第1話 追放の宣告
迷宮第三層、湿った石壁に血の匂いがこびりついていた。
「ゼノン! まだか!」
勇者ユリウスの声が飛ぶ。その直後、前衛の剣士ガルドが巨大な魔獣の爪を受け、鈍い音とともに吹き飛ばされた。鎧が砕け、床に転がった体から赤黒い血が広がっていく。
ゼノンは反射的に聖句を唱えた。
「癒しの灯よ、傷を塞げ――ヒール」
淡い光がガルドの胸を包む。だが、深く裂けた傷はじわりと閉じるだけだった。致命傷には届かない。止血と痛みの緩和、それが今のゼノンにできる精一杯だった。
「浅い! こんなんじゃ意味がねえ!」
ガルドが歯をむき出しにして怒鳴る。
その間にも魔獣は咆哮し、尾で壁を叩き砕いた。飛び散った石片がゼノンの頬を切る。痛みを感じる暇もなく、ゼノンは次の術式を組み立てる。補助強化、視界補正、足場固定。どれも派手ではない。だが前衛を生かし、後衛の魔術師を守るには必要な仕事だった。
必要な、はずだった。
「チッ、下がってろ!」
ユリウスが黄金の剣を抜き放つ。神授魔法の光が刀身に宿り、眩い軌跡を描いた。一閃。二閃。遅れて聖女リーシャの祈りが重なり、純白の光が魔獣を灼く。
最後は、勇者の一撃だった。
魔獣の首が落ちる。巨体が倒れ、迷宮全体が震えた。
静寂が戻る。
荒い息のなかで、ゼノンは倒れたガルドのそばへ駆け寄った。傷は深いが、命は繋いだ。少なくとも、そう判断した瞬間だった。
ごつ、と重い靴音が目の前で止まる。
「……お前のせいだ」
見上げると、ガルドが血走った目で睨んでいた。
「もっと早く回復できてりゃ、俺はこんな傷を負わなかった」
「無茶な踏み込みをしたのはお前だ。あの距離で単独で前に出れば――」
「言い訳か?」
低く、押し殺した声。ガルドだけではない。後方にいた魔術師も、荷運び役も、誰もが同じような目をしていた。責める相手を探す目だ。
ゼノンは口を閉じた。
こういう空気を、知っている。
前世でもそうだった。納期に追われる現場で、無理なスケジュールを組んだ上司は責められない。顧客に見栄を張った営業も責められない。皺寄せを受けて、穴を埋めきれなかった人間だけが責められる。必死に残業して、倒れそうになって、それでも最後に言われるのはひとつだ。
お前のせいだ。
耳の奥で、聞き慣れた罵声が蘇る。
『使えないな』
『努力してる? 結果が出てないよね』
『代わりはいくらでもいるんだよ』
頭の奥がずきりと痛んだ。忘れたはずの記憶が、迷宮の冷気の中で妙にはっきりと浮かび上がる。
代わりはいくらでもいる。
その言葉を、今度は別の声が口にした。
「ゼノン」
ユリウスだった。
彼は剣の血を払いながら、いつもの穏やかな顔でこちらを見ている。その顔に悪意はない。だからこそ、残酷だった。
「お前には、もうこの先の攻略は任せられない」
一瞬、意味が分からなかった。
「……何を言ってる?」
「そのままの意味だよ」
ユリウスは淡々としていた。まるで天気の話でもするように。
「次の階層から敵はもっと強くなる。ガルドが今日みたいな傷で済む保証はない。リーシャの回復があるとはいえ、補助役が足を引っ張れば全滅もあり得る」
「足を、引っ張る……?」
「言い方は悪いが、事実だ」
ゼノンの胸の奥で、何かが静かに折れる音がした。
自分が決して突出した存在ではないことくらい分かっていた。回復も攻撃も一級ではない。だが、ここまで来る間、誰の背中を支え、誰の消耗を計算し、誰の無茶を補ってきたと思っているのか。
眠れぬ夜に聖典を読み込み、術式の組み合わせを研究し、戦闘後には誰より先に立ち上がって傷を診てきた。目立たない仕事ばかりだった。だが、それでも役には立っていると思っていた。
思っていたのは、自分だけだったらしい。
「待って、ユリウス」
リーシャが一歩前に出た。白銀の髪が揺れる。
「今日の傷はガルドの無理もあったわ。ゼノンがいなかったら、止血も間に合わなかった。ここで切るなんて――」
「リーシャ」
ユリウスは彼女の言葉を静かに遮った。
「情で判断する場面じゃない」
「でも!」
「俺は勇者として、全員を生きて帰さなきゃいけない」
それは正論だった。あまりに正しすぎて、反論の余地がない。
だからこそ、ゼノンには分かった。
ユリウスは、本気で自分が正しいと思っている。誰かを傷つけるつもりなんてない。ただ必要ない駒を盤上から外すだけだ。そこに躊躇がない。悪意がない。だから一番たちが悪い。
ガルドが鼻を鳴らした。
「最初からそうすりゃよかったんだ。中途半端な神官なんざ荷物でしかねえ」
荷物。
ずいぶん軽く言ってくれる。
ゼノンは立ち上がった。膝が少し笑っていたが、見せないようにした。
「……分かった」
リーシャがはっと顔を上げる。
「ゼノン、あなた――」
「もういい」
自分でも驚くほど、声は平坦だった。
「これ以上ここで何を言っても、決定は変わらないんだろ」
ユリウスは答えない。それが答えだった。
ゼノンは背負い袋を拾い上げる。水袋、保存食、応急用の触媒石、予備の法衣。荷物は驚くほど少ない。数年一緒に旅をしたはずなのに、自分がこのパーティに残したものは、その程度の重さだった。
通り過ぎざま、リーシャが小さく囁いた。
「ごめんなさい……私、止められなくて」
ゼノンは振り返らなかった。
「お前が謝ることじゃない」
本当は違う。誰か一人でも本気で食い下がってくれたなら、少しは救われたのかもしれない。けれど、そんな言葉を吐いたところで惨めになるだけだった。
迷宮の出口へ向かう通路は、入ってきた時よりずっと暗く感じた。
一歩進むごとに、胸の奥に沈んでいた記憶が浮かび上がる。蛍光灯の白いオフィス。謝罪メール。終電。安い栄養ドリンク。机に突っ伏したまま迎えた朝。あの時もそうだった。必死に働いた末に切り捨てられた。
世界が変わっても、結局同じだ。
頑張った人間から先に壊れて、要領のいい奴が正しさを振りかざす。
迷宮の外に出ると、夕暮れの風が頬を打った。血と湿気の匂いが薄れ、代わりに草の匂いが鼻をくすぐる。
ゼノンはそこでようやく立ち止まった。
拳を握る。爪が掌に食い込む。
「……もう誰のためにも頑張るものか」
吐き捨てた言葉は、自分自身への呪いのようでもあった。
空は赤かった。まるで何かの終わりを祝うように、あるいはこれから始まる破滅を照らすように。
行く当てはない。
帰る場所もない。
それでも、足は止まらなかった。
この世界のどこかには、勇者にも教会にも見捨てられた場所がある。そんな考えが、なぜか頭の片隅に引っかかった。自分でも笑ってしまう。誰のためにも頑張らないと誓った直後に、そんなことを思うなんて。
だがその時のゼノンは、まだ知らなかった。
辺境の果てで出会う絶望も。
地下遺跡に眠る禁忌も。
そして、見捨てられた者たちの祈りが、自分を“神”に変えてしまうことも。




