第2話 見捨てられた村
夜の街道は、昼よりもずっと冷たかった。
迷宮を出てから半日。ゼノンは月明かりだけを頼りに、石畳の途切れた街道を一人で歩いていた。背負い袋は軽い。軽すぎる。旅の荷としては最低限でしかなく、それがかえって自分の立場を突きつけてきた。
勇者パーティを追放された補助神官。
その肩書きに、もう何の価値もない。
街へ戻ればどうなるかは分かっていた。ギルドは勇者パーティの判断を優先する。聖教会も、勇者に逆らってまで自分を庇うことはない。せいぜい「残念でしたね」と気の毒そうな顔をされて終わりだ。下手をすれば、迷宮攻略から外された半端者として仕事も回ってこなくなる。
なら、中央に戻る意味はない。
ゼノンは途中で立ち止まり、道端の標識に目をやった。片方は王都方面、もう片方は辺境方面。辺境側の木札は半ば朽ち、文字も掠れている。人があまり通らない証拠だった。
「……こっちか」
独り言は、驚くほど素直に出た。
誰のためにも頑張らない。そう決めたばかりだ。だったら、誰にも期待されない場所へ行けばいい。役立たずとして切り捨てられた人間には、見捨てられた土地くらいがちょうどいい。
自嘲気味に笑い、ゼノンは辺境へ続く道へ足を向けた。
歩き始めてしばらくすると、風に妙な臭いが混じり始めた。腐った水のような、甘ったるいような、生ぬるい臭い。鼻の奥にへばりつくような不快さに、ゼノンは眉をひそめる。
「……病か?」
前世の知識と、この世界で神官として学んだ経験。その両方が、同じ嫌な予感を告げていた。
やがて木々が開け、暗がりの向こうに小さな村が見えてきた。
粗末な柵。崩れかけた見張り台。畑は半分以上が放置され、収穫どころか雑草の方が勢いを増している。家々の窓には明かりが少なく、どこか村全体が息を潜めているようだった。
ゼノンが村の入り口まで近づいた時、不意にか細い咳が聞こえた。
「ごほっ……ごほっ……」
音の方へ視線を向けると、柵の陰に小さな人影がうずくまっていた。十歳前後の少女だった。痩せた肩を震わせ、口元を押さえている。月明かりの下でも顔色の悪さが分かる。
「おい、大丈夫か」
声をかけると、少女はびくりと肩を震わせた。怯えた目でゼノンを見上げ、その視線が法衣の裾に止まる。
「……神官さま?」
その一言に、ゼノンは少しだけ返答に詰まった。
自分はもう、誰かにそう呼ばれる資格があるのだろうか。
だが少女はそんな迷いも知らず、すがるように身を乗り出した。
「おねがい……たすけて。おかあさんが……みんな、熱が……」
言い終わる前に、少女の体がぐらりと傾いた。
ゼノンは慌てて受け止める。軽い。驚くほど軽い。抱え上げた体は熱を持ちすぎていて、薄い衣服越しでも異常が伝わってくる。
これはただの風邪じゃない。
ゼノンは舌打ちを飲み込み、そのまま村の中へ足を踏み入れた。
家の扉を叩くと、しばらくして中からやつれた女が顔を出した。少女の母親らしい。ゼノンの腕の中の子どもを見た瞬間、女の顔が青ざめる。
「ミラ!」
女は少女を抱き寄せようとして、ふらついた。自分も熱があるのだ。呼吸は浅く、額には脂汗が滲んでいる。
「寝床は?」
「お、奥に……」
ゼノンは頷き、少女――ミラを寝台に寝かせた。室内には湿った熱気がこもり、薬草を煎じた痕跡はあるものの、効いていないことは一目で分かる。隅では年老いた男が苦しげに横になり、そのそばで幼い子どもが不安そうにうずくまっていた。
村の一家だけじゃない。村全体に広がっている。
「この村に神官は来ていないのか」
ゼノンが問うと、母親は唇を震わせた。
「教会には……何度も知らせを出しました。けど、辺境に回す人手はないって……薬だけ送るって……でも、その薬も、もう……」
言葉が続かず、女は俯いた。
辺境に神官を送る余裕がない。
いかにも教会が言いそうな言い分だった。間違ってはいないのだろう。中央にも守るべき街があり、重要な拠点があり、優先順位がある。限られた人員をどう配分するかを考えれば、辺境は後回しになる。
正しい。正しいが、救いにはならない。
ゼノンはミラの額に手を当てた。熱い。脈も乱れている。
神授魔法で対処できる範囲か。軽症なら何とかなる。だが村全体となると話は別だ。自分一人の魔力でどこまで持つか分からない。しかも追放された直後で、触媒も十分ではない。
やるべきではない、という理屈はすぐに浮かんだ。
今の自分は誰にも所属していない。無償で病人を診て回ったところで、得るものはない。魔力を消耗して倒れれば、それで終わりだ。村人に感謝されたところで、明日の宿代にもならない。
それでも。
ミラが薄く目を開け、掠れた声で言った。
「たすけて……」
その二文字だけで、胸の奥が痛んだ。
嫌になる。こういうところだ。だから前世でも使い潰された。見捨ててしまえば合理的なのに、目の前で苦しんでいる人間を見ると、それができない。
ゼノンはゆっくり息を吐いた。
「分かった。診る」
母親がはっと顔を上げる。
「ほ、本当ですか……!」
「期待はするな。俺にできるのは応急処置程度だ。万能じゃない」
わざと冷たく言った。変に希望を持たせて、救えなかった時の顔を見るのが怖かったからだ。
だが女はそれでも涙ぐみながら何度も頭を下げた。
「ありがとうございます……ありがとうございます……!」
礼を言われるたび、胸がざわつく。
ゼノンは雑念を振り払い、荷袋から触媒石と簡易の聖布を取り出した。まずは症状の重い者からだ。高熱、咳、呼吸困難、皮膚の黒ずみ。単なる疫病というより、何か瘴気めいたものが混じっている感覚がある。
「水はどこから取ってる」
「村の裏の井戸です……でも最近、水の味が変で……」
「先に言え」
思わず鋭く返すと、女は肩をすくませた。責めても仕方がない。知識のない村人に異変の重大さを見抜けという方が無理だ。
ゼノンは短く術式を唱え、ミラの体に回復の光を流し込んだ。淡い光が少女の額から胸元へと沈み込み、荒かった呼吸がほんの少しだけ落ち着く。
だが、ほんの少しだ。
根が深い。熱を抑えるだけでは追いつかない。
「……面倒な病気だな」
神授魔法は本来、神が定めた術式に沿って奇跡を起こす力だ。傷を塞ぎ、毒を和らげ、穢れを祓う。だがそれは、あくまで聖典に記された範囲での話。複雑に絡んだ病や、原因不明の汚染には途端に効きが悪くなる。
ゼノンは次に老人へ、次に母親へ、次に隣家へと回った。
扉を開けるたび、似たような光景が広がる。寝込む大人、泣く子ども、諦めたような目。村に漂っていた静けさの正体は、生気のなさだった。
治しても治しても追いつかない。
額から汗が落ちる。魔力の消耗で視界が少し揺らぐ。
それでも手を止めるわけにはいかなかった。
何軒目かの家を出たところで、背後から年老いた村長らしき男に呼び止められた。
「神官さま……本当に、助かるのでしょうか」
か細い声だった。
ゼノンはすぐには答えられなかった。
助かる、とは言えない。今の自分の力では村全員を完治させる保証はない。せいぜい今夜を越えられるように手当てするのが限界かもしれない。
それでも男は、答えを待っていた。神官という肩書きに、奇跡を期待していた。
その目が、たまらなく重かった。
「……死なせないようにはする」
精一杯の答えだった。
男はそれを聞いて、泣きそうな顔で深く頭を下げた。
「それだけで……十分です」
十分なわけがあるか、とゼノンは心の中で吐き捨てる。
だが、その言葉が妙に耳に残った。
いないよりマシ。
少しでも楽になるなら十分。
今日を越えられるなら、それでいい。
勇者パーティでは、そんな評価は一度もされなかった。もっと完璧に、もっと早く、もっと役に立てと求められるだけだった。足りないところばかり見られていた。
なのにこの村では、自分の中途半端な力ですら必要とされている。
それが、ほんの少しだけ胸を熱くした。
ゼノンは村長に向き直った。
「井戸を見せろ。病の元があるなら、そっちをどうにかしない限り終わらない」
「は、はい……! こちらです」
村長に案内され、ゼノンは村の裏手へ向かった。
月明かりの下、井戸は黒い口を開けていた。周囲の土は不自然にぬかるみ、石組みの隙間には黒ずんだ苔のようなものが張りついている。近づいた瞬間、胸の奥がぞわりと粟立った。
冷たい夜気の中、その井戸だけが妙に生ぬるい。
「……なんだ、これ」
神授魔法の感覚に引っかかる。穢れに近い。だが、聖典で学んだどの汚染とも違う。もっと古く、もっと得体の知れない何かが、井戸の底で脈打っているような感覚。
ゼノンは井戸の縁に手をかけ、暗い底を覗き込んだ。
その瞬間。
ずくん、と頭の奥で脈打つような痛みが走った。
視界が一瞬だけ揺らぎ、暗闇の底で、何かが淡く光った気がした。
「……っ」
「神官さま?」
村長の声が遠い。
ゼノンは額を押さえながら、もう一度井戸の底を睨んだ。
ただの疫病じゃない。
この村の地下に、何かある。
そう直感した。
追放されたその日に辿り着いた辺境の村。
見捨てられた人々。
教会の魔法でも届かない病。
そして、井戸の底で脈打つ異物。
ゼノンはゆっくりと息を吐いた。
「……面倒事の匂いしかしないな」
誰に聞かせるでもなく呟いて、それでも彼は井戸から目を離さなかった。
まだ知らない。
この村の地下に、聖教会が封じた禁忌へと繋がる入口が眠っていることを。
そして、自分の運命が今、確かにそこへ引き寄せられ始めていることを。




