第24話 螺旋の底
螺旋階段は、思っていたよりずっと深かった。
崩聖堂の裂け目から差し込んでいた朝の光は、十数段も降りたところで細くなり、やがて完全に消えた。残るのは、壁や床に埋め込まれた淡い金の導路と、セラフィナが灯した白い小型灯だけだ。灰白の塔の保守路よりも古いはずなのに、こちらの方が整っている。削り出された石段に無駄はなく、手すりも装飾もない。ただ下へ下りるためだけに作られた道だった。
その単純さが、かえって気味悪かった。
「……聖堂の下っていうより、井戸だな」
ゼノンが低く言うと、前を歩くセラフィナが振り返りもせず答える。
「昔は“祈りの間”って呼ばれていたらしいわ」
「でも実態は、上から祈りを落として、下の座へ流すための縦坑に近い」
「教会が表に出したがらないわけだ」
「ええ」
「聖なる言葉で飾るには、あまりに生々しい仕組みだから」
淡々とした言い方だった。
だがその声も、階段を降りるほど少しずつ硬くなっているのが分かった。平静を装ってはいるが、セラフィナ自身、この先が安全だとはまるで思っていない。
ゼノンは手を壁へ軽く触れさせた。
冷たい石の奥で、流れが脈打っている。
灰白の塔の中継核で感じたものよりさらに濃い。祈り、願い、恐れ、執着。人の感情が長い時間をかけて磨耗し、形だけを残した堆積層のようだった。流れというより地層だ。足元のさらに下に、見えない湖があるような圧迫感がじわじわと胸へかかる。
ゼノンは無意識に袋の中の木札へ指をやった。
ただの粗末な木片だ。
魔力も術式もない。
なのに触れた瞬間、さっきまで曖昧に揺れていた感覚の輪郭が、ほんの少しだけ“自分の側”へ戻る。
ミラの顔が、脳裏に一瞬浮かぶ。
馬鹿らしいと思う。
それでも手は離さなかった。
セラフィナがふいに言った。
「それ、上にいた子にもらったの?」
ゼノンは少しだけ眉を寄せる。
「見てたのか」
「見える位置にいたもの」
「効いてる?」
「知らない」
「ただ、持ってる方がうるさくない」
その返答に、セラフィナはわずかに口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
「深層へ潜る人間は、よくそういうものを持つわ」
「鍵や権限の外にある、個人的な繋がり」
「理屈にならないものほど、深いところでは道標になることがある」
「中央の人間がそんなこと言うのか」
「中央の人間だからよ」
「理屈だけじゃ潜れない場所を、知ってる」
その言葉は少しだけ胸に残ったが、ゼノンは何も返さなかった。
螺旋はなおも続く。
途中、壁に何度か横穴が現れた。どれも細く、今は崩れて先が見えない。だが縁に残る金の導路と、そこへ重ねられた白い封鎖線を見れば、昔はここから別の保守路や祈りの間へ繋がっていたのだろうと分かる。
そのうちの一つの前で、セラフィナが足を止めた。
「ここ、分かる?」
ゼノンが白い灯の先を見ると、横穴の壁面に新しい擦れ跡が残っていた。崩れた石の粉がまだ流れきっていない。最近、人が通ろうとした痕だ。
「誰かが入ろうとした」
「ええ。でも途中で引き返してる」
「この先は行き止まりか、保守路の崩落。少なくとも、正規の進路ではない」
「“別の誰か”の痕か」
「可能性は高い」
セラフィナの返答に迷いはなかった。
崩聖堂へ先に入った誰か。
灰白の塔の男とは別に、さらに深層へ進んだ存在。
そいつがどこまで行ったのか、どこで何をしているのか、まだ何も分からない。だが、こうして痕跡だけが断続的に現れると、嫌でも実感が増してくる。
「お前は、その“別の誰か”に心当たりはあるのか」
ゼノンが問うと、セラフィナは少しだけ黙った。
「ある」
「でも、確証はない」
「言ってみろ」
「中央封鎖管理局の中でも、深層再起動に前のめりだった派閥がある」
「表向きは調査と保守」
「でも実際には、原初導路を“再利用可能な資産”として見ている連中」
ゼノンは鼻で笑いそうになる。
「資産、ね」
「そういう言い方をするの」
「人も流れも、彼らにとってはそういう単位でしかない」
セラフィナは階段を下りながら続けた。
「私や灰白の失敗個体は、まだ封鎖を前提に動いていた」
「でも向こうは違う。止めるためじゃなく、動かすために深層へ入る」
「だから、もし別の鍵で先に進んだ者がいるなら……そっちだと思う」
その言い方に、自分は違うという線引きが混じっているのが気に入らなかった。
「お前も十分そっち側だろ」
「否定はしない」
「ただ、“どこまで壊していいか”の線が違うだけ」
「大差ないな」
「そうね」
また、あっさり認める。
だから余計に腹立たしい。
その時だった。
階段のさらに下から、水音に似たものが聞こえた。
ちゃぷん、という柔らかい響き。
だが水ではないと、ゼノンはすぐに分かった。音の中に、微かな囁きが混じっている。複数の声が、重なり、解け、また重なる。
『たすけて』
『いたい』
『まだ』
『かえりたい』
耳元で直接囁かれたように聞こえ、ゼノンは思わず足を止めた。
「来たわね」
セラフィナが低く言う。
「何だ、これ」
「祈りの滞留層」
「深層に近い場所では、流れきれなかった願いが“音”や“水面”みたいな形で溜まる」
「触れると引かれるから気をつけて」
「先に言え」
「言ってる時間がなかった」
階段をさらに数段下りたところで、空間が急に開けた。
そこは円形の小部屋だった。螺旋階段の途中に作られた踊り場というより、意図的な“溜め”のための部屋に見える。床の中央には浅い円盤状の窪みがあり、その中に透明な液体のようなものが張っている。
ただし水ではない。
表面は鏡みたいに静かなのに、その下では無数の小さな光が浮かんでは沈み、浮かんでは沈んでいた。近づくだけで、さっきの囁きが強くなる。
『さむい』
『まって』
『おいていかないで』
ゼノンの喉がひくりと鳴る。
どれも、どこかで聞いたことのある感情ばかりだった。辺境の村で死にかけていた人間たち、灰白の中継核に滞留していた願い、その延長線上にあるものだとすぐに分かる。
「……祈りってより、残り滓だな」
「ええ」
「本来なら上へ戻るか、下へ流れるかするはずだったもの」
「でも崩聖堂の深層は長く半開きだった。だからここに溜まった」
セラフィナは部屋の外周をなぞるように歩き、壁に埋め込まれた小さな金具を確かめている。だがゼノンの視線は、どうしても中央の窪みから逸れなかった。
その液面に、自分の顔が映っている。
……いや、違う。
一瞬だけ、別の顔が混じった。
勇者ユリウス。
ガルド。
前世の上司。
辺境の村で泣いていたミラ。
灰白の塔で砕けた男。
次々と顔が浮かび、消える。
それは記憶を見せているわけではなかった。もっと嫌なものだ。こちらの中にある“引っかかり”へ反応して、祈りの滞留層が勝手に形を取っている。
『お前のせいだ』
液面の奥から、その声がした瞬間、ゼノンの足が半歩前へ出た。
ぞくり、と背筋が冷える。
引かれている。
理屈では分かるのに、耳と胸の奥が勝手にそちらへ向かおうとする。
「ゼノン!」
セラフィナの鋭い声が飛ぶ。
同時に、何か硬いものが肩へぶつかった。
ミラの木札だった。
袋の口が緩んでいたのか、ぶつかった拍子に胸元へ落ちたらしい。
その軽い衝撃だけで、視界の歪みが一瞬ほどける。
「……っ、くそ」
ゼノンはすぐに一歩下がった。
液面の囁きが、今度は不満そうにざわめく。
『どうして』
『きいて』
『まだ』
『まだ』
「だから、そうやって引くなって言ってるでしょう」
セラフィナは不機嫌そうに言いながら、腰から細い銀杭を一本抜いた。杭の先端に白い術式光が灯る。それを部屋の外周の金具へ差し込むと、窪みの周囲に薄い白膜が立ち上がった。
囁きが一段遠のく。
「応急封じ」
「長くは持たないけど、通るだけなら足りる」
ゼノンはまだ少し荒い呼吸のまま、木札を握りしめた。
「今のは何だ」
「深層に近いほど、“こちらの傷”へ引っかかる」
「祈りの滞留層は優しくないの。慰めるふりをして、弱いところから沈める」
ゼノンは液面を睨んだ。
静かだ。だがその静けさが逆にぞっとする。
「……最悪の泥沼だな」
「だから私は、深層は鍵だけじゃ足りないって言った」
「権限と、感情の両方で呑まれないこと」
「片方だけだと沈む」
その言葉は、たぶん本当だった。
ゼノンは木札を袋に戻さず、そのまま掌へ握り込んだ。馬鹿げていると思う。だがさっき、確かにこれで引き戻された。
セラフィナが部屋の反対側を示す。
「出口はあっち」
「この先が“祈りの間”の手前」
「手前でこれかよ」
「ええ」
「本番はもっと酷いわ」
嫌になるほど素直な返答だった。
ゼノンとセラフィナは白膜の縁に沿って、滞留層の部屋を横切った。囁きはまだ聞こえる。だがさっきほど強くはない。ゼノンはできるだけ液面を見ないようにしながら、それでも胸の奥で揺れるものを無理やり押し殺した。
部屋を抜けた先の通路は、今までよりさらに古かった。
壁の灰白石はところどころ剥き出しになり、その下から黒い地層みたいなものが覗いている。天井は低く、床には浅い段差が続く。導路の金筋も細くなり、代わりに壁に直接刻まれた文字が増えていた。
聖典にない文字。
それでもやはり、ゼノンには読める。
『祈りは蓄えられる』
『蓄えは器を求める』
『器なき蓄えは、やがて呼び声となる』
その一文を読んだ瞬間、ゼノンは足を止めた。
「……器?」
セラフィナが横目で見る。
「何か読めた?」
「祈りは器を求める、だとさ」
セラフィナの表情が、ほんのわずかに変わる。
初めて、感情らしいものがはっきり揺れた。
「その文……どこに」
「ここだ」
ゼノンが壁を指すと、セラフィナはすぐに近づき、白灯をかざした。彼女には文字そのものは読めないらしい。だがゼノンの読んだ内容を聞いたあと、明らかに警戒の色を強めた。
「それなら急がないとまずい」
「何がだ」
セラフィナは低く答える。
「深層へ先に入った者がいるなら、“器”を探している可能性がある」
「上位座は、ただ起動するだけじゃ不安定なの」
「蓄えた祈りを流し続けるための受け手が要る」
ゼノンは意味を飲み込みきる前に、嫌な予感だけが先に走った。
「受け手ってのは……」
「適合者よ」
白灯の光が、セラフィナの横顔を冷たく照らす。
「第一節でも第二節でもいい」
「深層に触れて、それを“持てる”器」
「だから灰白の失敗個体も、あなたも、向こうにとってはただの鍵じゃない」
「入れ物にもなり得る」
背筋が凍った。
灰白の塔で変質していった男。
中継核で感じた無数の滞留。
自分の中へ少しずつ増えていく熱。
全部が一本の線で繋がる。
「……最初から、そういう仕組みか」
「ええ」
「だから禁忌なのよ」
セラフィナの声は静かだった。
だが、その静かさの下にある焦りを、今のゼノンははっきり感じ取れた。
深層へ先行した“別の誰か”。
そいつがもし器を求めているなら――
「急ぐぞ」
ゼノンはそれだけ言って、通路の先へ歩き出した。
もう、躊躇している時間は本当になかった。




