表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

第1話 追放の宣告

 迷宮第三層、湿った石壁に血の匂いがこびりついていた。


「ゼノン! まだか!」


 勇者ユリウスの声が飛ぶ。その直後、前衛の剣士ガルドが巨大な魔獣の爪を受け、鈍い音とともに吹き飛ばされた。鎧が砕け、床に転がった体から赤黒い血が広がっていく。


 ゼノンは反射的に聖句を唱えた。


「癒しの灯よ、傷を塞げ――ヒール」


 淡い光がガルドの胸を包む。だが、深く裂けた傷はじわりと閉じるだけだった。致命傷には届かない。止血と痛みの緩和、それが今のゼノンにできる精一杯だった。


「浅い! こんなんじゃ意味がねえ!」


 ガルドが歯をむき出しにして怒鳴る。


 その間にも魔獣は咆哮し、尾で壁を叩き砕いた。飛び散った石片がゼノンの頬を切る。痛みを感じる暇もなく、ゼノンは次の術式を組み立てる。補助強化、視界補正、足場固定。どれも派手ではない。だが前衛を生かし、後衛の魔術師を守るには必要な仕事だった。


 必要な、はずだった。


「チッ、下がってろ!」


 ユリウスが黄金の剣を抜き放つ。神授魔法の光が刀身に宿り、眩い軌跡を描いた。一閃。二閃。遅れて聖女リーシャの祈りが重なり、純白の光が魔獣を灼く。


 最後は、勇者の一撃だった。


 魔獣の首が落ちる。巨体が倒れ、迷宮全体が震えた。


 静寂が戻る。


 荒い息のなかで、ゼノンは倒れたガルドのそばへ駆け寄った。傷は深いが、命は繋いだ。少なくとも、そう判断した瞬間だった。


 ごつ、と重い靴音が目の前で止まる。


「……お前のせいだ」


 見上げると、ガルドが血走った目で睨んでいた。


「もっと早く回復できてりゃ、俺はこんな傷を負わなかった」


「無茶な踏み込みをしたのはお前だ。あの距離で単独で前に出れば――」


「言い訳か?」


 低く、押し殺した声。ガルドだけではない。後方にいた魔術師も、荷運び役も、誰もが同じような目をしていた。責める相手を探す目だ。


 ゼノンは口を閉じた。


 こういう空気を、知っている。


 前世でもそうだった。納期に追われる現場で、無理なスケジュールを組んだ上司は責められない。顧客に見栄を張った営業も責められない。皺寄せを受けて、穴を埋めきれなかった人間だけが責められる。必死に残業して、倒れそうになって、それでも最後に言われるのはひとつだ。


 お前のせいだ。


 耳の奥で、聞き慣れた罵声が蘇る。


『使えないな』

『努力してる? 結果が出てないよね』

『代わりはいくらでもいるんだよ』


 頭の奥がずきりと痛んだ。忘れたはずの記憶が、迷宮の冷気の中で妙にはっきりと浮かび上がる。


 代わりはいくらでもいる。


 その言葉を、今度は別の声が口にした。


「ゼノン」


 ユリウスだった。


 彼は剣の血を払いながら、いつもの穏やかな顔でこちらを見ている。その顔に悪意はない。だからこそ、残酷だった。


「お前には、もうこの先の攻略は任せられない」


 一瞬、意味が分からなかった。


「……何を言ってる?」


「そのままの意味だよ」


 ユリウスは淡々としていた。まるで天気の話でもするように。


「次の階層から敵はもっと強くなる。ガルドが今日みたいな傷で済む保証はない。リーシャの回復があるとはいえ、補助役が足を引っ張れば全滅もあり得る」


「足を、引っ張る……?」


「言い方は悪いが、事実だ」


 ゼノンの胸の奥で、何かが静かに折れる音がした。


 自分が決して突出した存在ではないことくらい分かっていた。回復も攻撃も一級ではない。だが、ここまで来る間、誰の背中を支え、誰の消耗を計算し、誰の無茶を補ってきたと思っているのか。


 眠れぬ夜に聖典を読み込み、術式の組み合わせを研究し、戦闘後には誰より先に立ち上がって傷を診てきた。目立たない仕事ばかりだった。だが、それでも役には立っていると思っていた。


 思っていたのは、自分だけだったらしい。


「待って、ユリウス」


 リーシャが一歩前に出た。白銀の髪が揺れる。


「今日の傷はガルドの無理もあったわ。ゼノンがいなかったら、止血も間に合わなかった。ここで切るなんて――」


「リーシャ」


 ユリウスは彼女の言葉を静かに遮った。


「情で判断する場面じゃない」


「でも!」


「俺は勇者として、全員を生きて帰さなきゃいけない」


 それは正論だった。あまりに正しすぎて、反論の余地がない。


 だからこそ、ゼノンには分かった。


 ユリウスは、本気で自分が正しいと思っている。誰かを傷つけるつもりなんてない。ただ必要ない駒を盤上から外すだけだ。そこに躊躇がない。悪意がない。だから一番たちが悪い。


 ガルドが鼻を鳴らした。


「最初からそうすりゃよかったんだ。中途半端な神官なんざ荷物でしかねえ」


 荷物。


 ずいぶん軽く言ってくれる。


 ゼノンは立ち上がった。膝が少し笑っていたが、見せないようにした。


「……分かった」


 リーシャがはっと顔を上げる。


「ゼノン、あなた――」


「もういい」


 自分でも驚くほど、声は平坦だった。


「これ以上ここで何を言っても、決定は変わらないんだろ」


 ユリウスは答えない。それが答えだった。


 ゼノンは背負い袋を拾い上げる。水袋、保存食、応急用の触媒石、予備の法衣。荷物は驚くほど少ない。数年一緒に旅をしたはずなのに、自分がこのパーティに残したものは、その程度の重さだった。


 通り過ぎざま、リーシャが小さく囁いた。


「ごめんなさい……私、止められなくて」


 ゼノンは振り返らなかった。


「お前が謝ることじゃない」


 本当は違う。誰か一人でも本気で食い下がってくれたなら、少しは救われたのかもしれない。けれど、そんな言葉を吐いたところで惨めになるだけだった。


 迷宮の出口へ向かう通路は、入ってきた時よりずっと暗く感じた。


 一歩進むごとに、胸の奥に沈んでいた記憶が浮かび上がる。蛍光灯の白いオフィス。謝罪メール。終電。安い栄養ドリンク。机に突っ伏したまま迎えた朝。あの時もそうだった。必死に働いた末に切り捨てられた。


 世界が変わっても、結局同じだ。


 頑張った人間から先に壊れて、要領のいい奴が正しさを振りかざす。


 迷宮の外に出ると、夕暮れの風が頬を打った。血と湿気の匂いが薄れ、代わりに草の匂いが鼻をくすぐる。


 ゼノンはそこでようやく立ち止まった。


 拳を握る。爪が掌に食い込む。


「……もう誰のためにも頑張るものか」


 吐き捨てた言葉は、自分自身への呪いのようでもあった。


 空は赤かった。まるで何かの終わりを祝うように、あるいはこれから始まる破滅を照らすように。


 行く当てはない。


 帰る場所もない。


 それでも、足は止まらなかった。


 この世界のどこかには、勇者にも教会にも見捨てられた場所がある。そんな考えが、なぜか頭の片隅に引っかかった。自分でも笑ってしまう。誰のためにも頑張らないと誓った直後に、そんなことを思うなんて。


 だがその時のゼノンは、まだ知らなかった。


 辺境の果てで出会う絶望も。

 地下遺跡に眠る禁忌も。

 そして、見捨てられた者たちの祈りが、自分を“神”に変えてしまうことも。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ