第19話 深層座標
灰白の塔の中継核が静まったあとも、しばらくゼノンはその場から動けなかった。
広間には、まだ白い粉が薄く舞っている。監視機構の残骸は黒く焦げ、壁を走っていた白い術式線も、ところどころ途切れてただの汚れみたいに沈んでいた。さっきまであれほど空気を引き裂いていた圧が消えたせいで、逆に静けさが異様だった。
床の中央には、拳大の透明な結晶が残されている。
白濁していた中継核の中心から現れたそれは、今も内側にごく細い金の筋を閉じ込めていた。見た目は静かだ。だが意識を向ければ、遠いどこかへ続く糸のような感覚がかすかに返ってくる。
「ゼノンさん」
ミラの声で、ようやく現実へ引き戻される。
振り返ると、ミラは階段の途中で立ち止まったまま、砕けた男の残骸と結晶を交互に見ていた。近づきたいが、近づくのが怖い。そんな顔だった。
「もう大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
ゼノンは即答した。
「ただ、今すぐ崩れる感じではないってだけだ」
それでもミラは少し安心したように息を吐く。完全な肯定より、変にごまかさない方がこの子には効くらしい。ゼノンはそれを少し面倒に思いながら、透明な結晶を拾い上げた。
冷たい。
だが、井戸の祭壇や中継核に触れた時ほど暴力的ではない。
指先へごく薄い震えが伝わる。
そのまま意識を沈めると、結晶の内側で細い文字列が浮かび上がった。
『灰白中継核・暫定解放』
『深層鍵座標更新』
『接続候補:北東第六座標』
『地表指標:崩聖堂』
崩聖堂。
初めて聞く名だった。
だが“地表指標”という表現からして、地上にある何らかの廃墟を目印に、その下へ続く施設があるのだろう。
「何が見えたの?」
ミラがようやく近づいてくる。
ゼノンは少し迷ってから答えた。
「次の場所の手がかりだ。灰白の塔よりさらに先に、まだ繋がってる施設がある」
「上位座?」
「そこに近い何か、だろうな。少なくとも、この塔で終わりじゃない」
ミラは唇をきゅっと結ぶ。
怖いのだろう。
それでも目を逸らさない。
ゼノンはそのまま結晶を袋へしまおうとして、ふと足元へ視線を落とした。砕けた男の残骸の近くで、何かが光っている。
小さな鍵だった。
普通の鉄鍵ではない。指の長さほどの銀色の棒に、片端だけ複雑な凹凸が刻まれている。装飾ではなく、術式を通すための形だと一目で分かった。拾い上げると、表面にあの三本線を円で囲った印がある。
「それも、教会の?」
「中央のどこか、だろうな」
鍵の裏面には細い文字が刻まれていた。
聖典文字だ。
『封鎖管理局・深層閲覧権限』
『第参位補助鍵』
ミラが目を丸くする。
「読めるんだ」
「こっちは普通の聖典文字だ」
「じゃあ、それ使えるの?」
「多分な」
そして、それがひどく嫌だった。
第一節保持個体。
第二分流点の限定制御権。
中継核から渡された座標。
そこへさらに中央の補助鍵。
少しずつ、自分が“そちら側へ入るための条件”を揃えつつあるのが分かってしまう。まるで最初からそういう流れが用意されていたみたいで、胸の奥がざらついた。
ミラは砕けた男を見下ろし、小さく呟く。
「この人、悪いやつだったのかな」
ゼノンはすぐには答えなかった。
辺境の村々を削り、苦しむ人間を“誤差”と呼んだ。
その時点で許す理由はない。
だが最後の最後には、自分のやったことの始末をつけようとしていた。失敗した人間の言い訳に過ぎないのかもしれない。それでも、完全な機械にはなりきれずに死んだことだけは確かだった。
「……悪いことをした奴だよ」
ゼノンは低く言った。
「ただ、それで全部説明が終わるわけでもない」
「よく分かんない」
「俺もだ」
珍しく正直に返すと、ミラは少しだけ目を瞬かせ、それから砕けた残骸へ向かって小さく手を合わせた。
ゼノンは止めなかった。
そのまま二人は塔の外へ出た。
空はすでに明るくなり始めている。森の白い粉も、朝の光を受けると夜よりいっそう不吉に見えた。だが塔の周囲を満たしていた重い圧はかなり薄れている。主導路の吸い上げが切れたのだろう。胸の奥の流れも、さっきまでよりずっと静かだ。
集落へ戻る道すがら、ゼノンは何度か足を止めて流れを確かめた。
第二分流点は安定している。
前の村の井戸側も、濁りがかなり引いた。
辺境第三区画の少なくとも自分が触れた線は、息を吹き返し始めている。
けれど、そのさらに先――北東第六座標とやらへ続く糸だけは、変わらず重かった。
根はまだある。
しかも今度は、こちらが近づいていることを向こうも知っている気がする。
「ゼノンさん」
歩きながらミラが言う。
「さっきの人みたいに、ゼノンさんもなるのかな」
ゼノンの足が、一瞬だけ止まった。
まっすぐすぎる問いだった。
子どもだからこそ、核心をそのまま触ってくる。
「……分からない」
ややあって、ゼノンはそう答えた。
「こういう力に触れてる以上、絶対に大丈夫だとは言えない」
「じゃあ、やめた方がいいんじゃないの」
「それで全部放り出せたら楽だろうな」
言葉にすると、少しだけ苦い。
やめる。
見なかったことにする。
教会にも辺境にも関わらず、どこかへ消える。
そうできたなら、どれだけ楽だったか。
だがもう遅い。
井戸の祭壇に触れた時点で、ただの補助神官だった自分は終わっている。そして、灰白の塔の中継核を見た今、この異変がただの事故ではなく“誰かの意志”で動いていることも知ってしまった。
知った以上、放り出したところで次の村が枯れるだけだ。
「怖い?」
ミラが聞く。
「怖いに決まってる」
ゼノンは少し苛立ったように返す。
「怖くない方がおかしい」
「そっか」
ミラはそれ以上問い詰めなかった。
ただ、小さく頷いただけだ。
その反応が少し意外で、ゼノンは横目でミラを見る。
「何だ」
「ううん。ゼノンさんって、そういうの言わない人かと思ってた」
「どういう意味だ」
「いつも“平気だ”みたいな顔してるから」
ゼノンは答えに詰まる。
平気なわけがない。
ただ、平気な顔でもしていないと前へ進めないだけだ。
集落へ戻る頃には、朝日はすっかり昇っていた。
湧き水のところにはもう何人も人が集まっている。桶へ落ちる水の勢いが、昨夜よりさらに安定しているのが遠目にも分かった。水量はまだ豊かとは言えない。それでも昨日までの死にかけた細さとは明らかに違う。
「増えてる……!」
「昨日の夜よりずっといい!」
「ほんとに戻ってきてる!」
集落の人々のざわめきが広がる。
長が駆け寄ってきた。
「ゼノンさん! 水が……!」
「しばらくは持つ」
ゼノンは短く答えた。
「ただし根本はまだ終わってない。戻ったからって無駄遣いするな。分配を決めろ。畑も全部を一度に生かそうとするな、優先をつけろ」
喜びに浮いた空気へ、あえて冷たい言葉を落とす。
それでも長は何度も頷いた。
「分かっています……それでも、本当に……」
感謝の流れが一気に集まる。
前なら眩暈がしたはずのそれを、ゼノンは静かに受け流した。胸の奥で灯る熱はある。だが今は、それを自分へ取り込まず、足元の土地へ薄く返す余裕が少しだけあった。
集落の空気が、ほんの少しだけ軽くなる。
長ははっとしたように目を瞬いたが、何も言わなかった。
代わりにミラが、隣で小さく笑う。
「またやった」
「気のせいだ」
「ううん、違う」
断言され、ゼノンは面倒そうに眉を寄せた。
集落の人々は水の確認や畑の相談で慌ただしく動き始める。さっきまでここに漂っていた、どうしようもない諦めの色はかなり薄れた。まだ何一つ解決していないのに、それでも今日を生きるための動きが戻るだけで、人はここまで変わる。
それを見ながら、ゼノンは袋の中の結晶と補助鍵を握りしめた。
崩聖堂。
北東第六座標。
深層閲覧権限。
次の場所は、もう決まっている。
問題は、ここからだ。
灰白の塔の中継核を止めたことで、向こうも異変に気づいただろう。別の誰かが先へ進んでいるなら、こちらが動くほど相手との距離も縮まる。
集落の長が水場の向こうから聞いた。
「次は、どこへ行くんですか」
ゼノンはすぐには答えなかった。
辺境の小さな集落に、それを正直に話しても混乱しか生まない。だが何も言わずに去れば、不安だけが残る。
少し考え、ゼノンはこう言った。
「壊した元を探しに行く」
長は言葉を失ったようだった。
ミラは隣で、静かに前を向いている。
ゼノンは視線を北東へ上げた。
森のさらに先、まだ見ぬ地点へ、胸の奥の糸が確かに伸びている。
祈りに応えるだけでは、もう足りない。
流れを壊している側へ辿り着かなければ、同じことが繰り返される。
そのためには、もっと深く潜るしかない。
そしてその先で、自分がどこまで変わるのか――
まだ、答えはないままだった。




