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第20話 崩聖堂

 集落に戻ってから、ゼノンは半日だけ猶予を取った。


 水が戻ったとはいえ、いきなり北東へ発つには準備が足りない。集落の長に水の分配を指示し、動ける者には畑の見回りと家畜の移動を頼み、湧き水の周囲には余計な人間を近づけないよう念を押す。応急処置が効いている今だからこそ、無駄に崩せば次は持たない。


 日が西へ傾く頃、集落の長が古びた木箱を抱えてやって来た。


「これを見てほしい」


 箱の中には、湿気で波打った紙片と、黒ずんだ薄板が何枚か収められていた。どれも旅人や巡礼者が残した古記録らしい。文字の大半は掠れていたが、その中の一枚に、ゼノンの目が止まる。


 聖典文字で書かれた、短い巡礼記だ。


『第六座標聖堂は崩れた』

『祈りの間は閉ざされ、地下への階は封じられた』

『白き鐘は鳴らず、以後この地を巡礼路より外す』


 巡礼路より外す。

 つまり、かつては教会側も把握していた場所だ。


「これ、いつの記録だ」


 ゼノンが問うと、長は首を振った。


「正確には分かりません。ただ、うちの祖父の祖父の代にはもう“崩聖堂”としか呼ばれていなかったそうです。行けば災いがある、鐘の音を聞いた者は帰れない、そんな話ばかりが残って……」


「怖がらせるには十分だな」


 吐き捨てるように言いながらも、ゼノンは紙片を見つめたままだった。


 第六座標。

 深層鍵座標と結晶が告げた言葉と一致する。


 偶然ではない。


 ミラが横から覗き込み、眉をひそめた。


「やっぱり、そこなんだ」


「らしいな」


「教会、昔は知ってたんだね」


「知ってて切ったんだろ。巡礼路から外したってことは、触れられると困る何かがあった」


 その時、部屋の隅でずっと黙っていた老婆が口を開いた。


「崩聖堂へ行く道は、昔の巡礼道とはもう違うよ」


 集落の長の母だというその老婆は、痩せた指で机の上へ簡単な地図を描いた。


「正面の石段は崩れてる。今通れるのは、北の谷を回る獣道だけだ。ただし、途中に風の裂け目がある。音が狂う場所だよ。呼ばれても、返事をするんじゃない」


 ミラが目を丸くする。


「音が狂う?」


「昔、うちの兄が行った。帰ってきたけど、その日からずっと“聖歌が聞こえる”って言い続けて、冬を越さずに死んだ」


 部屋の空気が少し冷えた。


 迷信だ、と切って捨てるのは簡単だ。だがゼノンは笑わなかった。灰白の塔まで見た今なら分かる。辺境の言い伝えの中には、仕組みを知らない者が現象だけを掴んで残したものが混じっている。


 “音が狂う”のも、主導路の歪みが感覚へ干渉しているのかもしれない。


「谷を回る道、案内できる奴はいるか」


 ゼノンが聞くと、長は苦い顔をした。


「若い衆で近くまで行った者ならいますが、崩聖堂の手前までです。谷の奥はみんな避けてきた」


「十分だ。入口まで分かればいい」


 するとミラがすぐに言った。


「私も行く」


「お前はもう確定みたいな顔するな」


「だって、ここで待ってても落ち着かないし」


 その言葉に、何人かが小さく笑った。張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。


 だがゼノンは笑わない。


「今回は前より危ないぞ」


「分かってる」


「灰白の塔みたいに、途中で引き返せないかもしれない」


「それも分かってる」


 ミラの目は揺れない。


 怖くないわけじゃない。その流れは見える。けれど、それでも行くと決めている。ゼノンはその顔を見て、もう止めても無駄だと悟った。


「……勝手に死ぬなよ」


「ゼノンさんもね」


 言い返され、少しだけ言葉に詰まる。


 その夜、ゼノンは一人で外へ出た。


 集落は静かだった。湧き水の音が、昨日より確かに太い。家々の中では疲れ切った人間たちが眠っている。今日を生き延びられると分かっただけで、人はこんなにも深く眠れるのかと、少しだけ思った。


 胸の奥へ意識を沈める。


 第二分流点。

 前の村の井戸。

 灰白の塔。

 そこまでは前よりはっきりと掴める。


 だがその先、北東第六座標――崩聖堂へ続く糸は、夜になるとさらに嫌な輪郭を帯びていた。ただ重いだけじゃない。何かが向こうから探ってくるような、薄い逆流がある。


「……気づいてるのか」


 小さく呟く。


 灰白の塔の中継核を止めたことで、相手も異変を察知した。

 そんな気がした。


 袋の中の透明結晶が、かすかに震える。

 深層閲覧権限の補助鍵も、冷たいまま沈黙しているくせに、触れていると落ち着かない。


 まるで全部が、自分を先へ押しているみたいだった。


 翌朝、まだ日が昇りきる前に三人は出発した。


 ゼノン、ミラ、そして集落の若者の一人――ハルト。痩せてはいるが足腰は強く、谷の手前までなら何度か薪拾いで入ったことがあるという。腰には短斧、背には水袋。無言がちな男だったが、その目には家族を残してきた人間の緊張が滲んでいた。


「谷の入口までは半日もかからない」

「でも、その先は道が急に消える」


 歩きながらハルトが言う。


「昔の石碑みたいなのが何本か立ってる。近づくと耳鳴りがするんだ。俺はそこで引き返した」


「石碑、ね」


 ゼノンは小さく繰り返す。


 分流点や保守路にあったものと同じ系統かもしれない。


 森を抜け、斜面を下り、やがて三人は谷へ入った。


 両側を灰色の岩壁に挟まれた細い道だ。空は細く切り取られ、昼だというのに薄暗い。風の通りが妙で、前から吹いたかと思えば次の瞬間には背後から首筋を撫でる。


 しばらく進んだところで、ハルトが足を止めた。


「……ここから先だ」


 道の脇に、半ば岩へ埋もれた石碑が立っていた。


 表面は風化しているが、ゼノンが近づくと細い金の筋がうっすらと見える。やはりただの目印じゃない。導路に干渉するための杭か、境界を示す標だ。


 その時だった。


 谷の奥から、かすかに鐘の音がした。


 ごうん――


 低く、長い。

 本物の鐘とは少し違う。金属音というより、空間そのものが鳴ったような響きだった。


 ハルトの顔が一瞬で青ざめる。


「聞こえた……」


 ミラも息を呑んで、ゼノンの袖を掴んだ。


「今の、どこから……」


「まだ近くない」


 ゼノンは低く答えた。

 音そのものより、その余韻に混じって流れてきたものの方が問題だったからだ。


 祈り。


 だが人のものではない。

 もっと古く、もっと空洞で、形だけ祈りの真似をしているような響き。


 崩聖堂は、まだ生きている。


 そしてその奥で、何かがこちらを待っている。


 ゼノンは石碑へ手を置いた。

 冷たい石の奥で、主導路の糸がわずかに震える。


 行くしかない。

 そう感じた瞬間、谷のさらに奥で、もう一度鐘のような音が鳴った。


 今度はさっきより、少しだけ近かった。

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