わず一歩下がる。
だが祭壇の文様は、下がったくらいでは許さない。第一節へ反応し、まっすぐこちらへ意識を伸ばしてくる。喰らうな、と頭では分かっていても、足元の流れがこちらを“座の中心”へ引こうとする。
セラフィナが素早く白杭を一本投げた。
杭は祭壇の縁に突き刺さり、白い膜を一瞬だけ張る。
「ゼノン、離れて!」
「分かってる!」
言い返しながらも、ゼノンは完全には動けなかった。
祭壇の窪みが、自分の手の形に合うことを知ってしまったからだ。
井戸の底の祭壇に触れた時と同じ感覚。
いや、それ以上だ。
ここが本体に近い。
ここでなら、全部の流れが見える。
全部を掴める。
そういう危険な確信が、頭のどこかであまりにも自然に湧いてくる。
その瞬間、リオヴェルが喉を震わせて叫んだ。
「触るな!」
ひび割れた絶叫だった。
「触れたら……お前も……持っていかれる……!」
その声だけは、深層のざわめきではなく、確かに本人のものだった。
ゼノンははっとして足を止める。
リオヴェルの顔はもう半分以上、人のものではない。
それでもその目には、遅すぎる警告の色があった。
「……じゃあどうしろって言うんだ」
ゼノンが吐き捨てるように言うと、リオヴェルは荒い息の合間に答えた。
「鐘を……止めろ……」
「上の鐘じゃない……」
「下の……本鐘を……」
「エルシオンは……それを……鳴らし続けてる……」
「本鐘?」
セラフィナが眉をひそめる。
リオヴェルはもはや視線も定まらないまま、それでも続けた。
「祈りの間は……前室だ……」
「本鐘が……深層を……呼んでる……」
「止めないと……器は……何度でも……求められる……」
そしてその直後、リオヴェルの身体が大きく痙攣した。
祭壇の文様が一斉に白く光る。
ゼノンは反射的にセラフィナの方へ飛んだ。次の瞬間、リオヴェルの胸から伸びた金の筋が、祭壇へ吸い込まれる。人の形を保っていた残り半分が、音もなく崩れ、白い粉へ変わった。
静寂。
残ったのは、祭壇の縁に散った粉と、中央に落ちた小さな金属片だけだった。
セラフィナがそれを拾い上げる。
深層用の認証片らしい。だが表面はひび割れ、もう半分ほど機能を失っているようだった。
「死んだのか」
ゼノンが問うと、セラフィナは小さく首を振る。
「半分以上は、もうさっきまでに死んでた」
「今のは……残っていた流れまで持っていかれたのよ」
ゼノンは祭壇を見下ろす。
器を求める座。
流れを滞留させる間。
その先にある、本鐘。
そして深層で何かを鳴らし続けているエルシオン。
敵の輪郭が、ようやく見え始めていた。
「……つまり、まだ下があるんだな」
セラフィナが、崩れた祭壇の奥を見た。
血の残っていた窪みのさらに向こう、祭壇の裏側に、半ば石板で隠された縦穴が見える。今の閃光で石板が少しずれたらしい。そこから、下へ続く鉄とも石ともつかない梯子が伸びていた。
「ええ」
「多分、あれが本番」
鐘が、天井でひとつ鳴る。
それに応えるように、祭壇の縁の文字がまた微かに光った。
深層は、まだ飢えている。
そしてその下で、エルシオンという誰かが何かを続けている。
ゼノンは木札をもう一度握り直し、静かに息を吐いた。
「行くしかないか」
その言葉に、セラフィナは今度こそはっきり頷いた。
「ええ」
「ここから先は、もう後始末じゃ済まない」




