第22話 待っていた者
崩聖堂の裂け目の奥から吹き出す風は、谷の風より冷たかった。
白い粉を巻き込みながら、息を吸うように、吐くように、規則のない間隔で揺れている。そのたびに、半ば崩れた鐘楼の残骸が軋み、奥で鳴っている鐘のような音と不気味に重なった。
『遅い』
さっきと同じ声が、今度はもっとはっきり聖堂の内側から響いた。
男とも女ともつかない、と思ったのは最初だけだった。今は分かる。女の声だ。低く抑えているが、響きの芯に冷たい硬さがある。
ハルトが喉を鳴らす。
「……人、だよな」
「多分な」
ゼノンは短く返した。
「少なくとも、谷の呼び声とは違う」
呼びかけに意味があった。
こちらが来ることを知っている口ぶりだった。
ならば、崩聖堂の奥にいるのは“仕組み”そのものではなく、そこへ先に辿り着いた誰かだ。
ゼノンは裂け目の縁へ近づいた。
聖堂の正面入口はとうに崩れているらしく、今通れるのは壁ごと裂けたこの横腹だけだ。灰白の石を乗り越え、内部を覗き込む。薄暗い。だが灰白の塔の中みたいな完全な地下ではない。崩れた天井の穴から朝の光が差し込み、白い粉を斜めに照らしていた。
壊れた長椅子。
半ば埋もれた祭壇。
落ちた鐘楼の石材。
そして床一面を這う、古い金色の導路と、新しい白い術式線。
また混ぜている。
原初の流れと、現代の術式を。
「……ここもか」
ゼノンが低く呟いた時、聖堂の奥で何かが揺れた。
祭壇のさらに向こう、半壊した二階回廊の陰から、一人の女が姿を現す。
年は二十代後半ほどに見えた。長い灰色の外套の上から細身の胸当てを着け、腰には短剣ではなく細い金属杭を何本も吊っている。聖教会の正式な法衣ではない。だが胸元には確かに紋章があり、その下には灰白の塔で拾った留め具と同じ、三本線を円で囲った印があった。
中央だ。
しかも、辺境へ派遣される巡回神官の身なりではない。灰白の塔で死んだ男と同じ系統――封鎖管理局か、その近辺。
女は崩れた手すりに片手を置き、こちらを見下ろしていた。
「第一節保持個体。やはり生きていたのね」
そう言って、視線をゼノンからミラ、ハルトへと流す。
「付添いがいるのは予想外だけれど」
「こっちも、先回りされてるのは予想外だ」
ゼノンは聖堂へ一歩踏み込んだ。
白い粉が靴の下でざらりと鳴る。
胸の奥の熱が、女の周囲で微妙に揺れた。あれは祈りの流れじゃない。もっと冷たい、“鍵”の気配だ。補助鍵を持つ時の感覚に近い。ただし、もっと強い。
女もまた、権限鍵の保持者だ。
ミラが小声で聞く。
「知り合い?」
「知らない。向こうは違うみたいだが」
女の口元がほんの少しだけ動く。笑ったのか、呆れたのかは分からなかった。
「あなたが灰白の中継核を止めた」
「信じたくなかったけれど、監視反応がそこで切れたから、来るならここだと思った」
「待ってたってことか」
「ええ。待った」
「灰白の失敗個体が止められないなら、次に来るのはあなたしかいないもの」
失敗個体。
灰白の塔で砕けた男を、こいつはそう呼んだ。
ゼノンの眉がぴくりと動く。
「仲間じゃないのか」
「仲間?」
女は少し首を傾げた。
「同じ局に属していた、という意味ならそう」
「けれど、彼は命令を外れて先走った」
「私は、その後始末に来ただけ」
その言い方に、人間味はほとんどない。
失敗した同僚を惜しむ色も、責任を感じる色もない。ただ“配置された駒の損耗”くらいの温度で話している。
ゼノンは吐き捨てるように言った。
「後始末で村を枯らすのか」
女の目がわずかに細くなる。
「枯れたのは、制御不能になったからよ」
「本来の計画では、辺境へ影響は出ない範囲に抑えるはずだった」
「出た時点で失敗だろ」
「そうね」
あまりにあっさり肯定されて、逆に言葉が詰まる。
女は続ける。
「だから私はここで止めている」
「正確には、“これ以上深層へ流さないよう繋ぎ留めている”」
「でも、一人では足りない」
ゼノンは聖堂の中央へ視線を走らせた。
女の立っている二階回廊の下、祭壇の奥で床が大きく裂けている。裂け目の縁に、白い術式杭が六本。反対側には古い金の導路が露出し、その真ん中で、鐘楼から落ちたはずの巨大な鐘が横倒しになっていた。
だが、ただの鐘ではない。
鐘の表面には聖典にない文字が幾重にも刻まれ、その内側から白とも金ともつかない光が漏れている。鳴っていたのは、あれだ。
「……地下鐘か」
巡礼記にあった言葉が、ようやく意味を持つ。
女が短く頷く。
「崩聖堂の“祈りの間”はあの下よ」
「鐘が深層への蓋になっている」
「でも今は、蓋であると同時に導路の中継器にもなってしまっている」
ミラが不安そうにゼノンを見る。
「蓋って……開いたらどうなるの」
女が代わりに答えた。
「深層へ落ちる」
「それだけならまだいい」
「問題は、今の状態で半端に開くと、谷全体が呼び声の通路になること」
ハルトの顔が引きつる。
「じゃあ、ここを壊したら谷も集落も……」
「壊すだけなら、ね」
女は二階回廊から階段を降りてきた。
動きは静かで無駄がない。外套の下に覗く装備は軽いが、ただの学者ではないと分かる足運びだった。
近くで見ると、左のこめかみのあたりに薄い光の痕が走っている。灰白の塔で死んだ男ほどではないが、こいつもすでに何かへ触れすぎている。
「あなた、どこまで持ってるの」
女がゼノンをまっすぐ見た。
「第一節だけ?」
「それとも、灰白中継核の権限も?」
「質問に答える義理はない」
「あるわ」
女は即答した。
「ここから先へ進むには、最低でも二系統の権限が要る」
「足りないまま降りれば、鐘に呑まれる」
鐘に呑まれる。
その表現が、妙に具体的で嫌だった。
ゼノンは袋の中の透明結晶と補助鍵を思い出す。
第一節。
第二分流点。
灰白中継核の暫定解放。
深層閲覧権限の補助鍵。
足りるかどうかは分からない。
だが、少なくとも“何も持たずに来た”わけではない。
「お前はどこまで持ってる」
逆に問い返すと、女はほんの少しだけ口角を上げた。
「第二節」
「封鎖管理局の正鍵一つ」
「それと、崩聖堂の上層制御」
「でも深層鍵は持っていない」
つまり、単独では降りられない。
だから待っていた。
ゼノンはようやく理解する。
「俺を使うつもりか」
「使う、という言い方が嫌なら“協力”でもいい」
「どちらでも結果は同じよ」
「私は下へ行きたい。あなたも行くつもりでここまで来た。なら利害は一致している」
理屈としては正しい。
それが余計に腹立たしい。
ミラが低く言う。
「信用しちゃ駄目だと思う」
「俺もそう思う」
即答すると、女は肩をすくめた。
「賢明ね」
「でも、信用できない相手と組むしかない場面はある」
「お前ら中央の人間って、そういう言い方好きだな」
「好きなんじゃない。慣れてるだけ」
その返事に、ほんの一瞬だけ空気が止まる。
嘘ではない。
少なくとも、女の流れに躊躇いはなかった。人を使うことにも、使われることにも、慣れきっている。
だからこそ危険だ。
その時だった。
横倒しになった地下鐘が、ひとりでに低く震えた。
ごうん、と鈍い音。
その余韻の中で、聖堂じゅうの白い粉がふわりと浮き上がる。
次の瞬間、ゼノンの耳に声が流れ込んだ。
『降りろ』
『早く』
『足りない』
『もっと』
谷で聞こえた呼び声とは比べものにならない。
これはもっと近い。
もっと濃い。
ミラが両耳を押さえてしゃがみ込む。
ハルトも顔をしかめ、壁へ肩をぶつけるように後ずさった。
だが女だけは動かない。
慣れているのか、顔色一つ変えずに鐘を見た。
「深層が飢え始めてる」
「灰白中継核を切られたせいで、直接呼びかけるしかなくなったのね」
「嬉しそうに言うな」
「嬉しくはないわ」
「ただ、時間がないだけ」
女はゼノンへ手を差し出した。
細い手袋の上に、銀色の鍵が乗っている。ゼノンの持つ補助鍵より一回り大きく、先端の凹凸も複雑だ。正鍵だろう。
「取引をしましょう」
「あなたの第一節と灰白の座標、私の第二節と正鍵」
「一緒に一度だけ下りる」
「深層へ着いたら、その先は状況を見て決める」
「随分と都合がいいな」
「ええ。都合がいい話よ」
「だから今しか成立しない」
鐘がもう一度鳴る。
今度は短く、鋭く。
ごん、と。
聖堂の床に走っていた金の導路が、一斉に淡く光った。祭壇の裂け目の下から、白い霧みたいなものが立ち上り始める。遅くない。だが、待てるほどの余裕もない。
ゼノンはミラとハルトを見た。
ミラはまだ耳を押さえたまま、けれどこちらを見返してくる。
ハルトは恐怖を隠せていない。それでも逃げるとは言わない。
ゼノンは舌の奥で小さく息を吐いた。
選択肢は少ない。
そして、どれもろくでもない。
「……条件がある」
ゼノンが言うと、女の手がぴたりと止まった。
「言って」
「こいつらは下へ連れていかない」
「地上に残す」
ミラがすぐに反論しかける。
「え――」
「黙って聞け」
鋭く言うと、ミラは唇を噛んだ。
ゼノンは女を見据えたまま続ける。
「ハルトは谷の入口まで戻って、集落へ“二日待って戻らなければ撤収しろ”と伝えろ」
「ミラは地上に残って、聖堂の裂け目を監視する」
「何かあれば、絶対に下へ来るな。逃げろ」
「それは条件じゃなくて、指示じゃない?」
女が静かに言う。
「お前がそれを飲むなら条件だ」
数秒の沈黙。
やがて女は手を下ろし、小さく頷いた。
「いいでしょう」
「私も、足手まといを抱えて降りる気はない」
ミラの顔に不満と不安が一緒に浮かぶ。
だが反論の前に、鐘が三度目に鳴った。
ごうん――
今度は、聖堂全体が応えるように揺れた。
祭壇の裂け目の奥で、何か大きなものがゆっくり噛み合う音がする。
地下の仕組みが、本格的にこちらへ口を開き始めていた。
ゼノンは女の差し出す正鍵を見た。
ここで組むしかない。
そう分かっていても、その一歩はやけに重かった。




