第23話 正鍵の取引
鐘の三度目の余韻が、崩聖堂の空気を長く震わせていた。
ごうん、と鳴るたびに、祭壇の奥の裂け目から白い霧が少しずつ濃くなる。床を走る金の導路も、それに応えるみたいに明滅を繰り返していた。時間をかければかけるほど、下の“何か”がこちらへ近づいてくる。そんな感覚が、胸の奥の熱を通して嫌でも伝わってくる。
女は差し出した正鍵を下ろさない。
「決めて」
声は静かだった。
だが、その静かさが余計に急かしてくる。
ゼノンは女の手元を見た。
銀色の鍵。補助鍵より一回り長く、柄の部分には三本線の印と、細かい聖典文字が彫り込まれている。見た目はただの精巧な鍵にしか見えない。だが視線を合わせるだけで、胸の奥の流れがじり、と反応した。
嘘ではない。
少なくとも、深層へ降りるための鍵ではある。
問題は、それを差し出している相手の方だ。
「名前は」
ゼノンが低く問うと、女の眉がわずかに動いた。
「今さら?」
「今さらだ」
「いつまでも“お前”呼ばわりで組めるほど、こっちも雑じゃない」
女は一拍だけ黙ってから、答えた。
「セラフィナ」
「封鎖管理局第二巡検班、深層監査補佐」
やたら長い肩書きだった。
ゼノンは鼻で笑いそうになる。
「長いな」
「あなたに分かるように言っただけ」
「普段はもっと長いわ」
ミラが耳を押さえていた手をようやく離し、小さく呟く。
「セラフィナ……」
その名を繰り返す声音には、警戒が滲んでいた。
当然だ。
ゼノンは改めて言う。
「俺はゼノンだ。そこはいつも通りでいい」
「適合者ゼノン、ね」
「その呼び方はやめろ」
セラフィナは少しだけ肩をすくめた。
「了解」
「じゃあ、ゼノン。取引は成立する?」
鐘がまた短く震える。
今度は音ではなく、床下で何かが回転を始めたような低い振動が混じっていた。祭壇の裂け目の縁に刻まれた古い文字の一部が、白く光り始めている。
もう長くは迷えない。
ゼノンはミラとハルトを振り返った。
「聞いてたな」
ハルトは青い顔のまま頷く。
ミラは明らかに納得していない顔だった。
「ハルト、お前は谷の入口まで戻って集落へ伝えろ」
「二日待って戻らなければ、ここは捨てろ。湧き水と畑を優先して、谷の奥には絶対に来るな」
「でも……!」
ハルトが何か言いかける。
ゼノンはそれを切った。
「いいから覚えろ」
「今ここでお前ができる一番大事な仕事は、それを確実に伝えることだ」
ハルトは拳を握りしめ、悔しそうに俯いた。
それでも最後には、低く「……分かった」と返す。
次にゼノンはミラを見る。
「お前は地上に残れ」
「やだ」
予想通りの返答だった。
「下に行った方が役に立てる」
「ゼノンさん一人だと無茶するし、この人も信用できない」
セラフィナが少しだけ目を細める。
「率直ね」
「ほんとのことだもん」
ミラの流れは怒りと不安で乱れていた。
けれど、その芯にあるのは恐怖より“置いていかれたくない”という意志だ。そこまで見えてしまうのが、今のゼノンには厄介だった。
「ミラ」
ゼノンは少しだけ声を落とした。
「今回は前より下が危ない」
「灰白の塔みたいに“途中まで様子を見る”じゃ済まないかもしれない」
「だからこそ――」
「だからこそだ」
ゼノンは言葉を重ねる。
「上で見てる奴がいる」
「鐘の音が強くなったら、谷を出ろ」
「裂け目から白い霧が溢れたら、迷わず逃げろ」
「そして俺が戻らなかったら……」
そこまで言って、少しだけ言葉が詰まる。
ミラの顔が強張った。
それでも、ゼノンは誤魔化さなかった。
「戻らなかったら、お前が前の村とこの集落に伝えろ」
「井戸にも湧き水にも、勝手に触るなってな」
「流れが落ち着くまで、人の手でいじるな」
ミラは唇を噛む。
泣きそうにはなっていない。むしろ怒っている顔だった。
「それ、帰ってこない人の言い方」
「違う」
「最悪を先に決めてるだけだ」
「同じだよ」
刺さる言い方だった。
だがゼノンは引かなかった。
「違う。帰るつもりはある」
「でも帰れなかった時に、お前が動けるように言ってる」
しばらくの沈黙。
祭壇の奥で、また低い軋みが鳴る。
時間が押している。
やがてミラは拳をぎゅっと握り、低く言った。
「……絶対、戻ってきて」
その一言が、胸の奥へ真っ直ぐ落ちる。
祈りだ。
あまりにもまっすぐで、痛いくらいに濁りがない。
ゼノンはそれを飲み込まないよう、ただ息を整えた。
「努力はする」
精一杯、いつも通りにぶっきらぼうに返す。
それでもミラは不満そうだったが、ようやくそれ以上は言わなかった。
セラフィナが静かに口を挟む。
「話は終わり?」
「なら鍵を合わせる」
女は階段の手前まで降り、祭壇の裂け目の縁を指した。そこには、崩れた石のあいだに半分埋もれた金属板があり、板の中央に鍵穴が二つ並んでいる。一つは円形、一つは細長い溝型。円形の方は、ゼノンが持つ補助鍵の形によく似ていた。
「正鍵だけでは開かない」
「補助鍵と深層座標の両方が必要」
「本来は複数人で権限照合する構造よ」
「面倒な仕組みだな」
「そうしないと、誰か一人が暴走した時に止まらないから」
その返答に、ゼノンは少しだけ目を細めた。
「止まってないじゃないか」
セラフィナは一瞬だけ黙り、それから淡々と言った。
「だから今、ここにいるの」
まるで言い訳にもならない答えだった。
だが、そこに開き直りはない。壊れた仕組みの中で自分も動いていると理解している人間の声音だった。
ゼノンは袋から補助鍵を出し、もう片方の手で透明結晶に触れた。深層座標は結晶に刻まれている。鍵と結晶、そして第一節の感覚。その三つが揃った瞬間、胸の奥の熱が少しだけ強く脈打つ。
セラフィナも正鍵を構えた。
「合図に合わせて差し込む」
「お前に合わせるのは癪だな」
「私もよ」
鍵穴の前に膝をつく。
床がひどく冷たい。
「三つ数える」
セラフィナが低く言う。
「一」
「二」
「三」
同時に鍵を差し込む。
かちり、と小さな音がした。
続いて、透明結晶の内側の金筋が強く光る。ゼノンの掌を通して、座標の情報が鍵穴の奥へ流れ込んでいくのが分かった。補助鍵だけでは通らない。正鍵だけでも足りない。二つの系統が一瞬だけ重なり、そこで初めて“誰がどこへ降りるか”が認証される。
次の瞬間、祭壇の裂け目の下から鐘の低い震えが返ってきた。
ごうん――
だが今度は呼び声ではない。
応答だ。
裂け目の縁に刻まれていた古代文字が一列ずつ光り、半ば埋もれていた石板が左右へずれていく。聖堂の床の下へ、細い螺旋階段が現れた。灰白の塔のような保守路とは違う。もっと古い。もっと装飾が少なく、そのぶん生々しいほど機能だけに徹した通路だった。
地下から、冷たい風が吹き上がる。
その風には、鐘の残響と、かすかな祈りのざわめきが混じっていた。
多い。
灰白の中継核で感じた以上だ。
「……これ全部、下からか」
ゼノンが呟くと、セラフィナが階段を見下ろしたまま答える。
「上位座に近づくほど、滞留した流れは濃くなる」
「ここから先は、ただの遺跡じゃない」
「祈りそのものが地形みたいに積もってると思った方がいい」
「楽しそうに言うな」
「全然楽しくない」
即答だった。
ハルトが裂け目から距離を取りながら、声を震わせる。
「本当に……行くのか」
「ここまで来てやめる理由がない」
ゼノンは短く言った。
するとミラが、少しだけ迷ったあと、自分の首元から細い紐を外した。小さな木札が下がっている。前の村で使っていた、ただの祈願札か何かだろう。粗末な作りだが、何度も触られてきたのか角が丸くなっている。
「これ」
ミラが差し出す。
「持ってって」
「いらない」
「いる」
「お守り」
「そういうの、効くと思ってるのか」
ぶっきらぼうに返すと、ミラはむっとした顔で言う。
「効くかどうかじゃなくて、持っててほしいの」
「ゼノンさん、こういうの自分じゃ絶対持たないでしょ」
図星だった。
ゼノンは少しだけ眉を寄せ、それでも無視して歩き出そうとして――やめた。
結局、木札を受け取る。
ただの木だ。
術式も、魔力も、何も感じない。
それなのに掌に載せると、妙に軽くなかった。
「……借りるだけだ」
「うん。返してもらうから」
ミラの返答は、ひどく当然みたいな顔をしていた。
その顔を見て、ゼノンは小さく息を吐く。
胸の奥の熱がまた揺れる。飲み込まず、ただ覚えておく。
セラフィナが先に一段目へ足をかけた。
「行くわよ、ゼノン」
その呼び方に、わずかに違和感が残る。
敵でも味方でもない、ただ一時的な共犯者の呼び方だ。
ゼノンは木札を袋へしまい、裂け目の前に立つ。
上ではミラとハルトが見ている。
後戻りはできる。だが、もうしない。
「二日だ」
ゼノンは振り返らずに言った。
「それ以上は待つな」
「……うん」
ミラの返事は小さかった。
けれど、震えてはいなかった。
ゼノンは頷きもせず、セラフィナの後を追って螺旋階段へ足を踏み入れた。
崩聖堂の光が、すぐ後ろで細くなっていく。
下から吹き上がる風は冷たいのに、その奥には熱を帯びた祈りのざわめきがある。
深層。
そこへ続く道が、今ようやく口を開いた。
そしてその先で待っているのは、ただ壊れた仕組みではない。
誰かの意志と、誰かの飢えと、たぶん――
自分がまだ見たことのない“神に近い何か”だ。




