第21話 風の裂け目
鐘のような音の余韻が、谷の空気に長く残っていた。
ごうん、と低く鳴ったはずなのに、耳へ届く頃には不思議なくらい形を変えている。金属音にも聞こえるし、遠くで誰かが呻いた声にも聞こえる。聞き取ろうと意識した瞬間に、意味のある音へ化けそうになるのが、ひどく気味が悪かった。
ゼノンは石碑から手を離し、すぐに言った。
「ここから先、呼ばれても返事するな」
ハルトが乾いた唇を舐める。
「やっぱり、本当に何かあるのか」
「ある。少なくとも普通の谷じゃない」
ミラはまだゼノンの袖を掴んだまま、小さく頷いた。
「鐘の音、ちょっと……変だった」
「聞こうとするな」
「意味を取ろうとしたら、多分引っ張られる」
自分でも曖昧な説明だと思う。だが今の感覚を正確に言葉へ落とすのは難しかった。あの音はただの音じゃない。主導路を通って漏れてきた“呼びかけ”に近い。崩聖堂の奥にある何かが、谷全体を共鳴板みたいに使っているのだろう。
ゼノンは石碑の表面へもう一度視線を落とした。
風化した文字の奥に、細い金の筋が埋まっている。
意識を向けると、聖典にない文字がかすかに浮いた。
『境界杭』
『応答を禁ず』
『呼び声は内より来る』
「……最悪だな」
思わず漏れる。
「何て書いてあるんだ」
ハルトが聞く。
「返事をするな、ってことだ。つまり昔から同じ現象があった」
そう告げると、ハルトの顔がさらに強張った。だが逃げようとは言わない。家族と集落を背負ってここまで来た人間の目だった。
三人は石碑を越え、さらに谷の奥へ進んだ。
道は明らかにおかしくなっていく。岩壁の角度が変わったわけでもないのに、真っ直ぐ歩いていたはずの道がいつの間にか緩く曲がっている。風は前後左右の感覚を狂わせるように吹き、時折、すぐ耳元で誰かが息をしたような気配がした。
そして二つ目の鐘が鳴った。
今度は、音と一緒に言葉が混じった。
『――おい』
低い男の声だった。
ハルトがびくりと肩を震わせる。
ミラの指先が、ゼノンの袖を強く掴んだ。
「聞こえたか」
ハルトが掠れた声で問う。
「聞こえた」
ゼノンは短く答える。
「でも、無視しろ」
声はもう一度、少し近くで響いた。
『ハルト』
今度は、はっきり名を呼んだ。
ハルトの顔から血の気が引く。
「な、なんで俺の……」
「振り向くな!」
ゼノンが鋭く言った瞬間、ハルトの足元の砂がさらりと崩れた。谷道の端、ただの地面に見えていた場所が浅く落ち込んでいる。もう半歩踏み込んでいたら、脇の裂け目へ足を取られていた。
ハルトは息を止めたまま後ずさる。
「……今の、見えてなかった」
「見せてないんだろ」
ゼノンは舌打ちしたい気分になった。
音で意識を逸らし、足元の危険を隠す。
まるで誘導罠だ。
胸の奥の熱へ意識を沈めると、谷の空気そのものに細い流れの歪みが混じっているのが分かる。石碑から石碑へ、見えない膜みたいなものが張られていて、それが鐘の音を運び、感覚を乱している。
「風の裂け目ってのはこれか」
ゼノンが呟くと、ミラがかすかに頷く。
「おばあさんの言ってた通りだね」
「通りすぎて笑えない」
三つ目の石碑は、谷が狭まった場所に立っていた。
周囲の岩壁には不自然なひびがいくつも走り、その隙間から白い粉が絶えず吹き出している。まるで岩そのものが崩れながら呼吸しているみたいだった。
石碑の下には、古い骸骨が一つ転がっていた。
旅人のものではない。法衣の残骸と、胸元に付いた歪んだ金具を見れば分かる。聖教会の神官だ。ただし辺境の巡回神官より上等な装束で、肩当ての意匠も古い。
ハルトが息を呑む。
「こんなところで……」
ゼノンはしゃがみ込み、骸骨の脇に落ちていた薄板を拾った。金属製の記録板だ。泥と白粉で汚れていたが、表面を拭うと細い文字が現れる。
聖典文字だった。
『第六座標巡検』
『聖歌反響あり』
『封鎖は維持されているように見える』
『だが地下鐘は止んでいない』
そこで文章は乱れ、最後の数行だけ走り書きみたいに荒れていた。
『応答してはならない』
『あれは祈りの真似をする』
『聖堂の声は――』
そこから先は、爪で引っ掻いたように削られている。
「また肝心なところが消えてるな」
ゼノンが低く言うと、ミラが骸骨を見つめたまま聞いた。
「この人も、声を聞いたのかな」
「多分な」
「それで……」
「返したか、近づいたか、その両方だろ」
谷の奥から、また風が吹く。
今度は鐘ではなく、遠くの聖歌みたいな響きが混じっていた。複数の人間が重なって歌っているように聞こえるのに、言葉は一つも拾えない。ただ、意味だけが不気味に伝わってくる。
こちらへ来い。
祈れ。
答えろ。
そういう圧だけが、音の奥にあった。
「……黙ってても、聞かされるのかよ」
ゼノンは記録板を袋へしまい、立ち上がる。
ここで感覚を乱され続けたら、そのうち足を取られる。何か対策が要る。
石碑の金筋へ手を当て、流れを探る。
境界杭はただの警告じゃない。
本来は、この“呼び声”を弱めるための遮断器の役目もあるらしい。だが長年の風化と崩れで、今は半分しか機能していない。だから鐘の音が谷じゅうへ漏れているのだ。
「直せる?」
ミラが聞く。
「全部は無理だ」
ゼノンは石碑を睨みながら答える。
「でも、一時的に通り道くらいは作れるかもしれない」
第一節。
第二分流点の限定制御権。
灰白中継核の暫定解放。
手持ちの権限で足りるかは微妙だが、やるしかない。
ゼノンは三つ目の石碑を中心に、前後の石碑へ意識を伸ばした。谷を横切る歪んだ膜。そこへ混じる聖歌の残響。割れた石碑が本来果たすべき“遮る”流れを思い描き、その一部だけを仮に繋ぐ。
「お前ら、耳を塞げ」
ハルトとミラが慌てて従う。
ゼノンは両手を石碑へ当てた。
冷たい石の奥で、金の筋がかすかに光る。
そこへ、自分の中の熱を流し込みすぎないよう細く乗せる。喰らうな。押し切るな。形だけ戻せ。
「境界を、閉じろ」
低く呟いた瞬間、三つの石碑のあいだを走る見えない膜がぴんと張った。
谷に満ちていた聖歌が、一拍だけ濁る。
次の瞬間、風の流れが変わった。
正面からぶつかっていた声の圧が、左右の岩壁へ逸れていく。完全には消えない。だが、さっきまで耳元で囁くみたいだった呼び声が、遠い鐘の残響程度にまで薄れた。
ミラがそっと耳を離す。
「……静かになった」
「今のうちに抜ける」
ゼノンは短く言い、歩き出した。
石碑のあいだを抜けると、谷は急に開けた。
細い道の先、崩れた岩壁の向こうに石造りの建物の残骸が見える。灰白の石で組まれた、半分埋もれた礼拝堂。屋根は落ち、鐘楼だけが斜めに残り、その足元に大きな裂け目が口を開けていた。
崩聖堂。
近づいた瞬間、胸の奥の糸がはっきりと強くなる。
ここだ。
灰白の塔より先の節点。第六座標。
ハルトが青い顔で呟いた。
「ほんとに、聖堂だ……」
だが普通の廃墟ではなかった。
聖堂の周囲には新しい足跡が残っている。
複数。
しかも一人や二人ではない。
誰かが最近ここへ出入りした痕跡だ。
ゼノンは入口の脇へしゃがみ込み、土に残る靴跡を指でなぞる。幅の違う跡が三種類。うち一つは重い装備の兵士か護衛。もう一つは細身で軽い。残りは、規則正しく、歩幅が妙に一定だ。
「……三人以上」
「中央の人たち?」
ミラが低く聞く。
「かもしれない」
断言はしない。
だが灰白の塔で拾った留め具と補助鍵を思えば、可能性は高い。
その時、崩聖堂の裂け目の奥から、また鐘が鳴った。
今度はさっきまでと違う。
低いだけではない。
重なっている。
一つではなく、二つ、三つの音がずれて鳴り合い、まるで誰かが奥で無理やり鐘を動かしているみたいだった。
そして、その響きの中に――
『遅い』
はっきりとした声が混じった。
男とも女ともつかない、冷たい声。
ハルトが蒼白になって後ずさる。
ミラも息を止めたまま、ゼノンの服を掴んだ。
だがゼノンだけは、その声の方向をまっすぐ見た。
呼び声じゃない。
これは、誰かが明確な意思を持って発した言葉だ。
しかも、こちらが来ることを知っていた。
「……待ってたのか」
小さく呟くと、胸の奥の熱が静かに脈打つ。
崩聖堂の奥には、まだ生きている何かがある。
そしてそこには、自分たちより先に深層へ触れた“別の誰か”がいる可能性が高い。
風が、裂け目の奥へ向かって流れていた。
まるで聖堂そのものが、大きく息を吸っているみたいに。




